義経=ジンギスカン説

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義経=ジンギスカン説(よしつね=ジンギスカンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間-1227年8月12日[1])は、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年-1189年6月15日)が同一人物であるという仮説伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハーン説は否定されているが、信用・信頼できる文献と出来ない文献があり整理する必要があり、注意を要する。

目次

起源と経緯[編集]

室町から現在までの大まかな流れ[編集]

源義経という人物は日本史上極めて人気が高く、その人気故数々の事実と確認されない逸話伝説が生まれた。 江戸時代中期の史学界では林羅山新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され水戸光圀蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていた。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌオキクルミ祭祀を目撃し、中根宇衛門幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である[2]。寛文10年(1670年)の林羅山鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められている、と生存説として記録された。沢田源内の『金史別本』の虚偽が一部の識者には知られていたが、江戸中期、幕末でもその説への関心は高く、幕吏近藤重蔵や、間宮林蔵吉雄忠次郎[3]など、かなりのインテリ層に信じられていた。一般庶民には金史別本の内容が広まり、幕末まで源義経がの将軍になったり、義経の子孫がという国を作ったなどという話が流行した。明治時代初期のアメリカ人教師のグリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じるなど、現代人が想像する以上に深く信じられていた。シーボルトがその書「日本」で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張したあと、末松謙澄の「義経再興記」や大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。明治以後の東洋史などの研究が西洋などから入り、史学者などの反論が大きくなるが、否定されつつも東北北海道では今も義経北行説を信じる者が根強く存在している[4]。戦後は高木彬光1958年昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、この頃になると戦前ほどの世間の関心は薄れ、生存説は俗説にされて、アカデミックな世界からは取り扱われることは無くなっている。我国ではこの様に何世代も渡って語られてきた伝説仮説も現代では、トンデモ説都市伝説などと評されている。小谷部全一郎や末松謙澄らのようにこの説に関連し軍功に寄与したため勲章をもらう者もいた。義経がチンギスハンになったという説はシーボルトが最初で、彼の論文の影響が非常に大きいと岩崎克己は記している。

説話[編集]

室町時代以降、いわゆる「判官びいき」から生まれた「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びついて「義経北行伝説」が成立し、江戸時代に『義経記』は元和木活字本により広く流布し、寛永年間(1624年-1643年)の流布本[5]によって本格的に読まれるようになり、浄瑠璃歌舞伎狂言読本などにもさかんに取り入れられていくが、こうしたなかで、義経不死伝説と「御曹子島渡」説話が互いに結びつき、義経は自刃したとみせかけて、実は蝦夷地にわたったという伝説(源義経北行伝説)となって成立した。

資料が少ない二人[編集]

ジンギス・カンについては生年や前半生が不明な点が多いことや、蒙古民族が文字を残さなかった為、文献が残っておらず、口伝口承による歴史伝達など裏づけ部分が不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実である。特に約10年の空白期間を歴史学者が何をしていたのか特定できず、義経がその時期日本で活躍していることなどから、この説をややこしくしている。また系譜についても三代くらいは各書で同じだがその上は若干異なり、それに祖先は狼の化身だとか、光につつまれた〇〇という抽象的なものであり、これを検証して事実だとも思えず信用性は高くない。別部族の妻を略奪して自分の子供を産ませたということが普通に行われていたので、系譜が血縁通りにあるとも思えない。源義経に関しても信頼できる資料は『吾妻鏡』であるが、22歳のときに駿河黄瀬川に陣を布いた源頼朝を訪ね、兄弟の対面した記録が最初であり、その前には地方を放浪して「土民」(土人)や「百姓」に使われていたとあるだけで[6]、不明な点が多く、義経記等の弁慶と橋の上での対決などはフィクションであるとされ、22歳の前には一体何処で何をしていたのかさっぱり判らない人物である[7]史学界とこの説の信望者らはこの二人の人物に対し比較しようにも信用・信頼できる文献が無さすぎ、お互いに無視しあっているというのが、本当の所である。

源義経とはいかなる人物か[編集]

義経とはいかなる人物か。義経については他の項目で詳しいが、そこで記述されていないことは、義経の生立ちがまず不明である。『平治物語』は義経の幼年期に詳しいが1級史料でもそれに準じる史料でもない。治承4年(1180年)10月21日、この時22歳で黄瀬川の陣中で頼朝と相曾するまでまったく何をしていたのか判らない。この時兄弟の名乗りをし、感激の涙の再会をしながら、その後三年の間行方不明になっている。頼朝に重用されることもなく寿永2年(1183年)10月、25歳の義経が頼朝の命を受け木曽義仲追討のため鎌倉を出発しへ向かった。ここで再び歴史に現れる。27歳まで武将の名をほしいままにするが、頼朝と不和になり、文治2年(1186年から偽山伏に扮し北陸路かあるいはどこかを通り、文治6年(1189年)陸奥平泉で死したというのが彼の人生である。

林羅山[編集]

江戸時代前期の林羅山本朝通鑑で《義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す》 と記している。公式文書として初めて、義経自害を否定したばかりか、蝦夷まで行き子孫まで残した と言明したが、「俗伝又曰」という前文を含めて解釈すれば、「世間では……と噂されている」 といった文意になる。

「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」『続本朝通鑑』「俗伝」林鵞峰(林春斎)編纂[8]寛文10年(1670年

新井白石[編集]

新井白石は、アイヌ民話のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り手紙を書いている。しかし義経渡航説を否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死については入夷説を長々と紹介し、更に入韃靼説も付記している。また『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎出島のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。

「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ」「今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、
イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝へシトモ云フ」
《義経、手を束ねて死に就くべきにあらず。不審の事なり。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。
また夷人、飲食に必ず祀る。それのいわゆるオキクルミと 云うは即ち義経のことにて、
義経後には奥へ行きしなど云い伝えし》『読史余論新井白石

文献の記述[編集]

