能代役七夕

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角鯱
雲鯱

能代役七夕(のしろやくたなばた)は、秋田県能代市8月6日および8月7日に開催される伝統の七夕祭りである。田楽、お囃子、太鼓とともに城郭型の大若燈籠を引いて旧市内を運行し、翌日には灯篭上部にあるシャチ()に火をつけて米代川に流す。地元ではただ役七夕、やくたなとも呼ばれ、また能代七夕、能代ねぶながしとも呼ばれている。

概要[編集]

能代の役七夕は旧能代港町五丁組による輪番制により執り行われており、田楽、太鼓、横笛などに続いて城郭型の灯篭を曳いて各町内を巡る。翌7日には灯篭上部のシャチに火をつけて米代川に流す。

役七夕に先立って、8月3日には「こども七夕」が開催されてきた。町内ごとにキャラクターなどをかたどった灯篭を作り、役七夕のようにお囃子を奏でながら子供たちが町内を練り歩き、畠町通りに集まる。また、2013年平成25年)にはこども七夕が8月2日)にずらされ、8月3日()および8月4日)に『能代七夕「天空の不夜城」』が初開催された[1]

毎年9月第2土曜に開催され、秋田県内の夏祭りのしめくくりイベントともいえる能代市の「おなごりフェスティバル」において、能代第一中学校、能代第二中学校により七夕が披露されるのも恒例となっている。

灯篭[編集]

燈籠は、四つ角に大丁名もしくは加勢と記した大田楽を飾した担木に乗せ、下から富を表す牡丹を描いた<台燈篭>、郭のを描いた<幕燈篭>、堀を表す池のを描いた<波燈篭>又は船形で海の波を描いた<船燈篭>、を描いた<花燈篭>、を描いた<松燈篭>、高さを表すを描いた<雲燈篭>、上部には石垣を描いた<岩燈篭>、で構成され、花燈篭、松燈篭の中央には産土神社、美人画武者絵なども描かれた額絵がある。岩燈篭上部には四角に小さなシャチを乗せた<隅御殿>、前方に<前御殿>、後方に<奥御殿>があり、更に最上部中央には<本丸御殿>に一対の大きな<>が取り付けられている、また、現代は最上部にはひよし産土神社より祈祷戴いた御幣を奉る。以上を担木(タギ)に乗せ曳きだす。シャチの目を描く際には人々の健康や安全などを祈願して入魂式を行う。大丁のシャチは常に空を向く尖った、尾ひれ<通称:角鯱~ツノシャチ>だが、加勢の町内のシャチの形は、雲龍<通称:雲鯱~クモシャチ>である。《※担木とは曳きだす台座のことで、大昔に燈籠を御神輿の様に担いでいた、なごりの通称で 正確には木車の山車のことである、昭和31年よりほとんどの場合、ゴム輪の馬車、台車が使われている》※他に台車に燈籠を取り付ける為に台車の後部真ん中に四本柱の組支柱がある、この支柱のこともタギとも呼ぶ。

江戸末期明治時代には高さ五丈(16m)の城郭型灯籠が作られたという記録がある[2]。が、近代以降電線等により、現在は高さを制限せざるを得なくなり、シャチを倒して5.5M内、上部のシャチ部分を電線の前で倒しながらくぐり通っている。シャチを起こして<約9m>になる。

シャチ流し[編集]

役七夕鯱流しは当番組による《道中》~各町内回丁~6日運行の翌日7日に、灯篭上部にあるシャチの部分を米代川河口まで運び、筏に乗せて川の中で火をつけて流す。このとき囃子の曲調も<流しばやし>と呼ばれる哀愁を帯びたものに変わる。

制度[編集]

