臼井六郎

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臼井六郎

臼井 六郎(うすい ろくろう、1858年安政5年) - 1917年大正6年)9月4日)は、江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての士族秋月藩家老臼井亘理の長男。

日本史上最後の仇討をしたことで知られる。明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪されるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。

生涯[編集]

発端[編集]

当時の雰囲気を残す秋月城下町の路地

慶応4年(1868年)5月23日、風雨が強いその日の深夜、一家が就寝中の臼井邸に忍び込んだ干城隊の手により、父・亘理と母・清子が惨殺された。七つ半(午前5時)頃、下女の知らせを受けた祖父・儀左衛門が脇差提灯を持って現場に駆けつける。

激しい妹の泣き声と騒々しい物音で起き出してきた11歳の六郎は、両親が殺害され、隣室で寝ていた3歳の妹・つゆが怪我を負った事を知らされる。両親の寝所に入る事を禁じられ、夢ではないかと呆然としていた所、縁側に張り付いた長い髪の毛と血に染まった骨を見つける。父母が本当に殺された事を悟った六郎は、その骨と髪の毛を取り集めて紙に包みながら父母の寝所に至った。そこには身体が肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ、髪の毛に絡んだ血肉が襖や廊下に飛び散った母の姿があった。

この言語を絶する凄惨な光景を見て、六郎は父母が何故このような事になったのか、叔父の渡辺助太夫や親族に聞いた。助太夫は父・亘理には何の罪もない事、犯人は干城隊であると答えた。六郎は幼い身ながら、「骨髄二徹シ切歯憤怒二堪ヘズ必ズ復讐スベキ」と復讐を堅く誓った。

渡辺助太夫ら親族・知人が即日藩庁へ事件を届け出るが、訴えを受けた家老・吉田悟助は亘理が殺されたのは自業自得と切り捨てた。そして本来、首桶に丁重に納めて遺族に返されるべき首は、干城隊が屯所の庭に捨て置いたので、持って帰れと言い放った。父の首は、後に臼井邸の庭に投げ入れられたのが見つかった。

酔って熟睡している相手の寝込みを襲い、女子供にまで手をかけた干城隊の所業は、士道にも人の道にも外れた非道な行為であったにも関わらず、7月8日に藩庁から出された裁定は、干城隊は「国家のため奸邪を除く赤心より出候事」「忠誠の士」として無罪、亘理に対しては「自分の才力を自慢し、国を思う気持ちが薄いその態度が今回の災いを招いたものであり、本来なら家名断絶に等しいが、家筋に免じて減禄に処す」という臼井家にとっては非常に理不尽なものであった。尊王攘夷の嵐が吹き荒れたこの時代、尊王を唱えれば非道な暗殺もすべて義挙とすり替えられたのである。

臼井家では嫡男の六郎がまだ幼いため、養子に出ていた亘理の長弟・渡辺助太夫が臼井家に戻って家督を相続する事になる。50石を減ぜられ、罪人のような扱いを受けるが、家を守るために臼井家は耐え忍ぶしかなかった。臼井家の親族や亘理を支持する藩士たちは、藩のあまりに理不尽な裁定を批難し、公正な藩政を求めて宗藩である福岡藩に訴え出るが、逆に訴えた側が罰せられ投獄されるという結果となり、亘理暗殺以降二つに割れた秋月藩は、そのまま明治となって武士の時代の終わりを迎える事になる。

復讐を誓う[編集]

叔父の渡辺助太夫は臼井慕と改名し、六郎の養父となる。六郎は仇の氏名を知ろうとするも、そのすべもなく悲嘆していた同年9月頃、通っていた稽古館干城隊士・山本克己(一瀬直久)の弟・道之助が級友3、4人を相手に自慢話をしているのを偶然聞いた。兄の克己が家伝の名刀を持ちだし、国賊・臼井亘理を斬殺して、名刀の歯を欠けさせたのだという。

六郎は天のお告げと家に飛んで帰って養父に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出た。しかし養父は「復讐は大昔から国の大禁である。己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、そのことわりを研究し、その後で己で決める事だ。軽々しく粗暴な挙動に出てはならない」と堅く戒めた。仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできる相手ではなかった。また吉田悟助ら干城隊一派の天下である今、不用意な言動は慎まなければならなかったのである。またある日投書があり、母の殺害犯は萩谷伝之進である事が判明した。父の殺害犯山本と共に名が書かれていて、世上の噂とも一致し、六郎は復讐の念を募らせて再三養父や親族に訴えるが、大人達はそれを許さず、学問をして志を堅くし、その後に自分で決める事であると諭した。六郎は心苦しみながらも、非道の敵を討つ事が自分の使命だと思い定め、父母の無念を晴らすべく武術と勉学に打ち込んだ。