吾妻鑑には義経は奥州衣川自害したと記されているが、林羅山本朝通鑑に義経が蝦夷に渡った可能性について論じ、その子林鵞峰(春斎)の『続本朝通鑑』「俗伝」の記載(1670年)により、義経北行伝説は急速に識者に知られるようになる。江戸時代平泉地方を統治した仙台藩は、義経が平泉で自害したと記録しているが、延宝年間成立とされる『可足記』[9]享保二年(1717年)成立の『鎌倉実記』[10][11]明治初年成立の『新撰陸奥国史』では衣川事件のあと、義経は蝦夷地へ渡り、満州(中国東北部)や蒙古に向かったと伝えている。『可足記』と『鎌倉実記』、『新撰陸奥国史』は『義経記』と風聞を基にして書かれたと云われ、歴史文献としては信用性が低い。

捏造された歴史書[編集]

一方史実を捻じ曲げ、捏造される書物も多くだされた。の正史である『金史』の外伝という本もそうで、「12世紀の金の将軍に源義経なる者がいた」と記したという『金史別本』である。沢田源内の翻訳によって出版されているが金田一京助永田方正が「『鎌倉実記』と『金史別本』の作者は沢田源内」という説を受け沢田源内を捏造者と断定した(『世界』75号所収)。この『金史別本』の内容に乾隆帝の御文の中に

の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」

とあり、この噂が流布し、これが後の大陸進出に利用された。この本は『金史列将傳』とも記され、中身は〝源義行″となっているが、義経の事だと思われ、金田一が義行傳(金史別本)の偽作は沢田源内に胚胎するもので、『鎌倉実記』の著者加藤謙斎と断定するが、『鎌倉実記』を沢田源内の偽作とした永田方正の誤解をさらに誤解したものだと岩崎克己は記している(『義経入夷渡満説書誌』昭和18年)。 また、岩崎は先の『金史列将傳』の他、『大清會典』、『図書集成』、『香書集成』など捏造の書物があると記している。 森長見の『国学忘貝』(天明3年1783年)の『図書集成』のなかに『図書輯勘』百三十巻があり、清の序文に

「朕姓は源、義経の末裔、其の先は清和に出づ。故に國を清と號す」

と書かれたとしている。神沢貞幹や多くの著者に影響を与えたと云われ重野安繹は、義経清祖説は森長見の捏造が始まりだと考えた。

東北の比較的信用できる文献[編集]

『岩手県姓氏歴史人物大辞典』には、「奥州藤原氏系の中野氏は、祖先は藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が北海道に居住」と書かれている。つまり姓氏に関する限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れた事が書かれている。また、『中尊寺建立供養願文』には、1105年、初代藤原清衡によって建立された中尊寺の当時の事を書いた物の中に、「粛慎挹婁海蛮は、陽に向かう葵(向日葵)の類」と、当時の奥州藤原氏と大陸系の他民族である粛慎、挹婁がかなり親しく、しかも藤原氏に従順だったのではないかと思わせる記述がある。

日本史の謎[編集]

江戸時代からこの事件に関しては論争がある。元禄時代の水戸光圀の『大日本史』編纂期、幕末シーボルトの主張した幕末・明治初期、小谷部全一郎大正期である。義経の死んだ項目に関しては、諸誌でばらばらではっきりしていない。吾妻鑑でも後述するように、何度も死んだと書かれ、しかも死んでいる筈なのに鎌倉に攻めて来るという噂で緊張した、等と云う記事がある。 源義経は藤原秀衡から与えられた衣川・高舘の屋敷に住んでいたが、文治5年4月30日(5月30日)(1189年藤原泰衡の襲撃により死去したとの記録が、『吾妻鏡』にある。藤原泰衡は父藤原秀衡の遺命に叛き義経を誅殺し“功績”を源頼朝に伝えるべく報告を出すが、その時期は遅く、高舘襲撃から22日も後である。焼け落ちた高舘の仏像から回収した義経の首も鎌倉へ搬送されたが、首実検が行われるまでに43日も要している。義経を殺害した藤原泰衡がワザとこの時期を狙って逃げる時間を稼いだとも考えられるが、単なる推定でしかない。泰衡の手下は奥州合戦に敗れ蝦夷に逃れたと『新羅之記録[12]で確認できるので、もし義経が偽の死を装って蝦夷に渡ったとしても、物理的には可能であり何の不思議もない。義経の首の運ばれている日数については、現在でも史学界から正当な見解が無い。しかし『大日本史』のこの部分をよく読むと、「頼朝が(義経の首を)止めせし」とあるので、母親の法事などで、遅れたのかもしれない。それにしても遅れ過ぎである。

吾妻鑑の記述[編集]

吾妻鑑頼朝の死後八十年経って当時の権力者北条氏の監督下で編纂された歴史書であるが、やはり北条氏寄りの記述が散見され、逆に北条氏に都合の悪い記載は除去、或は曲解して記述されたのではないかと思われる。日本中世史の権威で現代語訳『吾妻鑑』の編者である五味文彦は「伝説の義経を的確に把握することは困難である」と義経の真実像の虚実を判別することはほぼ不可能だとしている。鎌倉幕府の歴史書であることは疑いが無いが、頼朝の右筆(書記)によって書かれておらず、頼朝、頼家実朝の源氏将軍の断絶後、より藤原氏を迎え傀儡政権の下、北条氏によって編纂されている。その前半は文永二年(1265年)から同十年の間に編纂された(八代国治博士説)として吾妻鑑の最初の記事である源頼政の挙兵を記している治承4年(1180年)までの間には一世紀以上の空白期間がある。義経死去の文治5年(1189年)と曾我兄弟仇討の建久4年(1193年)の間も実に70年以上も歳月を経ており、この空白期間をどう北条政権は埋めようかと苦心の跡が窺える。幕府政所問注所大江広元の手記、九条兼実の日記『玉葉』、藤原定家の日記『明月記』も少々使われ、一番多いのは『平家物語』などの抜出で口承文芸を記録した文章は不統一性をもたらしている。それは義経の記述についても言え、歴史学的な文章と文学的(口承文芸)な部分を並列し、『吾妻鑑』は一等史料として扱えず、それに準ずるものだと高田実は記している。