現在旧市内中心部で割り振りされている五丁組によって毎年(旧暦)7月7日頃に行われ、五丁組の輪番制で当番を交代しており、当番を受け持つ大丁とそれを応援する加勢丁として参加運行される。これは各町内の名によって○○若と呼ばれる。運行直前には手木の号令の元<音頭上げ>を行い出発する、運行中は<道中ばやし>のお囃子に合わせて「わっしょい わっしょい」~「ちょーれー ちょーれー ちょごれごれごれん、ちょごれごれんれんれん」 などと声を掛ける。 隊列は順番に先頭に高張提灯を掲げ~田楽{半纏を着た子供がサンダラボッチを使って担ぐ}、太鼓{晒を巻いて白短パン、足袋姿で3人一組で叩く}、{半纏、雪駄の恰好で横笛を吹く}、若長{浴衣に雪駄を履いてブラ提灯を掲げて歩く}、の順に続いて若者によるシャチ(鯱)の乗った城郭型の大若燈籠の台車を引き(台車には担木若長の人が乗車する)その後は総務相談役顧問後見をそれぞれ乗せた車が列をなして旧市内を練り歩く。《昭和初期までは、大若とは役七夕における役付けがしっかり執り行われている町の七夕組織を大若と称していた、若者だけもしくは若長だけで規模が小さく組織されたものを中若もしくは小若と称されていた、また役七夕の当番組以外、役七夕運営期間外に引き出す灯篭を○○小若と称していた。(注:大町が七夕等で使用する大若とは意味合いが異なる)》 [昔は《親しみ丁》と言って当番組以外の丁内と物の貸し借りや人の往来をした親しみ町制度が有りその当番組の町内を手助けをした、他の町内が入り込めない暗黙の取り決めが存在していた。現在は人の交流が複雑化して、正確には親しみ町制度は廃されているが、それに似た町内間の交流が存在している] 若者は縦長の筒状型のキバ(騎馬)提灯、若長等は持ち手の棒にぶら下げられた丸型のブラ提灯を持つ。それぞれの提燈にはその町内の紋様印が描かれている、清若だけは無地である、また提燈の持ち手の役付名が施されている物もある。

五丁組による輪番制は、五年に一度当番が回ってきてその時仕切る組を当番組と言う、またその時運行をしきる町を大丁、又は当番町、もしくは当番親丁、と呼ばれその他の丁内は加勢応援することから加勢丁内と言う。また大若、柳若はその時々で”大丁”と称されることもある。 五丁組にはそれぞれ組を仕切る五つの 親丁 <<大若、上若、萬若、清若、柳若>>がありその組みを統制している(それぞれの組には覚書等があり町の序順列が決められている)又その親丁の元、支配下にある町内を枝丁と呼んでいる。又、相互関係の間では<親しみ丁>と呼ぶ時もある。運行時の隊列は大丁が最高尾を務めその手前からは序順列に従った親丁、加勢丁内が連なる。親丁が大丁を務める場合も序順列に従った加勢丁内が次に連なる。 (大昔は大丁のつぎ元手前に並ぶ所を「担木元」と言われ並び順は基本的に自由で次回の大丁を務めることから、争い喧嘩が耐えなかったと言われている)

運営は役七夕の所以ともなっている役付が組まれ基本的な構成は、若衆のそれぞれの部所を任せられる<十人頭>、若者を代表し取り仕切る《若者頭》、若頭を補佐する<副若頭>または<主立>、七夕を仕切る<若長>、山車に乗車して見守る<担木若長>、町内間を交渉する<応接>、若長等の代表で運行運営の最高責任者である《筆頭若長》、もしくは《筆頭総務》、以後山車の後方に車に乗車する<総務>、長老である<相談役><顧問>、長老で町内を代表する任につく<後見>、から成り、それぞれの役割分担がなされている。 基本的に筆頭若長と共に町内を代表し責任者につくのが《筆頭後見》である。若者の姿は晒、白短パン、半纏にキバ提灯を持っている、若長は浴衣にブラ提灯を掲げている、若長を引退した総務、後見等は浴衣の上に黒羽織を着ている。又当番である大丁は道中の運行の際、各加勢若の先頭に基本2名の応接を派遣同行させ、計画通り行くように導いてゆく、何か交渉事等問題があれば応接を通して対処する。 役付けに関してはそれぞれの各若町内独自の役柄役名、シキタリや取り決めがなされてることが多い。この5年に一度に回ってくる当番年の役目を担うこともまた役七夕の由来でもある。