事件の翌年、明治と改元、1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県が発布される。亘理暗殺事件で秋月藩の非法を宗藩に訴えて福岡に幽閉されていた藩士11名が釈放され、その中に亘理の次弟である上野月下がいた。月下は身体が癒えると、秋月を嫌い東京へ出た。1872年(明治5年)、15歳になった六郎は密かに東京の月下に父の仇を知った事を書き送った。月下からの返事には、次兄・慕(助太夫)から聞いた話として、事件の真相が書かれていた。

御殿の門番の者が、山本克己の父・亀右衛門が息子への怒りを口にしていたのを聞いていた。亀右衛門は亘理の改革の支持者であったが、息子の克己が家伝の名刀を持ち出し、刃こぼれさせた理由を問いただすと、亘理暗殺に使った事を白状した。亘理を尊敬していた亀右衛門は怒り、息子を手討ちにしようとまで思ったが、亘理暗殺は家老・吉田悟助も合意の上での、いわば「上意討ち」であると言われ、それも出来なかったと嘆いたという。

この年に山本克己が東京に移住した事を知り、六郎はむなしく東の空を仰いだ。

1873年(明治6年)2月、「仇討ち禁止令」が出される。

1876年(明治9年)5月、19歳の六郎は三奈木小学校の教師となる。一刻も早く東京へ向かいたい六郎はその3ヶ月後、親族の木付篤が上京する事を知って、養父に東京に出て新しい学問を学びたいと申し出る。同行者もいる事から東京行きを許され、8月23日、父の形見の短刀を密かに携えて木付と共に秋月を旅立った。

東京へ[編集]

東京に着くと木付と別れ、東京西久保明船町(現・渋谷)に住む叔父・上野月下宅に寄宿した。それから間もない10月27日、秋月では士族による新政府への反乱・秋月の乱が起こった。首謀者は干城隊の幹部であり、事件は数日後に政府軍に鎮圧され、宮崎車之助ら幹部7人が自刃した事を新聞で知った六郎は、仇の一味に天罰が下ったのだと思った。

東京へは勉学修業といいながら、目的は一瀬直久と改名した仇の山本克己の居所を探る事であった。一瀬は旧福岡藩士の尊王攘夷派であった早川勇の伝で、愛知裁判所の判事として名古屋の裁判所に勤務している事がわかった。名古屋に飛んでいきたかったが、養父から貰った金も乏しく、東京の叔父の暮らしも楽では無かった。ある日、六郎は四谷仲町にあった山岡鉄舟の春風館道場の前を通りかかり、ここで住み込みの書生に雇ってもらおうと、翌朝早々に叔父を同伴して道場を訪れ、入門を許された。六郎は翌日朝早くから、道場の拭き掃除、庭や門前の掃除などよく働き、勉学に励み剣術修業に打ち込んで、鉄舟夫人・英子に可愛がられた。また鉄舟の友人・勝海舟邸に出入りする事もあった。

12月4日には逃亡していた秋月の乱の首謀者・今村百八郎益田静方が斬首刑となった事を新聞で知り、また仇に天罰が下った事に感謝した。

1877年(明治10年)2月、西南戦争西郷隆盛が自刃、さらに翌年には大久保利通暗殺と、明治維新の立役者たちの死去は、激動の時代の終焉を人々に思わせた。しかし六郎はそんな世の中の変遷を余所に、仇の居所を探る事に日々を費やした。養父・慕と叔父・月下に父母が被害にあった原因を知りたいと強く懇願し、10月に月下から返事が来て、初めて父の職務の事、暗殺事件での藩の理不尽な裁定など詳細を知り、父は職務を全うしたのみで非がない事、犯人側の残酷な行為が何ら罪に問われていない事を確信した。手紙には私怨の復讐は極力避けるべきだと叔父の言葉も書かれていたが、六郎は父の不幸を思い、復讐の志を一層堅くした。