文治5年(1189)4月30日 

陸奥国に於いて泰衡(=藤原泰衡)源予洲(=源義経)を襲う。予洲は持仏堂に入りまず妻子を害し次いで自殺す」

とこれは通説通りの記述だが、

文治5年(1189)5月22日  

「奥州の飛脚参着す 申して云く 去月晦日 民部少輔の館に於いて予洲を誅す(討つ、殺す)」 [13]

とここでも義経が死んだことが記述され同じ人物が二度死んだと書かれている。作家の中津文彦は義経の死についてははっきりせず、死んだという確証は何もないと云っている[14]


高舘襲撃事件から七ヵ月後、頼朝が奥州から鎌倉へ凱旋して文治6年(1190年)1月、

伊予守・義経が奥州の賊徒を率いて挙兵したという噂が広がり、鎌倉が警戒した」と吾妻鏡にある。

義経の生存を既成事実として受け止める暗黙の了解があったとみる向きもある。義経を名乗ってと云う記述はない


ところが文治6年(1190年)正月6日に、

大河次郎兼任以下が去年の十二月以来、反逆を計画し、義経を名乗って出羽の国の余目町に現れ、
七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発した」

という記事があることなどを考えると、吾妻鑑の記述洩れということも考えられる。

文治5年(1189年)12月23日には、

「工藤小次郎行光。由利中八維平。宮六兼仗國平等。發向奥州。件國又物忩之由。依告申之。可致防戰用意之故也。」

がある。 義経・源義仲藤原秀衡の子らが鎌倉に発向するとの風聞があり、深雪の期にもかかわらず、翌日には、工藤行光等を奥州に派遣したことが窺える。

玉葉の記述[編集]

文治五年(1189年)五月二九日に九条兼実の元へ義経死すの報が届けられる。 「文治五年五月二十九日:今日能保からの話によると、九郎は泰衡の為誅滅せられたと。天下の悦び何事かこれにあらんや。実に仏神の助けなり。これもまた頼朝卿の運なり。言語の及ぶところにあらざるなり。」と玉葉には記されている。

その他の史料[編集]

柳田国男五味文彦は『義経記』は歴史書とは扱えず参考資料であり、「諸国を巡り歩いた法師山伏によって流布されたもので、京や鎌倉の人々がとうの昔に忘れ果てている間に断片的に民衆の間に育て上げられた文学である」としている。 創作であるとされる『義経記』の影響を多少受け、完全な偽書ではないが、歴史資料としての信用性は低いとされる古文書である。

  • 類家稲荷縁起
  • 宮古判官稲荷縁起
  • 奥州南部封域志
  • 法霊権現の棟札
  • 小田八万所蔵秀衡の遺言書
  • 可足記
  • 新撰陸奥国志

『義経記』は奥州山伏たちが、人々へ語り伝えた物で、「船弁慶」「義経千本桜」など歌舞伎の題材となっており、創作として、あるいは物語として伝えられたもので、余りにも脚色が多く、義経伝説の北行伝承には、『義経記』である山伏らの流布が主なものであると考えると、この北行伝承は正しく検証できない。五味文彦はどこまでが本当の義経か判別できないと書いている。義経と弁慶との五条大橋での出会いや、高舘で義経を庇いながら立って死ぬ弁慶の最後の場面なども後世の脚色とみることが出来る。

北行伝承の検証[編集]

『義経記』の影響が強いと思われるのは八戸周辺と宮古周辺であり怪しい人物や物語風の事柄を記した古文書が数多く存在する。

  • 常陸坊海尊鬼一法眼、吉次などの名がでる史料……これらは全国に伝承があるが、学術的には実在しない。
  • 義経焼け首や、衣川館が炎上したとする史料……発掘調査の結果、燃えていなかった可能性が高い。
  • 蝦夷渡海を必要以上に困難とする史料……当時、蝦夷との交流は活発であり、舟による渡海は頻繁にあった。
  • 義経に同行した妻を久賀氏の姫とする史料……実在しないとされる。
  • 平泉の地元では「判官館」とよぶ高舘を「高舘」と呼ぶ史料。
  • 当時一般には無名のはずの弁慶の逸話
  • 弁慶直筆書……添え状に疑問点多し
  • 山伏に関係する笈などの物証
  • 物語の様に書かれている史料

水戸光圀[編集]

水戸光圀は義経北行説に執着し、『大日本史編纂事業では、その一環として調査団を組織し快風丸を建造して蝦夷地探検を義経北行伝説の真偽を確かめるため派遣している。貞享2年(1685年)、貞享5年2月(1688年3月)など、数回に亘って航海が行われたが、この説を裏付けるほどの期待された効果は得られていない。しかしながら派遣団は、蝦夷地に義経・弁慶にちなんだ地名があること、義経がアイヌの人達からオキクルミ(狩猟や農耕をアイヌの人に教えた神)として崇められているとして報告している。

《世に伝う、義経衣川に死せずとして蝦夷に逃れると。今、『吾妻鏡』を考えるに閏四月己未(新暦5月30日)
藤原泰衡、義経を襲いてこれを殺す。五月辛巳(新暦6月22日)報至り(頼朝へ)、まさに首を鎌倉へ致さん
とせしが、時に源頼朝使いを使わして(平泉へ)これ(首の鎌倉搬送)を止める。六月辛丑(新暦7月13日)、
泰衡が使者、首を斎して腰越に至り、漆函をもて之(首)を盛り、浸すに美酒をもってす。頼朝和田義盛梶原景時をして之を検せしむ。己未より辛丑にいたるまで相隔てること四十三日。
天時に暑熱なり。函にして浸したりといえども、ついぞ壊爛腐敗せざることを得ん。よくぞ真偽を弁ぜんや。
しからずんばすなわち義経は、偽りしして逃れ去りしか。今に至るも夷人、義経を崇奉し、祀りて之を神と
なせり。けだし、その故あらん》