運営方式は、若長の個人による寄付を主に行われ若長を主体に行われる《若長七夕》と 主に町内会全員の寄付により行われ自治会、自治会長などが主となった運営で総務の方が主体とする《総務七夕》とあるが、最近は財源が厳しくいろいろな方法手段で賄っている。

◎年間の運営運行~その年の年頭に当番組の親丁が各若を招集し、覚書等により運行を仕切る大丁を務める町内を確認し合う。その後初春までに大丁より各若に参加願いをする加勢要請の準備を行う。その後加勢要請の準備に答えた町内で運行等の細かい事柄を取り決める。 基本的に八月一日にまず先に山王日吉神社に行き御幣を祈祷し戴く、その御幣を挿頭して会所開き、鯱の入魂式{通称眼入式}を行う。会所開きに伴い正式に大丁による応接を派遣した加勢要請のお願いを持ち、大丁~加勢丁の応接による会所間の行き来により正式な返答を確認し合い運行当日を迎える。

八月六日当日は先に自町内を御幣を掲げた灯篭を引き出し丁内回丁をし、その後大丁に所定の時間(夕刻前)に各若が序列に集合し、出発式を大丁会所で行いその後その組の序順列に従い、取り決められた《道中》~(最初は市庁舎にむけてその後はそれぞれの当番組の町内を巡り最後はまた大丁に集まり終える)で道中囃しの元、出発回丁される、六日の日の終わり方は、六日の解散式を行ったり、流れ解散したりとそれぞれの組で違う。

八月七日 《鯱流し》は台車へ本丸御殿に御幣を掲げたシャチを乗せて丁内回丁をした後に大丁へ向けて出発し、大丁会所に集合の後、米代川(現在総合体育館裏手の土手)に向けて出発、ドラム缶を利用した筏に鯱を載せて川に浮かべて所定の時刻(20:00~21:00頃)に鯱に点火し、流し囃しにより弔う、その後大丁に集まり解散式{通称手打ち式}を行う。{組全体の解散式の後に双町内だけで町内の境目において別れの儀式を行う所もある}~その後それぞれの町内にて、当日もしくは後日に 直会 <なおらい(お開きの宴会)>{通称太鼓納め}を行い、その年の役七夕行事は終了する。 

シャチ流しの場所は2014年度清助町組は米代川の増水の為、能代港の川反・下浜埠頭で行われた。又2015年度の柳町組は米代川の鯱流し場所が浅瀬になり昨年に続き、下浜埠頭で行われた。

五丁組制度[編集]

(丁山~五丁山組、役七夕~五町組)

丁山一番丁-大丁組- ○大町、富町、下川反町、富新町 ~丁山に乗せる祭神は<三番叟>
役七夕-大町組- ○大若、冨若、下川若、冨新若 -4若運行


丁山二番丁-上丁組- ○上町、畠町、畠新町、東町、 鍛冶町、盤若町 ~丁山に乗せる祭神は<鍾馗>

役七夕-上町組- ○上若、畠若、畠新若、東若   ※鍛盤若   -4若運行


丁山三番丁-萬丁組- ○万町、中町、上川反町、羽立町、幸町 ~丁山に乗せる祭神は<猩猩>
役七夕-萬町組- ○萬若、中若、上川若、羽立若、幸若 <中若、上川若、羽立若、幸若=4若による合同若> -2若運行


丁山四番丁-清助丁組- ○清助町、馬喰町、 ※御指南町 ~丁山に乗せる祭神は<恵比寿>
役七夕-清助町組- ○清若、馬若、御若 <馬若、御若~2若による合同若> -2若運行


丁山五番丁-後丁組- ○後町、新町、柳町、※出戸町、本町、新柳町、柳町新道、住吉町、栄町 ~丁山に乗せる祭神は<大黒天>
役七夕-柳町組- ○柳若、新若、*出若、本若、新柳若、柳新若、☆住若、榮若、後若 -7若運行 