上京している旧秋月藩士を訪ねては、さりげなく一瀬直久の居所を探った。一瀬は上京した旧秋月藩士の中で一番の出世組で話題に上る事が多く、六郎が消息を訪ねても怪しまれる事はなかった。

1878年(明治11年)春、21歳の六郎は一瀬が転任して静岡裁判所の判事となり、甲府支庁に勤めている事を知る。東京から急げば歩いて3日の距離であり、この朗報に小躍りした六郎は、すぐにでも甲州街道を走り出したい気持ちであったが、山岡鉄舟の書生の身であり、迷惑をかける訳にはいかず、口実を設けるため思案のすえ仮病を使うことにした。「最近撃剣を学んでおりますが、練習が過ぎて少々胸部を痛めたので、しばらくの間神奈川県武州小河内村の温泉で湯治したいと思います」と申し出て許された。

4月初旬、東京を発って甲州に赴き、旅館の一室を借りて一瀬が出歩きそうなところを探索してみたが一度も姿を現さない。一ヶ月も過ぎた頃、銭湯で「裁判所の所長さんは明日東京に行かれるそうな」という話を耳にした六郎は一瀬に違いないと翌朝宿を出て裁判所の門外にたたずみ、退庁するのを待ったが一瀬は現れない。翌朝も出かけたが同様の結果で、これは前日のうちに上京したのかと翌日、東京方面へ走ったが途中で一瀬に遭遇する事なく東京へ着いてしまった。5月初めの事で、その後も探索してみたが不調で、銭湯での噂は誤りであったと悔やんだ。6月になって再度甲府に行ってみたが、一瀬の姿を発見できず、路銀も尽きてきたため、東京に戻らざるを得なかった。生計のために11月に群馬県熊谷裁判所雇員として勤務するが、明治12年夏、夏期休暇に入ると一瀬が上京するのではないかと退職し、東京に戻って一瀬を待ったが見つける事は出来なかった。

明治13年[編集]

1880年(明治13年)、東京に出てきて4年が経ち、23歳になった六郎は仇の姿を見つけられないまま無念の日々を送っていたが、11月半ば、旧秋月藩士・手塚佑の家を訪ねると、一瀬が東京上等裁判所に転勤し、すでに東京に戻って本芝3丁目に住んでいる事を知る。六郎は時機到来を悦び、心構えのため、討ち損じて自分が討たれた場合には事情を話す事が出来ないので、復讐の理由を記した書面を肌身に付けた。

裁判所までの通勤道を朝夕出退時間を見計らって見回ったが、一度も一瀬と遭遇せず、住居が間違っているのかと思い裁判所の門前なら確実であろうと、また朝夕裁判所の門外に立ち毎日周辺を徘徊して要撃の機会を伺ったが、どうしても一瀬の姿は見えない。ところが12月13日に銀座鍋町を通行中、突然一瀬を見かけた。市中では手を出せないので、密かに後を追うと、尾崎某と表札のある家に入った。その帰途を狙うべく尾崎宅前を張っていたが、いつの間にか一瀬の姿を見失ってしまった。しかし東京にいる事は間違いないので、さらに注意して上等裁判所の門前で待ったが、2、3日経っても現れない。12月17日、いつものように上等裁判所前で一瀬を待ったが、10時になっても出勤しないのでその日は諦めて帰ろうとしたが、以前一瀬が時々碁を囲みに旧秋月藩主の黒田邸を訪れる事を思い出す。何が手掛かりが得られるかもしれないので、いつ一瀬に遭遇してもいいように短刀を忍ばせ京橋区三十間堀3丁目10番地(現・銀座6-15、6-16あたり)の黒田邸に向かった。

決行[編集]