とこのようにこの事件を疑っている。 『大日本史

「世伝義経不死於衣河館、遁至蝦夷」「然則義経偽死而遁去乎、至今夷人祟奉義経、祀而神之、蓋或有其故也」

大日本史徳川光圀編纂。

「松前城下より下ったサルという地に、陸行で九日の距離で、源義経公が上陸した場所と伝えられています。
伝承によれば、義経公はアイヌでサルを統治していた大将の婿になり、サルに程近いハヘという屋敷を構えたそうです。
その後、大将の宝物を盗んで本土に引き返したそうです。アイヌの言葉で義経公はウキクルミ、弁慶をシャマニイクルと
呼んでいます。蝦夷で昔から伝承されていますが、真偽の程は判りません」

元禄元年(1688年)の海風丸の報告

イザベラ・バード[編集]

イザベラ・バードも『日本奥地紀行』に、「彼(義経)は蝦夷に逃れてアイヌ人と長年暮らし十二世紀の末に死んだ、と信ずる人も多く、アイヌ人は何処のことを固く信じている人は殆ど無く、義経は彼らの祖先に文字や数学と共に、文明の諸学芸を教え、正しい法律を与えた、と主張している」、等と和人からの伝承を記している。

アイヌ伝説[編集]

宝永7年(1710年)に蝦夷地を訪れた幕府巡検使松宮観山が、蝦夷通詞からの聞書を基にした『蝦夷談筆記』(『日本庶民生活史料集成』第四巻)には、「(義経が)蝦夷の大将の娘に馴染み、秘蔵の巻物を取たるといふ事」をアイヌがユーカラに謡っている事などが記されている。これは『御曹子島渡』の、義経が千島大王の大日法の巻物を、天女の力を借りて写し終えると白紙になったという、物語を擬えたものである(『義経伝説と文学』大学堂書店、1935年)。和人が伝えたと考えられるが、この伝説も巻物がアイヌの文字を記した書物で、白紙になったことでアイヌの文字が失われた、という話は、義経がアイヌの文字を奪ったという話と同じである。 原田信男弁慶岬(弁慶崎)の地名はアイヌ語の「ベルケイ」と云い、これは「裂けた所」の意味で、海食地形のことであり、ここで義経一行が逗留中に余興として弁慶が相撲をとったと伝わるが、アイヌ人が弁慶としてで命名したのではなく、和人が義経伝説に因んで勝手に命名したに過ぎないと書いている(小シーボルト蝦夷見聞記)。この事は間宮林蔵や、岩崎克己も指摘している。元文4年(1739年)成立の坂倉源次郎『北海随筆』(『日本庶民生活資料集成』三一書房、1969年)には、この「弁慶崎」から、義経が「北高麗」に渡った、とする伝承が記されている。また、義経をオキクルミとすることに対して、弁慶をもう一人の英雄でサマユンクルに擬える事も、広く行われていた。この地方の民話に詳しい北星学園大学文学部教授阿部敏夫は、義経はアイヌの住居を訪ね歩いたのではないかとしている。

金田一京助[編集]

金田一京助御曹司島渡の説話が蝦夷地に渡りアイヌの口にも「判官様」が知られているのを、後世の人々が知って広ませたということを聞き出し、アイヌは義経を口承文芸にしていないと述べている(『旅と伝説』所収昭和5年)。また、オキクルミはアイヌの創造神であり、アイヌにとっては迷惑な話だったが、判官=オキクルミという話をすると、内地の人が喜ぶのでそう話すことがあったとアイヌから本音を聞きだした(『アイヌ文学』昭和8年)。前述の通り、金史別本が偽で沢田源内を捏造者と断定したが、だからといって義経=ジンギスカン説総てを否定することにはならない。あとでも触れるが、彼はアイヌ語の語学者であり、東洋史の専門家ではない。金田一は小谷部全一郎ドクトルと『中央史檀』の中で呼び、アメリカで苦学して大学を出たことに対し敬服し、ヒーローだと持ち上げてもいる。ただ、一般の義経説ばかり登用し正規である文献を全く考慮していないことに遺憾を覚え、小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』を批判した。しかし彼と若いころアイヌの救済活動で行動を共にしたことがあり、当時はアイヌの伝承を聞書きして『義経入夷伝説考』を書き上げ、小谷部に送ったこともあった。こういう伝説が大衆にとっていかに危険かを予測し、政治的プロパガンダとして利用された場合、まったく信じない者達の心の奥にイメージを埋め込まれることを危惧した。 小谷部説に対し批判の傍ら「史論よりはむしろ、英雄伝説の圏内にいる古来の義経伝説の全容の一部を構成するもっとも典型的、最も入念な文献として興味があるものである」と旧知の間柄にある小谷部に対し、若干配慮を見せている。 小谷部と共にアイヌ救済活動をしていた時期に、小谷部が自分の娘の名前をだし、「ヘブライ語ではイサは”女”という意味ですよ」と言ったのを聞き、金田一は「何とモノを信じ易い人なんだろう」と思ったと述懐している。他に『中央史檀』の中で星野恒の論をあげ、入夷説や清祖説が存在しないと記している。

同じ否定論者でも金田一は多少異なり、他の学者が文献を元に史実と合わせ、論説を行うというスタイルに対し、金田一は文献ではなく事象からの推論を固める方式で、その結果として義経生存説を否定するというスタイルをとった。

  • 義経蝦夷渡海譚が江戸時代初期の寛文年間に集中していること。
  • 御伽草子』の「御曹子島渡」や義経語りが、蝦夷地での義経伝説として波及したこと。
  • 所謂『判官びいき』が義経生存説の勃興に大きく影響したこと。

など、義経生存説の否定への研究は金田一の影響は少なくなかった。

鳥居龍蔵[編集]

