肥田広司

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日本の旗 日本の政治家
肥田 広司
ひだ ひろし
肥田広司.jpg
生年月日 (1905-06-16) 1905年6月16日
出生地 広島県
没年月日 (1987-06-04) 1987年6月4日(満81歳没)
所属政党 自由民主党
親族 肥田利助(祖父)
肥田辰之助(父)
肥田琢司(兄)
肥田篤(孫)
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肥田 広司(ひだ ひろし、1905年明治38年)6月16日 - 1987年昭和62年)6月4日)は、日本政治家広島県議会議員、広島県海田市町長。父・肥田辰之助は広島県議会議長、兄・肥田琢司衆議院議員

来歴・人物[編集]

1929年昭和4年)、明治大学法学部卒業。同年、貿易会社を設立し社長に就任。1931年(昭和6年)から衆議院議長秘書を務め、1933年(昭和8年)に広島県議会議員として初当選後、1935年(昭和10年)と1939年(昭和14年)に連続当選。父・辰之助と兄・琢司と共に父子兄弟連携して政治活動を行い、広島県政で望月派と肥田派の二大派閥として台頭していた[1]1941年(昭和16年)、海田市町長に就任したことにより現職の広島県議会議員と海田市町長を暫く兼任していたが、1946年(昭和21年)のGHQによる公職追放を受け政治家を引退した[2]

公職追放解除後は、スリランカ政府による協力で中国電力創始者の財界長老鈴川貫一らと設立した社団法人世界平和広島仏舎利奉安会代表理事[3]自民党広島県支部連合会常任顧問[4]TBS系列局の株式会社中国放送顧問、五洋建設グループの警固屋船渠株式会社相談役などを歴任。戦後復興から郷里発展に尽力して政財界で名を馳せ、母校の明治大学交友会では名誉顧問に任命された[5]

逸話[編集]

  • 広島市民球場の建設地に関する交渉が難航していたが、水面下で肥田兄弟が球場建設を実現すべく関係者に直談判したことにより建設予定地の合意に至った。肥田に関して、当時の広島県財務局長は「打開策の打診に来られたのだが、率直で、偏見の無い広司氏に、私もまたひそかに持っていた解決の腹案をブチ明けて応えた」と述べている[6]
  • 1921年(大正10年)11月4日の原敬暗殺事件当日、原に同行していた兄の肥田琢司に偶然呼び出されていた肥田広司(当時16歳)が事件直後に到着し、駅員に「原先生の列車は出たか」と尋ねたところ、駅員が広司を共犯者であると勘違いして警視庁に通報した。翌日、琢司が事情を警視庁に説明して暗殺事件とは無関係であると証明された[7]
  • 肥田兄弟は対米戦争に反対をして開戦前から東條内閣と対立していたが、戦況悪化で日本の惨状を憂いた肥田兄弟は祖先の位牌の前で髪を切り供え、命懸けで戦争を終結させることを誓い合った[8]
  • 1945年(昭和20年)、GHQの進駐軍が広島入りしてトップ対談をした際に、肥田が「私には町長として町民を守る使命がある。もし、君達が町民に危害を加えるようなことをしたら私は切腹する覚悟だ」と日本刀を振り回しながら力説する姿を見て、「まだ日本にも武士がいた」と感動したGHQ幹部達が「メイヤー!酒を一緒に飲もう」と肥田を慕い自宅に度々訪れるようになった。ルーズベルト大統領の幕僚であるルー・ファインスタイン代将から日米親善運動を提案された肥田は、兄の琢司と日米協会を発足した。広島から始まった親善運動は全国へ広まり、アメリカ本国でも報道された。代将はダグラス・マッカーサー最高司令官の顧問として肥田を推薦することにしていたが、帰国を余儀なくされ実現には至らなかった[9]
  • 田中角栄が郵政大臣に就任した頃から意気投合し懇意にしていた[10]
  • 肥田一族の保養所として利用されていた熱海の別荘を頻繁に訪れ、熱海市長の市川止とも親しくなるほど第二の故郷として熱海に愛着があった[11]
  • 広島県の生家は約1000坪の屋敷であった[12]
  • 明治大学の後輩でもある第66代内閣総理大臣三木武夫は、学生時代に所属していた雄弁部で肥田の旗持ちをしていた。

家族・親族[編集]

  • 祖父・利助(広島の大親分と呼ばれていた保守政治家[13]。幕末に見廻役としても活躍した[14]。)
  • 父・辰之助(広島県議会議員に当選3回で県議会議長を務めた立憲政友会所属の政治家[15]。)
  • 兄・琢司(衆議院議員に当選4回で衆議院常任委員長を務めた立憲政友会所属の政治家。晩年まで政財界に影響力を維持していた大物として知られる[16]。)
  • 孫・篤(Amazonランキングで1位にも輝いたハードロックバンドの元ヴォーカリスト[17]。実業家に転身して複数の東証上場企業で大株主になっている[18]。)

参考文献[編集]

  • 政界追想(肥田琢司遺稿刊行会、1964年
  • 浩然録 肥田琢司追遠集(浩然録刊行会、1965年
  • 年表ヒロシマ(中国新聞社、1995年
  • 海田町史(海田町、1981年
  • 現代人物事典(サンデータシステム、1982年
  • 広島県史(広島県、1980年
  • 林立雄著 『戦後広島保守王国史』(溪水社、1983年
  • 市川太一著 『「世襲」代議士の研究』(日本経済新聞社、1990年
  • 佐藤哲朗著 『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(サンガ、2008年
  • 寺本喜徳著 『島根 ふるさと文学館 第三八巻』(ぎょうせい、1993年
  • 桧山袖四郎著 『広島県政に賭けた生と死』(平和広告、1981年

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 「世襲」代議士の研究
  2. ^ 海田町史
  3. ^ 大アジア思想活劇
  4. ^ 広島県史
  5. ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
  6. ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
  7. ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
  8. ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
  9. ^ 政界追想
  10. ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
  11. ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
  12. ^ 政界追想
  13. ^ 島根 ふるさと文学館 第三八巻
  14. ^ 政界追想
  15. ^ 広島県政に賭けた生と死
  16. ^ 日韓交流 陰で支えた男 - 産経新聞ニュースサービス、215頁
  17. ^ [1] rockdendoトピックス
  18. ^ 会社四季報2015年新春号