※印は以前参加していた町内

○印は親丁 

*印は現在の所、七夕町内として参加してない所

☆印は当該年度参加辞退した所

毎年7月25~27日に行われる山王日吉神社の山王例大祭の時も丁山による五丁組が組織され、山車を引っ張り運営している。 祭時は町名に若をつけて名乗る。八幡住吉神社の鹿嶋祭の際にも五丁組が組織されていた、戦後まもなく廃止にいたった。

ちなみに役七夕の2000年度は柳町組が当番年で以後大町組、上町組、萬町組、清助町組の順番で役七夕は輪番制で行われている。 丁山の当番組は役七夕当番年の翌年になる。   



現在の五町組が形作られたのは、明治32年に後町組の親丁だった後若が当番年大丁を放棄さられた事により、それ以降役七夕から除外されていた。それ以後柳若が後町組を実質親丁として実行支配統制していた、昭和35年に正式に柳若が後若の参加を認め、他の七丁を加えて覚書を交し柳町組として成立した。現在の五町組組織に成っている。

五丁組が七夕組織に生かされたのは正確には解からないが、行政組織が江戸初期には五人組肝煎制であったものが享保六年1721年頃に組織替えが行われ庄屋二制五宿老制度が組織されこの時の五丁組組織が現在のものと組み合わせがほぼ変わらない、恐らく享保頃、亦以降に七夕、祭典に活用されたものと推測される。 江戸幕藩体制前の天正年代前には親丁である、專助町、大町、上町、後町、荒町、他に 下川端町、中町の七町が町建てされていた。 文化13年1816年の船遊亭扇橋著『奥のしおり』には七夕祭が年番制で行われている事が書かれている。

   大正15年 五丁山組  

  •  一、上町、畠町、鍛冶町       (近年町幅膨張の結果 畠町新丁を加ふ)
  •  二、大町、冨町、下川反町      (同上にて冨町新丁を加ふ、大町新道亦同じ)
  •  三、萬町、幸町、中町、上川反町、羽立町
  •  四、清助町、馬喰町、御指南町    (近時清助町新道を加ふ)
  •  五、後町、新町、本町、出戸町、南中町(同上にて新柳町、柳町新道、住吉后を加ふ)
  •    柳町

小林天風著能代港史々に記されている



  能代<七夕町内>の町建て

・  「昔米代村と唱えし時、人屋五十軒、辨才山の東北の麓に住せしが、年経て川岸缺流れ土砂に吹埋められ、住居成り難く所々に離す、大永(元年1521)享禄(元年1538)の頃 に至り、日和山の北麓姥懐に村を成す」 ~野代山王社由來記   (大日本地名辭書)明治後期吉田東伍著  


・ 淸助町(享祿年(1528~1531)、川向旧野代より移る。淸助と云肝煎相謹に付町名とす)  ~六郡々邑記

<旧野代~小楯鼻{こたてはな}附近今の落合地区で、そこより姥ケ懐{うばがうところ}~今の下浜附近にある日和山下、般若山に移住><江戸時代の肝煎のことで世話役であった清助の名が後に町名になった。~清水政吉と共に今の日吉神社建立由来に関わる人>

   

・ 「初代清水治郎兵衛 往古当処姥ケ懐と申処に住居、其後 弘治二丙辰年(1556)米代を見立住居定り、此時は在家少し且秋田太郎近季公より知行井給代給り諸材木支配惣町支配仕、永祿甲子年(1564)今之長慶寺を建其後天正年中居地之鎮守当処今の山王権現社建立、当処大光院栄長を別当とす。同年中処処今の徳善寺建立仕候」 ~(寛政元酉年1789、御下代歴代帳 清水政應寫)渟城家文書

弘治2年(1556年) 清水政吉が秋田愛季からの知行により姥ケ懐より現在地の大町、上町付近に住居を移住した。まだ農志路(野代湊)と言われていたころに集落ではなく町として形成し 、能代の町づくり始まる。

  