鳥居龍蔵は事あるごとに義経=ジンギスカン説を否定している。明治38年2月1日読売新聞の「亜爾泰(アルタイ)山頭の神鏡」と云う記事の内容で、バイカル湖辺アルクスク約50里のアラールス・スカヤステープの1小村にあるラマ教から、1枚の神鏡が発見され、高砂[要曖昧さ回避]の尾上松、爺と姥、鶴亀の紋、「正三位藤原秀衡朝臣謹製」の文字があった。これが、源義経を想起し、義経=成吉思汗説も事実無根ではないのではないかという記事を載せていたが、鳥居は2月4日の同新聞で反論し、鏡に『正三位藤原秀衡朝臣謹製』と記すのは江戸時代に盛んに行われ、それがアイヌを仲介者として北交貿易によって大陸に入り、それがたまたまその地に収まったに過ぎないと論説した。偶然にしてもラマ教の寺院の廟に存在すること自体本来はあり得ないことだと思われるが、ここでは鳥居の論で収まっている。

間宮林蔵[編集]

窮髪記譚』を間宮林蔵が記しているが、義経北行説を載せている。

満州人源義経蝦夷より満州へ入ったのか度々聞いたところ、証拠は確認出来なかったが、
当時の漢土天子は日本人の末なりという事が伝承され、人ごとにそう答えた。
思うに蝦夷へ行きし我が国の言葉を聞き伝えたるにも、そうあるわけでもないだろう」

と書かれている(『東韃地方紀行』P169)。

つまり日本人が度々満州へ渡って満州人に云い伝える訳がないと云っている。証拠まで確認しようとしているから、これは重く見るべきである。小谷部全一郎が『成吉思汗ハ源義経也』の中で清朝末裔は義経の子孫だということを書いているが、軍部の大陸でのこの説の利用はこの事実によるものの様である。更に、

「唐太(=樺太)を離れてマンコの川(=黒竜江)を五十里ばかり上ったところのアヲレヒと云う処で、
青石に日本画風で描かれの様なもので彫った二の馬の絵を発見し、異国の筆法ではないと確信した。
間宮も描いてみたいと所望したが拙くて辞めた。右の馬の絵はもしや義経公かもしくはその従者か。
蝦夷地に弁慶崎というところがあるが、正しくは世人の誤りで蝦夷言葉(=アイヌ語)にヘンケルという言葉があり、
これはヘンケルサキであって弁慶崎ではない」

と書いている。原田信男が指摘したアイヌ語のベルケイを弁慶崎とする(ベルケイとヘンケルの違いはあるが地域差、アイヌ人によって多少異なって伝わる)和人の間違いを指摘しているので、間宮林蔵は義経北行説に偏っておらず、信用できると思われる。

幕府は間宮林蔵に北方探検を命じ蝦夷近辺の物産調査、北方の領土調査、ロシアの動向、貿易の可能性調査が主な内容だったが、義経の子孫が蝦夷を経由し、大陸に渡ったのではないかという調査も探検の目的に含まれていた。(偽史冒険世界)

臨風生[編集]

臨風生は『中央史檀』の中でこの説を否定している。也速該巴阿禿兒(エスガイバアトル)、其妻訶額侖兀眞(ホエルンワデン)との間には四人の男子と一人の女児とがあり、成吉思汗はその長子であったが、也速該は塔塔兒(タタール)の酋長帖木眞(テムジン)を破り捕虜にし、後に成吉思汗となる子が斡難の送理(オンノのセリ)温弧山に偶然生まれたので敵将の名をとって帖木眞と名付けた。其の産まるる時、右の手に髀石の如き血塊を握って、呱々の聲を挙げたと云うことである。『元朝秘史』、『元史譚文證補』、『聖武親征記』、『蒙古源流』、『元史太祖本記』、『長春眞人西遊記』、ドウソンの『蒙古史』に至るまで成吉思汗の誕生及び其の人物が詳細に記されており、源義経再興傳説などを要れる余地はない。博引旁證百千なるも、あやふやでは何の権威も有しない。青い眼鏡で得意勝手な我田引水の筆法を用いられたら、流石の成吉思汗も地下に苦笑を禁じえぬ。判官びいきは現在まで廃らない一種の人情美であるが、義経と成吉思汗には大分その人物に相違があり、例えば義経は兵法に長じ、戦略に巧みであったが、成吉思汗ほどの蓋世的英雄ではなかった。若し成吉思汗であるほどの大豪傑であったなら、大物浦から引還し、當麻越えで吉野に入り、山伏姿の妻に様々憂目つらい目を凌いで奥に入り、遂に頼朝と覇を争い得なかったような不器用さ加減はなかったであろう、と書いている。

義経神社[編集]

義経神社沙流郡平取町本町)は義経を祭神とする神社だが、これには諸説ある。寛政11年(1799年)、幕吏近藤重蔵が蝦夷地探検でこの地に来た時、この地に義経伝説があることを知って建立したという。この近くの新冠郡新冠町には、判官館城跡と呼ばれるチャシ()跡がある。この地に重蔵が最初に義経神社を勧請したと伝わっている。小シーボルトと呼ばれるハインリヒ・フォン・シーボルトもこの地を訪れたことがある。農耕、舟の作り方と操法、機織などを伝えたという伝説が義経神社に伝わっており、社伝によれば、義経一行は、むかし蝦夷地白神(現在の福島町)に渡り、西の海岸を北上し、羊蹄山を廻って、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ集落に落ち着いたとされ、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官の神ほどの意味か)あるいは「ホンカンカムイ」と慕われたこという説もある。他にアイヌの民の間ではアイヌの民から様々な宝物を奪った大悪人とされていたり、義経に裏切られて、女の子(メノコ)が自殺を遂げた場所も存在する。アイヌの酋長ベンリウクが義経を祀ったのが最初という言い伝えもある。(ボルテ・チノ日本の心2号)

江戸期の小説など[編集]

松浦静山の『甲子夜話文政4年(1821年)および『甲子夜話続編』や古川古松軒の『東遊雑記』天明7年(1787年)などにみられるように、義経が韃靼に渡り、その子孫が清和源氏の一字をとって、清国を興したとする説がむしろ幕末までは一般的であった。通俗小説の世界では、嘉永3年(1850年)に、永楽舎一水の『義経蝦夷談』に義経がジンギスカンになったとする話がある。

笹竜胆の紋章[編集]

