耶律塔不也

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耶律塔不也(やりつ とうふや、生没年不詳)は、(契丹)の政治家

経歴[編集]

仲父隋国王耶律釈魯の末裔にあたる。蹴鞠を得意とした。咸雍初年、祗候郎君に補任された。耶律乙辛と仲が良く、太康3年(1077年)に皇太子耶律濬が誣告されると、耶律乙辛のために太子の擁立計画が事実だと偽って上奏した。道宗はこれを信じて太子を廃位した。塔不也は延慶宮副使に転じた。寿昌元年(1095年)、行宮都部署となった。

乾統元年(1101年)、天祚帝が即位すると、塔不也は耶律乙辛の党与として、特免部節度使に左遷された。枢密使の耶律阿思に賄賂を渡して重い罰から逃れ、敵烈部節度使に転じ、敦睦宮使として復帰した。天慶元年(1111年)、西北路招討使として出向した。後に病没した。

伝記資料[編集]

  • 遼史』巻111 列伝第41 姦臣下