胸鉏比売

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

胸鉏比売(むなすきひめ)は島根県石見地方の伝説に登場する女神である。

あらすじ[編集]

かくれ岩の伝説
神代の昔、「波子の浦」に見目美わしき六・七歳の童女、「ハコブネ」に乗って漂着した。近くに住む老夫婦、子供のないまゝいたく喜んでこの童女を慈しみ育てゝいたところ、この娘十二・三歳のある夜、「出雲の国」に異変あるを知って直ちに帰国せんと思い立ち老夫婦に、まことに吾が名は「胸鉏姫」とて出雲の国の神の子直ちに帰国して難を鎮めるべしと、止める老夫婦をふり切って出雲の国へ向う途中この地の椎の木の茂る、大岩の陰に身をかくし、追跡の目を逃れ後大功を立てしと言う。老夫婦、「浅利の浦」まで辿り力つきて亡くなったと言う。以来この岩を「かくれ岩」又は「かくれ岩大明神」と稱え、この地の人から崇められ今日に及ぶ嘉久志の地名はこれより生じたと古老達は伝う。胸鉏姫命は波子早脚神社に祀られ給う。 — 岩根神社宮司 二宮義久、岩根神社・隠れ岩の由緒書

神代の昔、石見の国の波子(はし)の浦に一艘の箱舟が流れ着いた。中にいたのは歳六・七歳ほどの麗しい幼い姫であった。これは出雲の国の須佐能男命のお血筋に違いないといって、子の無い翁と媼が姫を育てることになった。が、姫はどこから来たのかと聞かれると、東の方向を指さし、それ以上は口をつぐんでいた。老夫婦が慈しんで育て、見目麗しく成長した姫だったが、弓矢の稽古に余念がなかった。姫が十三歳になったある日、東の空に狼煙が上がった。このときになって姫はようやく自らの出自を明らかにし、出雲の国に寇が迫っているので急ぎ帰らなければならないと言った。翁と媼は引き留めたが、姫は家を忍び出て東に向かった。気づいた翁と媼は跡を追ったが、浅利の海岸で力尽きて亡くなった。出雲に戻った姫は寇を見事防いだという。姫は波子早脚神社に祀られているという。[1]

神がこの世を収めていたころの話。今の江津市波子の海岸に一艘の箱舟が流れ着いた。通りかかった老夫婦が中を覗くとそこにはかわいい女の子が入っていたので、連れ帰って育てることにした。その女の子は身分のある者らしく良い着物を着て上品であった。老夫婦は我が子のように慈しんで育てた。何年か経って女の子は美しい娘に成長した。ある日、おじいさんが「お前はどこから来たのかね?」と問うと、娘は黙って東の方を指した。何度聞いても娘は黙っていた。娘は美しく成長したが、毎日のように弓矢の稽古に励んでいた。また、家の中では必ず上座に座った。娘が十三歳になったある日、東の出雲の方に狼煙が上がり、天をこがした。それを見た娘はついに出自を明らかにした。娘は出雲の須佐能男命の娘で田心姫[2]といった。幼い頃、心が荒々しかったため、父の怒りに触れ流されたという。夢のお告げで娘が出雲に帰れば、十羅の賊を打ち負かすことができるとのことで、娘は急いで帰らなければならないと言った。老夫婦は泣いて引き留めたが、娘は振り切って走り出した。跡を追った老夫婦だったが、娘は岩陰に隠れてやり過ごした。老夫婦は浅利の海岸まで来たところで力尽きて亡くなってしまった。出雲に戻った田心姫はたちまちの内に十羅の賊を滅ぼし、十羅刹女の名を贈られた。[3]

内容[編集]

石見神楽では演目「十羅」、出雲神楽では「日御碕」の前日譚的な内容である。いずれも謡曲「御崎」が原典。なお、「十羅」では十羅刹女が、「日御碕」では日御碕大明神がシテとして登場する。

「江津市誌 下巻」では「じいさん井戸・ばあさん井戸(浅利)」と題で収録されている。姫に去られた老夫婦の悲しみの涙が浅利富士(室神山)高仙の巌に溜まって"ぢいさん井戸""ばあさん井戸"となったという結末となっている。

出雲地方の伝説では、国引き神話で引き寄せた新羅の国の一部を月支国王彦波瓊(ひこはる)王が取り返しに来た。それを小野検校家の先祖である天之葺根命の9世孫の明速祇命(あけはやずみのみこと)が防いだという内容のものがある。また、妄胡利(むくり)の大群が押し寄せたとしたものや渤海国が攻めてきたという類話もある。

元は日御碕神社の社伝、花山院耕雲筆日御碕社修造勧進状に由来する。「荒地山(あらちやま)の旧土を復さんと欲して」とあり、仏教でいう須弥山の角が欠けて出雲に流れ着いたのを神が搗き固めた。それを取り返しに鬼が攻めてきたという状況を説明するものである。元々は出雲国風土記の国引き神話からだが、仏教的な世界観(須弥山)が取り込まれている。

社伝は応永二十七年とあり西暦1420年まで遡れる。なお、前年の応永二十六年(1419年)に応永の外寇が起きている。倭寇討伐を名目とした対馬侵攻だが、明が襲来するという風聞が流れ、大きな衝撃をもって受け止められたことが窺える。

また、鬼の名を「むくり」「こくり」としたものがあって、元寇の影響も窺える。

須佐
年老たる祠官の語りけるはあれなるは於呂志古山此なるは流川社の側に流るゝは素鵝川と申侍る須佐之乎命の一の女を柏葉につゝみて此川に流し給ふ故に流川と申侍る於呂志古山の岸に柏木あり一女神石見國橋の浦へ流れよらせ給ひしを今の日の御崎と崇奉る申傳へ侍る — 懐橘談、続々群書類従 第9 地理部