この説の中に笹竜胆紋章を使用したという[15]説があるが、清和源氏の紋章である笹竜胆をジンギスカンの軍がこれを使用したとするものである。しかし、微妙にデザインが異なり、源氏と関係あるかどうかは判別ができない。ロシアナホトカの住居にこの笹竜胆を使用したものがある[16]など、多少の日本人と大陸との交流があったかもしれないが、この説を肯定する程の証拠にはなっていない。尚、笹竜胆の紋章は義経の属する清和源氏のものではなく村上源氏のものであるとする意見があるが、河内国石川郡発祥の石川氏は、源義家(清和源氏)の子・源義時を祖とし、代々石川郡を本拠とした石川氏の家紋が、【石川竜胆】という紋である(羽継原合戦記)。笹竜胆は、村上源氏(六条・久世(くぜ)・岩倉・千種(ちぐさ)・梅渓(うめたに))以外に宇多源氏(綾小路)も使用している。また鎌倉市は笹竜胆を源氏の正紋とみとめ、鎌倉市の市章に使用している。[17]

『中央史檀 成吉思汗は源義経にあらず』の沼田頼輔によると、源平時代はまだ紋章が確立しておらず、また紋章は朝廷から賜る物ではないとしている。従来清和源氏は笹竜胆を、桓武平氏を、藤原氏を、橘氏を家紋として与えたと伝わっているが、正史実録にはないことで、源平時代にはまだ源平両氏の間には紋章は用いられることは無かったという。即ち赤と白の色彩の軍旗で源平を区別した。ただし、その部下には熊谷直実兒玉黨の如く、既に家紋を用いた者が無かったわけではない。吾妻鑑文治五年の仕様書によれば、白の錬絹でこれを作り、上に『天照大神八幡大菩薩』の神號をあげ、下に二羽を縫い付けたのみであって、他には何も書かれなかった。準備として下総千葉常胤に命じて軍旗を調製した。また、公家村上源氏宇多源氏が笹竜胆を用いたからとて、武家の清和源氏が用いるわけはないとしている。ただし現在では石川氏が用いた事が判っていることなどから清和源氏は笹竜胆の紋章を用いたこととされている。

伝説地[編集]

義経不死伝説および義経北行伝説においては、当然のことながら平泉以北に伝説地が分布する。

主要な伝説地

この伝説に基き、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(北海道平取町)に義経神社が創建された。

修験道と義経伝説[編集]

義経伝説が色濃く残る岩手県宮古市黒森山羽黒修験と密接な関わりを持つとされ[18]、国の重要無形民俗文化財である黒森神楽山伏神楽の代表的なものである。このように、三陸沿岸北部は山伏の一大根拠地であり、この地の義経伝説は「弁慶の大般若経」「鈴木重家の笈」など修験道との関わりを示すものが多い。これら修験者の残した道具や巻物が、判官びいきの心情と結びつき伝説を形作っていったと考えられる。 更に江戸時代中期の盛岡藩の儒学者であった高橋東洋(高橋子績)が、これらの伝説をまとめた『黒森山稜誌』『奥州南部封域志』などを執筆したことで、現在につながる義経伝説を成立させることとなる。

中世の藤原氏北方貿易と渡党[編集]

北方貿易[編集]

義経が登場する以前から奥羽蝦夷、海外交易を行っている。平安中期から鎌倉中期にかけて、北方貿易奥州藤原氏は行っており、莫大な富を築き、奥州藤原氏、あるいはそれ以前に奥羽を支配した安倍氏清原氏が、中国(北宋)との間で行った貿易で主に十三湊を拠点として行われた。のちに平清盛南宋との間で行った日宋貿易と違い、朝廷などの影響を受けない北方のルートを使ったと推定される。この十三湊は 鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地で、蝦夷のアイヌ和人との間の重要交易拠点でもあった。

奥州藤原氏の興隆[編集]

金色堂の仏壇や4本の巻柱長押アフリカゾウ象牙夜光貝紫檀が使われており[19]、当時の奥州藤原氏の隆盛ぶりと海外とのつながりが証明されている[20]。つまりここの地方は朝廷の中央文化とは別にアジアの独自貿易ルートを持っており、独立的経済圏を形成していた。

藤原基衡は、毛越寺本尊の制作を仏師・運慶に依頼し、其の費用一体分は円金100両、羽100尻、アザラシの皮六十余枚、安達1000き、希婦の細布2000端、糠部駿馬50頭…等々を京へ収めたほか、中央政界の実力者藤原頼長荘園も管理し、海外からの宝物を納めている。延暦21年(802年)、東北以北に住む蝦夷の族長アテルイを、坂上田村麻呂が征討したことは、よく知られ、蝦夷支配のための、政府出先機関、胆沢(いさわ)鎮守府が置かれ、安倍氏 (奥州)が台頭し朝廷は安倍氏からもたらされる、オットセイアシカ毛皮は装身具に必要であり、の羽根は矢羽に欠かせなかった。

渡党・アイヌの狩猟など[編集]

この頃から齎されたといわれる、蝦夷産の昆布は現在も京料理に使用されている。藤原氏の北方貿易とは別に、渡党らがアイヌと和人との仲介役を果たし、交易の民として活躍した。そのアイヌにとって狩猟は、縄文時代続縄文時代以来の長い年月を有する生業であり、7世紀にはじまる擦文文化期の遺跡ではアワオオムギヒエソバなどの出土例がある。海獣の捕獲などについてはむしろ和人の側がアイヌ文化の影響を受けた可能性が高い。和人が蝦夷進出をするに従い、半ば強制的に義経とアイヌ神話を和人が結び付けた。和人の蝦夷進出は1669年から翌年にかけておこったシャクシャインの戦いなどを引き起し、アイヌ人との摩擦も大きかった。西廻り航路などの海運網の整備によって、蝦夷地を含めて国内市場、一国市場が形成された。とくに、江戸時代中期以降は、昆布俵物など蝦夷地の産品が江戸や大坂、京に輸出された。それらにより北方への関心が高まったが、徳川光圀が蝦夷探検隊を派遣した例でも判るように、まだ日本人にとって蝦夷、樺太千島列島はまだ謎の多い土地であった。

