芦川羊子

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芦川 羊子(あしかわ ようこ、1947年(昭和22年)2月23日 - )は昭和・平成期の舞踏家千葉県出身。武蔵野美術大学卒。本名は洋子。

略歴[編集]

1967年、石井満隆に誘われて土方巽アスベスト館に入る。美大生でそれまでダンス経験はなかったが、1968年8月3日、第1回リサイタルを草月会館ホールで開催した。構成・演出・振付は土方巽。きわめて短い訓練期間でソロ・リサイタルを開いたことになる。 土方はそれまで、男性の舞踏家を中心に舞台をつくっていたが、この頃からアスベスト館に女性が入るようになる。こののちアスベスト館の中核的ダンサーとなり、土方巽の舞踏に欠かせない舞踏家へと成長することとなった。

1968年、澁澤龍彦責任編集の『血と薔薇』(第2号)で土井典製作の「鍵のかかる女」の貞操帯を着用して立木義浩撮影で表紙を飾った。1970年、幻獣社、1974年に小林嵯峨とともに白桃房(暗黒舞踏集団)を結成した。土方の全作品を踊った。土方は白桃房のことを暗黒宝塚と称していた。一貫したテーマは死者の霊であった。のちヨーロッパ公演をおこなう。1984年、土方・吉岡実(詩人)とともに、神戸の永田耕衣を訪問。耕衣を驚嘆させた。耕衣はこの後、11句を土方に捧げている。土方のグループの舞踏技術のひとつとして、口をすぼめてまるで歯のない人間のように見せるものがあるが、芦川はそのために歯をすべて抜いている[1]

土方没後は「犬になるための皮膚時計」など新しい踊りを追求した。ウーマンリブ運動の一角も担った。

脚注[編集]

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  1. ^ 『僕はアメリカ人のはずだった』デイビッド・ムラ、柏艪舎 (2003/4/1)p65

出典[編集]

  • 元藤燁子『伝記土方巽とともに』筑摩書房、1990年
  • 土方巽『美貌の青空』筑摩書房、1991年
  • 「アスベスト館通信」第1号(1986年10月刊)
  • 永田耕衣『句集人生』(沖積舎)

関連項目[編集]