  •   大町~弘治年中までに建立(1556~1558年)
  •   上町~弘治年中(1556~1558) 
  •   後町{上後町、下後町}~永禄年中までに建立(1558~1569年)
  •   專助町~永禄年中までに建立(1558~1569)
  •   荒町~永禄年中(1558~1569)
  •   下川端町~永禄年中(1558~1569)
  •   中町~永禄年中(1558~1569)
  •   上川端町~承應年中までに建立(1652~1654年)
  •   七郎右衛門町~寛文年中までに建立(1661~1672年)
  •   博労町~寛文年中(1661~1672)
  •   新町~寛文年中(1661~1672)
  •   鍛冶町~寛文年中(1661~1672)
  •  ※稲荷町~寛文年中(1661~1672)
  •   畑町~延宝年中までに建立(1673~1681年)
  •   出戸町~延宝年中(1673~1681)
  •   初立町~延宝年中<七郎右衛門町を改名>(1673~1681)
  •   柳町~貞享年中までに建立(1684~1687年)
  •   御足軽町~元禄年中までに建立(1668~1704年)
  •   幸町~元禄年中(1668~1704)
  •   冨町~元禄年中(1668~1704)
  •   朝日町~元禄年中(1668~1704)<所在地不明>
  •   萬町~宝永元年(1704年)<荒町改名>
  •  ※赤舘町~宝永年中(1704~1710年)
  •   立林町~正徳年中までに建立(1711~1715年)<後の本町>
  •   中冨町~享保年頃までに建立(1716~1735年)<後の横町>
  •   般若町~寛政十年に建立(1798年)
  •   御指南町~文化年中<御足軽町を改名>~(1668~1704)
  •  ※門前町~文化年頃?までに建立(1804~1818年)
  •  ※長根町~文化年頃?(1804~1818)
  •  ※住吉町~文化年頃?(1804~1818)
  •  ※横町~文化年頃?(1804~1818)<以前中冨町>
  •  ※新屋敷本町~文化年頃?(1804~1818)<後の本町>
  •  ※新屋敷中町~文化年頃?(1804~1818)<後の南仲町>
  •   本町~天保年中までに建立(1830~1844年)
  •   南仲町~天保年中(1830~1844)
  •   新柳町~明治24年頃(1891年)までに建立
  •   柳町新道~明治25年頃(1892年)に建立
  •   畠町新町<追分・樽子山>~明治41年以降(1908年)に建立
  •   冨町新町<旭町・明治町>~明治41年以降(1908年)に建立
  •   住吉後~大正13年(1924年)以前までに建立<後の住吉町、榮町、東町>
  •   八幡町~昭和7年以前(1932年)までに建立 <後の住吉町>
  •   榮町~昭和7年以前(1932)
  •   東住吉町~昭和7年以前(1932)

※町割りに於いて門前町、長根町、新屋敷町等々が当ったが、寺院、神社、武家などの屋舎の町で微税対象外で一部地域を除いて五町組には加わらなかった。             ★ 参考文献 参照:〈能代市史稿、能代市史年表、能代市史~資料編 享保十三年、文化八年能代町絵図、等〉

補足:能代港町は明治22年4月1日町村制の施行により発足    能代港町は昭和15年に市制を施行し能代市となる    昭和33年2月に能代市の一部を編入し現在の住所へ町名等を改名

由来[編集]

由来は複数説あり、阿部比羅夫~斉明4年(658年)頃や 坂上田村麻呂~大同元年(806年)頃 が蝦夷との戦いの際、灯籠を使用したことがはじまりという説や、豊作祈願のため、夏の眠気や疫病を払うとして米代川に灯籠を流したという説がある。「ねぶながし」の語源は、元禄時代1688年~1704年、子供たちが旧暦の七夕の晩に「ねふねふ流れ、豆の葉にとまれ」と囃して歩き、眠気を覚ましたことに由来すると言われている。天保1830~1844年の頃から城郭型の燈籠が作られるようになった。城郭型燈籠の起源は清助町出身の宮腰屋嘉六 (天保.文化.1830年頃). が名古屋城を模した5尺のネプタを作ったと言われており、金沢の兼六園に水揚げをした事でも知られている。

ねぶながし会館[編集]

能代火力発電所エナジアムパーク内にある施設。能代役七夕について紹介されており、灯篭が展示されているほかお囃子を聴くことなどができる。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]