江戸期から明治[編集]

シーボルト[編集]

1823年に来日したオランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトは本格的な日本研究をおこなって『日本』を著したが、彼はこのなかでこの説を書いている。 蝦夷志[21]読史余論長崎出島商官長のイサーク・ティチングに翻訳され、マルテ・ブリューン[22]が『地理および歴史に関する探検旅行記録集』[23]に書き、シーボルトはこれを読んでいた。[24]和年契を日本で座右の書とし、この説を確認する。

シーボルトの分析[編集]

 シーボルトは日本滞在中に、オランダ語通訳の吉雄忠次郎からこの話を聞き、

「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では
蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。
『東蒙古史』には豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。
…その後間もなくチンギス・ハーンははじめオノン川のほとりに立てられた 九つの房飾りのついた白旗を掲げた。
…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」

と記している。 シーボルトは、さまざまな伝承、説話、先駆者達の研究を綿密に検討した結果、義経が蝦夷へ行き大陸へ渡った説を支持した。まず彼は二人に関する年代的な一致点に注目し、義経が死んだとされるのは1189年であり、その後蝦夷から大陸へいけば1190年代にモンゴルに到着したことになる。一方、ジンギスカンは生年月日が不詳であり、前半生の資料が少なく、1190年代に突如としてモンゴル中央平原に出現し、可能性があるとした。またジンギスカンが登場したときの九つの房をつけた白い軍旗や、モンゴルや中国になかった長弓をジンギスカンが得意として使い、これは義経がモンゴルに持ち込んだと考えた。 さらに、日本では、神武天皇以来日本諸侯の爵位として「守」(かみ)といい、義経は「かみ」すなわちモンゴル民族の「カーン」になったのではないかと考察した。ただし、カーンについては『元朝秘史』に他部族の長を合罕と称するという記述があり、日本とのかかわりは指摘されていない。

モンゴルの宮廷習慣と日本貴族との共通点[編集]

ほかにもモンゴルの宮廷習慣と日本の貴族たちの習慣に共通点が多いこと、たとえば城壁の外装は”幕=MAKU”といい、紋章を用い、朝廷や祝宴では白色が用いられること、白い天幕に「シラ」という名称をつけること、さらにはその頃に日本独特の長い弓と矢も用いれられるようになったということ、中国で一般的に用いれられていた短い弓や矢とは明らかに違っていたこと、中国人に非常に恐れられたため、「長い弓の盗賊」と呼ばれるようになったこと(『小シーボルト蝦夷見聞記175頁)……などと挙げながら実証主義の姿勢でこの説を構築していった。原田信男は殆ど言葉遊びに近く、単なる推測の域を脱していないと否定的である。[25][26]

蒙古源流からの引用[編集]

シーボルトの『日本』(第一巻二八七頁注10)によれば、「この中国の史書」の引用部分はイサーク・ヤコブ・シュミット編の『東蒙古史』に拠り、モンゴルの歴史家サナン・セチュン1162年に記した『蒙古源流』をシュミットがドイツ語訳したものである。 一説には1189年にはチンギス・カンは34歳であったといい、1206年には44歳で北アジアを統一し、強いハンと云う意味で、可汗を称したともいう。また「九つのふさのついた白い旗」の存在は実態はよく判っておらず、一本の旗に九つの吹流しが付いていたものと考えられており、かつては古代中国で絶大な権力を持った王の象徴とされていたという。 なお、ケルレン川バイカル湖周辺のダツルン山脈南部を流れており、アムール川にそそぐ川である。またアルラト族はチンギス・カンを支えた名門で直属の部下に多くなっている。ベーテについては不明だが、族長と巫女のベゲが統治していたことからこのベゲの部族だと推測される。

再来日して正史として認めるよう懇願[編集]

シーボルトは「ジンギスカンの伝説的な系譜を重要視しているわけではなく、憶測を逞しくしようとは思わず、義経が蒙古の戦場に登場することに推測を加えることで、歴史家の注目を集めたいのである」と結んでいる(『シーボルト日本』)。 追放処分から30年後再び来日(1861年)し、幕府の顧問になるが、西洋書籍の分析機関『蕃書調所』に勤めた西周 (啓蒙家)に再三に渡って「義経=ジンギスカン説」を正史として認めるよう薦めている。(『末廣の壽』1869年)

蘭学者調所の教授手伝の大島総左衛門高任が手塚律蔵好盛とオランダ尺度エル(el)とフート(voet)のことで議論していたが、判らないのでシーボルトに質問すると、

フートは日本のと変わらず、太祖以下二世三世がヨーロッパに侵攻したとき、日本の尺度を彼らに伝えた
からである。
蒙古人がなぜ日本の尺度を用いたかと云えば、その太祖が日本人だったからに外ならず、彼の名は〇〇〇というが、
圓牆を避けて蝦夷地に逃げたが、土人を征服したため益々兄の怒りを買い、討伐の風評に恐れをなして満州に渡った。
ついで蒙古に入って一地を攻略し次第に近隣諸国を併合してついに國を元とした。
自分が去年支那に渡航したとき、元の太祖の建立に関わる健靖寧寺記と題する碑文を示されたことがあるが、大意が
上に述べた事であり、碑の側面には鳥居が刻んであった。因に明治にこの碑文が問題にされたとき、健セリュウ
(青竜)寺記と聞き間違われ、義経の墓ともされてしまった。

大島は碑文を写し、西周もシーボルトからの太祖は義経、妖僧は弁慶と聞かされたが、信じなかった。蒙古字の碑文も示されたが、漢字、ラマ教の名があったと記されている。(『義経入夷渡満説書誌』P61『末廣の壽』1869年からの引用)

吉雄忠次郎[編集]

日本』の中でシーボルトは吉雄忠次郎が確固たる発言をしているという内容で、

「義経自殺の噂は、頼朝を安心させ、また反対派の武装を解除するため広められ、国の年代記に記入されたとし、
更に彼は義経は蝦夷から韃靼に渡り、元朝の祖となったと確言している」

