興道春宗

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興道 春宗(おきみち の はるむね、生没年不詳)は、平安時代前期の官人宿禰官位従五位下紀伊介

経歴[編集]

陽成朝元慶3年(879年伊勢斎宮識子内親王)の行禊の実施に際して、春宗は参議在原行平らとともに長送伊勢斎内親王使を務める。この時の官位正六位上右大史であったが、のち左大史に昇任される。

元慶5年(881年従五位下紀伊介に叙任される。同年10月に以下の通り、紀伊国におけるこれまでの大帳による百姓162人分の勘出物の弁済・補填の免除を太政官に言上し許されている[1]

承和年間(834年-848年)以降は庸調返抄を求めることがなく、僅かに損益帳のみを求めていたが、元慶元年(877年)以降は損益帳もないまま勘出を行っている。このため、年を経るごとに無闇に弁済すべき勘出物が積み上がっている。ついては、元慶4年(880年)末の清和上皇崩御に伴って実施された大赦の恩恵により、勘出物弁済を免除してほしい。

仁和元年(885年)引き続き紀伊介の官職にあったが、使用してなかった悪稲57941束が既に藁芥となって用を為さなくなっているため、未納に準じて処分することを請い、許されている[2]

官歴[編集]

日本三代実録』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本三代実録』元慶5年10月16日条
  2. ^ 『日本三代実録』仁和元年3月10日条

参考文献[編集]