黒田邸の1棟には家扶の鵠沼文見人が住んでいて、在京の秋月人が旧藩主へのご機嫌伺いに時々訪れていた。鵠沼の妻は六郎の伯母の長女・わかで、六郎の従姉妹にあたる。鵠沼の家を訪れた六郎は、留守だったので待たせてもらい、2階に上がった。2階は旧秋月藩士たちが集まる場所になっていて、いくつかの火鉢や机が置いてあった。そのうち鵠沼が戻り、無沙汰を詫び近況を報告した。幸い鵠沼は亘理暗殺事件のかなり後にわかと結婚したので、事件の事はあまり知らず、気安く世間話をしていると、階段を上がってくる足音がして、障子が開くとそこには一瀬の姿があった。六郎は思わず息をのむが、気配を悟られないよう顔を伏せた。一瀬は会釈して少し離れて座り、誰かを待つ風であった。六郎は懐の短刀に手を伸ばすが、階段から足音がして白石真忠と原田種中2人の旧藩士が入ってきた。この場で飛び出せば邪魔が入る事は確実で、この好機を逃すと積年の辛苦も水の泡になる、ならば帰途を狙うかと焦るが、一瀬が郵便を出すのを忘れていたと言い出した。階下の下男に頼んで来ると言い、その場の後輩たちが出して来ましょうかと言ったが、一瀬はそれを断って階段を降りていった。六郎ははやる気持ちを抑え、鵠沼に厠の場所を訪ねて、階下と聞くと「失礼」と部屋を出た。

階段を降りた辺りに一瀬の姿は見えず、六郎は階下の小部屋にある屏風の陰に身を潜めた。懐の短刀を取り出し、帯に挟んで身を整えた。そこに下男に手紙を渡して引き返して来た一瀬が階段を上ろうとした時、「父の仇、覚悟せよ」と声を掛けた。一瀬は顔色を変え表を指して逃げようとするが、追いかけて左手に襟元をつかみ、右手の短刀を抜いて喉元目がけて突き刺した。しかし襟元にあたって突き損ね、手早く取り直して胸部を刺さすと、一瀬が「ナァーニコシャクナ」と叫び組み付いて来た。六郎は「父の仇、思い知れ」と再び胸部を刺し、一瀬は「乱暴、乱暴」と叫び、六郎は「奸賊思い知れ」と言い、力を極めて格闘の末、六郎は一瀬を組み伏せて馬乗りになると、その喉を突き、さらに動脈を切断してとどめを刺した。

上京して4年、事件の日から13年目に六郎は本懐を遂げた。

六郎は鵠沼に旧藩主邸でこのような事件を起こした事を詫びようと2階に上がったが、障子で塞がれていたので諦めて階下に降り、血に染まった羽織を脱ぎ捨て短刀を持って表に出ると、鵠沼が屋上から「六郎何をしたのか」と声をかけた。「父の仇をいま討ったのだが、尊家を汚して申し訳ない。この罪をお許しください」と言い残し、自分の異様な様に通行人を騒がせないよう、人力車を拾って京橋警察署に自首した。

事件後[編集]

12月24日、事件が広く新聞で報道され、六郎の仇討ちは美挙と報じられた。仇討ちは藩政時代には美挙であり、明治6年4月4日に仇討ち禁止令が発布され、この13年には殺人罪とされていたが、一般には知られていなかった。世間はおおむね六郎に同情的であり、本が数冊出されたほか、講談や芝居にもなった。この数年相次いだ明治政府への反乱の余波で藩政時代の政治を称賛する声も高くなっており、裁判所は対応に苦慮した。

自首した六郎は取り調べののち、裁判にかけられた。明治6年2月7日の復讐を禁ず法律の発布を何年頃承知したのかと尋問を受け、その法の発布は知らないが、養父から復讐は往古より禁制であると言われており、国法を犯した事は承知していると答えている。翌1881年(明治14年)9月22日、裁判により終身禁獄の刑を宣告された。当時の法律では謀殺に当たるため死罪だが(232条)、閏刑(身分刑)が適用され終身刑に減刑された。

六郎は石川島懲役場[1] に投獄され、その後小菅東京集治監に移される。入獄中は、同監の河野広中大井憲太郎らより詩文などを学んだ[2]。規則を守ってよく働き、余暇には和歌を詠み詩を作るなど、模範囚として過ごした。鉄舟夫人・英子から度々六郎に衣服や食料の差し入れがあった。

1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布の特赦を受け、12月6日、本刑に一等を減ぜられ、禁獄10年に減刑となり、1891年(明治24年)9月22日、34歳で釈放された。

出所の日、叔父の上野月下の他、鉄舟夫人の意を受けた書生が来ていた。書生は今夕、本郷根津の神泉亭で六郎の慰労会を行うので迎えに来たという。慰労会には鉄舟夫人・英子、自由民権指導者の大井憲太郎星亨、貴族院議員原田一道、剣術家の伊庭想太郎や大学教授などそうそうたる顔ぶれで六郎を驚かせた。鉄舟は六郎の服役中に死去していた。なお、この慰労会の10年後、1901年(明治34年)6月、出席者の2人である伊庭によって星が刺殺されるという事件が起きている。

