能勢電気軌道50形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
能勢電50形・60形電車
50形51
基本情報
製造所 ナニワ工機
帝国車輛(52のみ)
主要諸元
軌間 1,435 mm
電気方式 直流600v
車両定員 95人(座席定員40人)
自重 17.5t
車体長 13,000 mm
車体幅 2,430 mm
車体高 3,560 mm
台車 ブリル76E1
主電動機 直流直巻電動機
主電動機出力 37.3kW×2
駆動方式 吊り掛け駆動方式
歯車比 64:15=4.26
制動装置 直通ブレーキ (SM)
備考 *全項目50・60形共通。但し50形については機器換装後のデータ。
テンプレートを表示
車両前面。
登場当初は表示幕があり、車両番号は左下に書かれ、尾灯も左側のみであった。

能勢電気軌道50形電車(のせでんききどう50がたでんしゃ)は、(能勢電気軌道→)能勢電鉄に在籍した電車である。

本項では、50形と同じ設計思想に基づく60形電車についても解説する。

概要[編集]

いずれの車両も、旧来の車両の走行装置に新製した半鋼製車体を載せた、いわゆる車体更新車で、70形(元阪急37形)を改造したものが50形、阪急40形[1]を種車としたものが60形である。1953年昭和28年)に50形50・51(種車:71・73)、1955年(昭和30年)に52および60形61・62(種車:72・40・41)の順で竣工した。車体の製造は、52のみ帝国車輛で行われ、それ以外の車体はナニワ工機製である。

車体はそれまで在籍していた車両より大きく、収容力も他の車両に比して大きい画期的な車両であった。この車両を運用するために滝山 - 鼓滝間にあった矢問駅が廃され、代わって鶯の森駅が新設されるなど、路線上の変化も起こっている。

この車両を新造して以降、能勢電鉄は阪急の中古車から車両を賄っているため、51形・61形は能勢電鉄が独自に製造した最後の車両となっている[2][3]

構造[編集]

登場した当時、妙見線には路面区間があったが、ごく短い距離だったことから、窓の下降高さを210mmに制限して側窓の保護棒の代わりとした。窓周りの寸法は阪急810系に倣っている。車体はブルーとクリームで塗り分けられ、この塗装は31形の一部にも波及した。連結器は当初、50の能勢口方と51の妙見方にそれぞれ取りつけられていたが、のちに50の連結器は51に転用されている。60形は連結器の取りつけ座はあるものの実際には装備されていない。

尾灯は車両上部に2つ取りつけられている。最初に登場した51および52は、製造当初この尾灯が片側のみに付いていたが、後にもう片方追加され、他の車両と同じスタイルとなった。また全車両とも車両前面には方向幕があったが、1963年に天井を剛板化した際に埋められ、この際に、前面の車両番号も左下から中央に移された。

50形は台車の関係で走行中の揺れが大きく、また主電動機の不調が相次いだため、1962年に40形43・45[4]の機器を換装することとなった。この改造により、50・51と60形は実質同形車となった。

製造当初の集電装置はトロリーポールであった。後年、架線吊下方式の変更に伴い、妙見線能勢口 - 妙見口間の運用から撤退する直前に全車両Zパンタグラフに換装されている。

運用[編集]

登場後から(池田駅前→)川西国鉄前 - (能勢口→)川西能勢口間を含む全線で運用された。

1966年に能勢口 -(妙見→) 妙見口間の車両が大型化されると50・52・60が廃車となった。以降、51と61が川西国鉄前 - 川西能勢口間の折り返し運転用として残されたが、晩年は専ら51が使用され61は予備車的な扱いであった[5]。その後、同区間の廃止に伴い1982年に廃車となった。

廃車された3両の車体は、平野車庫で倉庫として使用されていたが、こちらも、51・61の廃車前後に順次撤去されている。

※括弧内はその駅の改称前の名称

脚注[編集]

  1. ^ 阪急より借り入れていたものを、改造に際し購入した。
  2. ^ 完全な新造では1926年製造の31形が最後である。
  3. ^ その後1995年平成7年)実施の昇圧の際に、阪急直通対応の自社発注車両の導入計画があったが、これは中止されている( 川島令三「全国鉄道事情大研究」神戸篇(1992年、草思社))。
  4. ^ 阪急からの借り入れ車。機器換装後に阪急に返却の上廃車された。
  5. ^ 『レイル No. 24』 エリエイ出版部/プレス・アイゼンバーン、1989年、28頁

参考文献[編集]

  • 岡本弥・高間恒雄 『能勢電むかしばなし』 ネコ・パブリッシング、2008。ISBN 978-4-7770-5233-2

外部リンク[編集]