江戸時代の出雲国の地誌である「懐橘談」須佐の条ではスサノオが一の女を柏の葉に包んで流した、それが石見の橋の浦に流れ着いたのを今の日御碕というとしている。須佐神社の「落葉の槙」稲田姫の後産を柏の葉に包んで流したという伝承が原型であると思われる。

なお、謡曲「御崎」ではスサノオの第三の姫であるとしている。

また、江戸時代の石見国の地誌である「石見八重葎」にも波子村の条に田心姫と十羅刹女の伝説が記載されている。日御崎神社の社伝→謡曲「御崎」→「懐橘談」→「石見八重葎」という時系列が見て取れる。

神楽[編集]

石見神楽の演目「十羅」では、彦羽根という鬼神が対馬に渡ろうとして大時化に遭い、生命からがらたどり着いた。そこに現れたのはスサノオの末子・十羅刹女である。十羅刹女は彦羽根に故国に戻るよう説得するが、彦羽根は聞き入れず戦いとなる、といった粗筋である。

ここでの十羅刹女は仏教に登場する十柱の羅刹女ではなく、スサノオの末子として神仏習合した形で登場する。俗説に十羅刹女はスサノオと龍神の娘が契って生まれた子とするものがある。

胸鉏比売の伝説についても同様の流れと見なせる。[4]

なお、「十羅」「日御碕」謡曲「御崎」「大社」のいずれにおいても十羅刹女と胸鉏比売、宗像三女神それぞれの関係についての記述はない[5]。江津市の岩根神社では由緒書で田心姫命の大功について触れ、別に胸鉏比売の伝説に触れている。

ゆかりの地[編集]

参考文献[編集]

  • 那賀郡共進会展覧会協賛会編『那賀郡誌(復刻版)』臨川書店、1986年、74-77頁。
  • 大島幾太郎『那賀郡史』大島韓太郎、1970年、121-124頁。
  • 島根県小・中学校国語教育研究会編『島根の伝説』日本標準、1981年、217-220頁。
  • 江津市誌編纂委員会/編『江津市誌 下巻』江津市、1982年、1398-1400頁。
  • 石塚尊俊編著『出雲隠岐の伝説』第一法規出版、1977年。
  • 石見地方未刊行資料刊行会編『角鄣経石見八重葎』石見地方未刊行資料刊行会、1999年[10]
  • 国民文庫刊行会編『謡曲全集 下巻 国民文庫』国民文庫刊行会、1911年、321-325頁。
  • 芳賀矢一・佐佐木信綱編『謡曲叢書 第三巻』博文館、1915年、350-354頁。
  • 田中允編『未刊謡曲集 続 14(古典文庫 第571冊)』古典文庫、1994年、26-28頁・192-204頁。
  • 「懐橘談」国書刊行会編『続々群書類従 第9 地理部』続群書類従完成会、1984年、439-441頁・442-443頁。
  • 芦田伊人編『雲陽誌』雄山閣、1971年、226-227頁・312-316頁。
  • 神道大系編纂会編『神道大系 神社編 36 出雲・石見・隠岐国』1983年、3-4頁。
  • 石塚尊俊『出雲市民文庫17 出雲神楽』出雲市教育委員会、2001年。
  • 石村禎久『歴史の落穂拾い 出雲・石見』石村勝郎、2000年。
  • 竹内幸夫『私の神楽談義(3)神楽前線』柏村印刷、2001年、140-141頁。
  • 島根県古代文化センター編『三葛神楽』島根県古代文化センター、2004年、97-98頁。
  • 島根県古代文化センター編『見々久神楽 (島根県古代文化センター調査研究報告書 9)』島根県古代文化センター、2001年、84-85頁。
  • 島根県古代文化センター編『大土地神楽 (島根県古代文化センター調査研究報告書 17)』島根県古代文化センター、2003年、92-93頁。
  • 石塚尊俊監修『保存版 島根県の神楽』郷土出版社、2003年、74頁。
  • 中上明『神楽能「十羅」・「日御碕」について』『山陰民俗研究』9号、山陰民俗学会、2004年、50-73頁。
  • 新井大祐『日御碕神社の「異国防禦之神効」譚 ―応永二十七年「日御碕社修造勧進帳」所載縁起の成立と展開をめぐって―』『神道と日本文化』3・4号、國學院大學神道史學會、2008年、17-43頁。
  • 佐々木春季『神話・伝説・史跡巡り・人物伝の一端 川平・松川地区および江津市内各地の歴史』1988年。
  • 芸能史研究会/編『日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽』三一書房、1974年。

出典・補注[編集]

  1. ^ 『那賀郡誌』「那賀郡史』を元にあらすじとしてまとめた。
  2. ^ 日本標準「島根の伝説」では田心比売(たごころひめ)と表記、ルビを振っているが、「たごりひめ」の誤伝であると思われる。
  3. ^ 日本標準『島根の伝説』を元にまとめた。
  4. ^ 『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』によると、津門神社には十羅刹女とした縁起と胸鉏比売としたものと二種類の縁起が伝わっている。
  5. ^ 「謡曲叢書」第三巻の配役一覧では「御崎」の姫を市杵島姫命としている。
  6. ^ 田心姫命が祭神。十羅刹女社だったとされる。境内に薗妙見早脚神社があり胸鉏比売を祀っている。
  7. ^ 境外に隠れ岩が祀られている。
  8. ^ 宗像三女神も祭神である。
  9. ^ 「鰐淵寺に住まう十羅刹女」といった詞章がある。
  10. ^ 波子の条。

関連項目[編集]