秋月での反応[編集]

六郎の仇討ち成就は叔父・上野月下から飛脚によって秋月に知らされた。80歳を越えた祖父・儀左衛門は喜びのあまり裏の竹垣を押し破って隣家の白石宅に知らせたという。その時の思いを和歌に託し、山岡鉄舟への感謝を織り込んだ。

  • きょうという 今日は雲霧はれ尽し 富士の高根を見る心地なり
  • 老いぬれど もののふ目に何事ぞ ふりみふらずみ うち時雨つゝ
  • 羽根を 空より降(くだ)し 玉(たま)ひしは 雲の上人ならざらめやは
  • 山につみ 岡に手打(たおり)し 木のは衣(ぎぬ) こは仙(そまびと)や恵み玉(たま)ひし

祖父だけでなく、親族や臼井家に同情を寄せる人々は皆、六郎の仇討ちを喜んだ。

六郎の仇討ちの報が伝わると、秋月ではそれまでと打って変わり、一瀬や萩谷を見る目が冷たくなった。一瀬の父・亀右衛門は六郎が石川島の獄に繋がれた事を知ると、自殺した。母の仇の萩谷伝之進(萩谷静夫)は六郎が一瀬を討った事を知ると、精神に異常をきたし、「六郎が来る、六郎が来る」と叫びながら狂死した。

山岡鉄舟と勝海舟[編集]

山岡鉄舟は事件について、「自分は人を殺す方法を教える剣客なので六郎にも人を殺す方法を教えたが、法律を犯してまで誰かれを殺せとは教えていない」と語ったという[3]

勝海舟が鉄舟の元に問い合わせの手紙を送るなど、六郎を気に掛けている事を知った叔父の上野月下が、鉄舟邸にお伺いを立てたところ、鉄舟は快く迎え懇切に談話をした。海舟が六郎を大変心配して、同情を寄せている事を語り、月下に海舟からの書簡を読ませてくれた。その座で拝読し、むせび泣いた月下は、鉄舟に「恐れ入りますが、この書簡を私にいただけないでしょうか。これを秋月の臼井に贈り、家族一同に拝見させ高大なご恩に報いる記念物として永く後世に残したいと思いますが」と懇願する。鉄舟は「いやいや、そんな書面が世間に漏れては、かえって勝の迷惑になる」と断った。月下は海舟の手紙の大旨を記憶に留め、手紙に書き留めて秋月の臼井家に送った。

勝海舟より山岡鉄舟への書簡の大旨。

「御門下臼井六郎が復讐を行ったことは、容易でない変わった出来事で、貴下もさぞかし驚かれたことでしょう。しかし、六郎はかつて父母共に深夜同枕に惨殺されたことを歎き、臥薪嘗胆ほとんど13年間艱楚[4] を嘗めつくし、終に法を犯し、一命をなげうってその復讐を遂げしは、天の誠の道理なり、実に哀隣すべきことである。その点においていやしくも血気の男児は、その同情を寄せざるを得ない。ましてや近来は人情浮薄に流れ、かつ青年書生などが志気の腐敗を匡済[5]するの道においては彼六郎が挙動もあるいはこれを医療する劇薬であろうと思われる。云々。」

明治14年9月26日 上野月下

臼井慕様

後半生[編集]

1907年、六郎50歳の頃
古心寺の臼井家墓所

出獄後の六郎の動静ははっきりしないが、目的を果たした虚脱感で無為に過ごす日が多くなったという。両親の弔いのために山寺を営むつもりだったが果たせなかったという話もある[2]。しばらく東京にいたが、思うところがあって間もなく大陸に渡った。しかし病を得て内地に戻った。

1904年(明治37年)秋、妹・つゆが住む門司を訪れた。つゆは秋月藩士・小林利愛に嫁いで幸せに暮らしていた。夫の小林は運送店を経営しており、48歳の六郎は小林の世話で門司駅前で「薄雪饅頭」を営む事になる。この時、世話を受けて28歳の加藤ゐえと結婚した。2年後、鳥栖の八角(父の姉・幾子の夫)の誘いで鳥栖駅前に移り住み、待合所の経営を任された。鹿児島本線長崎本線の結節点である鳥栖駅は大きな駅で、駅前の待合所「八角亭(やすみてい)」は繁盛した。

六郎夫婦の間に子はなかったので、叔父の上野月下の次男・正博を養子に迎えた。正博は汽車で隣町の久留米商業高校に通った。

1917年(大正6年)9月4日、病により60歳で死去。故郷秋月の古心寺で、両親の傍らに葬られる。

時系列的経過[編集]

主に『文明開化 4 裁判篇』(宮武外骨著)による事件報告を基に、最新参考文献[6] で修正。

  • 慶応3年11月9日:大政奉還
  • 慶応4年1月:鳥羽伏見の戦い
  • 慶応4年5月23日:臼井亘理と妻・清子が干城隊に殺害される。
  • 慶応4年9月8日:明治改元
  • 明治5年:一瀬上京
  • 明治6年2月7日:仇討禁止令発令(太政官布告37号[7]
  • 明治9年:六郎上京
  • 明治9年10月:秋月の乱。首謀者は干城隊幹部。
  • 明治11年4月:六郎、甲府裁判所勤務の一瀬を追って甲府へ。
  • 明治11年6月:再び甲府へ。
  • 明治11年10月:六郎、熊谷裁判所の雇員になる。
  • 明治12年夏:六郎、帰京。
  • 明治13年5月:一瀬、東京上等裁判所へ異動。
  • 明治13年11月:六郎、一瀬が在京してるのを聞き、経緯を記した書面を用意。
  • 明治13年12月13日:六郎、一瀬を鍋町で目撃。
  • 明治13年12月17日:一瀬直久を殺害し、自首。
  • 明治14年9月22日:終身刑を宣告され、服役。
  • 明治22年2月11日:大日本帝国憲法公布、大赦令
  • 明治23年11月29日:帝国憲法施行
  • 明治24年9月22日:憲法発布の恩赦により釈放される。
  • 明治37年秋:妹つゆの嫁ぎ先である門司へ。
  • 明治38年:親戚の紹介で結婚。饅頭屋を営む。
  • 明治39年:鳥栖へ移転。駅前待合所を営む。
  • 大正6年9月4日:病により死去。

森鴎外による異聞[編集]

森鷗外は、1890年(明治23年)8月18日 - 25日に山田温泉 (長野県)に逗留した際、「みちの記」という紀行文を残しており[8]、その中で、六郎の知り合いである同宿客から聞いた話を紹介している。話し手は、木村篤迚という新潟始審裁判所の判事で、臼井亘理襲撃にも参加し、のちに臼井六郎の供をして上京した人物という。

木村の話によると、当時秋月藩には、勤皇党と開化党があり、開化党のリーダーは二人の陽明学者で、その一人が六郎の父・臼井亘理だった。臼井家に押し込んだ際、音を聞きつけて出てきた一人をまず惨殺し、酔って寝ている亘理を殺害、亘理の妻が賊の一人にしがみついて離さなかったため、これも殺害。亘理の首は持ち帰った。

殺害後、一瀬が証拠隠滅のために刀の刃を研がせた際に、歯こぼれの跡が亘理の短刀の歯こぼれと合致し、犯人であることが露見した。木村は六郎と一緒に上京後、熊谷裁判所に勤めた。のちに六郎が訪ねてきたため、同裁判所で雇い入れた。六郎は酒色に酖って、木村にしばしば借財したが、それは木村に仇討を悟られないための芝居で、木村を訪ねたのも一瀬を追うための旅費を稼ぐためであり、密かに撃剣の稽古にも励んでいた。逮捕後は獄中でキリスト教に傾いたと聞いたが、今はすでに出所していると話した。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 東京都公文書館
  2. ^ a b 臼井六郎 『人物画伝』大阪朝日新聞社編 (有楽社, 1907)
  3. ^ 臼井六郎の譚 『山岡鉄舟伝』佐倉孫三著 (普及舎, 1893)
  4. ^ かんそ、辛酸の意
  5. ^ (きょうさい・悪を正し、乱れを救う)
  6. ^ 『シリーズ藩物語 秋月藩』2016年
  7. ^ 『江戸の仇討考』重松一義
  8. ^ みちの記 森鴎外

関連作品[編集]

書籍
ドラマ

参考文献[編集]

外部リンク[編集]