と記している。シーボルトが彼の影響を受けている事が窺え、吉雄もまたこの説を信じていたことが判る。

グリフィス[編集]

グリフィスが書いた『皇國』(144頁)(明治九年刊)で、支那で刊行されたセップ(Seppu)という書物に成吉思汗は日本から来た源義経であると記されている。

源義経の支那音は「ゲンギケイ」である。義経は衣川で戦死したあとテムジン(又はテンジン)と呼ばれた。蒙古の
征服者の元の名はテムジンであった。日本のアイヌは義経にハンガンダイヨウジンの神號を奉っている。 義経は
1159年に生まれ、死を伝えられた時は30歳であった。成吉思汗は通説によれば、1160年に生まれ1227年に死んだ。
もしゲンギケイとジンギスカンが同一人物なら、義経は大陸における覇業の完成に38年を要したわけである。

末松謙澄[編集]

末松謙澄伊藤博文の知遇を得て、明治11年(1878年)から12年にかけて外交官としてロンドンに赴任、ケンブリッジ大学で学んだ。『義経=ジンギスカン説』を卒業論文にまとめて発表した。末松は江戸時代からの義経生存説の流れを下敷きにし、手塚律蔵(瀬脇寿人)の『浦潮港日記』やグリフィスの記述などを参考にして完成させた。題名は「The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なること)」。『大日本史』などの記述を引用したほか、独自の見地からも論証した。これを書いた背景にはイギリス人たちから日本が清国属国のように云われるので、日本人は世界的な英雄を出した民族であり、卑下された見方は心外であるとして大胆な仮説を唱えたとされている。[27] この論文は内田弥八訳述『義経再興記』(明治史学会雑誌)として明治18年(1885年)を嚆矢としてそののち和訳出され、小谷部全一郎の論に影響を与えた。初版が明治18年3月、20年には7版をだした。

反論[編集]

歴史学者の重野安繹は家塾で「源義経が蝦夷を経て金朝の時其の土に王たりし事、又鉄木真と同人と云う説の無稽なることを述ぶ」という談話を発表しこの説を批判した(明治23年(1890年))。重野の談話を受け、星野恒が翌年『東洋学芸雑誌』に「義経の話」として発表、重野談話を『東京学士会院雑誌』に発表し、源義経の衣川自害説は再確認され、永田方正も『史海』第27号「義経韃靼考」によって完全否定した。

二人の年表[編集]

チンギス・カン 西暦年/和暦年 源義経
(以下のはっきりした年号は不明) 1159年/平治元年 義経の生年。京都で源義朝の9男として生まれている。平治の乱が起き、父義朝敗れる。幼名は牛若丸。
モンゴル中央高原でチンギス・ハン誕生する。右手に“血”の塊を握っていたと伝承。父はイェスゲイ。幼名はテムジン。 1162年1167年?詳しくは不明
1169年/嘉応元年 義経は鞍馬寺に預けられる。遮那王に名前を変える。(10)
1174年/承安4年 義経は奥州にいく。(15)
テムジン、ウンギラト族のデイ・セチュンの娘ボルテと結婚するが、メルキド部族にボルテを奪われる 1178年/治承2年
1180年/治承4年 義経、黄瀬川の宿で頼朝と対面する。(22)
1181年/治承5年 大工の馬事件鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、工匠たちに与える馬を引かせられた。たとえ兄弟であっても、義経は頼朝の御家人の一人にすぎないということを認識させた事件(23)
1184年/寿永3年 宇治川の合戦1月20日兄範頼とともに宇治川の合戦に勝利し、義仲を近江粟津に敗死させる。壇ノ浦の合戦。(26)
1185年/寿永5年 義経京に凱旋するも、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず、都落ちし、大物浦より西国へ向かうが、暴風雨により失敗(11月6日)。その後消息不明。(27)
テムジン、メルキド部族をプウラ・ケエルで破りボルテを奪還する。テムジン、第一回目の即位「ハン」を宣言(年号は不確かで実際はこの前後か) 1189年/文治5年 奥州衣川で義経自害。(31)
チンギス・親友ジャムカとの戦いに敗れる。(十三翼の戦い) 1190年/文治6年

大正期[編集]

小谷部全一郎説[編集]

小谷部全一郎アメリカ合衆国で学んで牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが実は源義経ではないかという話を聞き、義経北行説に興味をもった。その後、満州モンゴルに旧日本軍の通訳官として赴任し、「成吉思汗=義経」の痕跡を調べるべく、満蒙を精力的に取材する。1920年帰国。軍功により勲六等旭日章を授与されている。彼はこの調査によって、義経が平泉で自害せず、北海道、樺太にわたり、さらにモンゴルに渡ってチンギス・ハーン(成吉思汗)となったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。

小谷部の論拠[編集]

  • 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られた義経の首は、事件を5月22日に報告し、6月13日に鎌倉の頼朝に届けられている。いくら中世とは言え、当時は早馬を飛ばせば平泉から鎌倉までは数日で使者は着くはずである。何故一ヶ月以上もかかったのか。故意に腐らせ偽物と判別できなくするためではないか。
  • 吾妻鏡』で衣川事件から1年後(1190年5月)鎌倉に義経軍が攻めてくるという情報が流れ緊張が走った、という記録があるが、義経が死んでいるという確証があるならおそれる必要は無いのではないか。おそれているのは鎌倉幕府が先の衣川事件の首は実は偽物であり、義経が生きているのを知っていたという証拠ではないか。
  • 成吉思汗の少年時代の記録として「朽木の洞に隠れていて助かった」とあるが、兄頼朝の伝説と内容が重なる。
  • 大日本史』などでは鎌倉に届けられた首は偽首としており、蝦夷へ逃亡したと記している。
  • 延宝年間の『可足記』に九郎判官の身代わりに杉目太郎行信が致し、行信の首が鎌倉に運ばれた、と記す。
  • 北海道と大陸の間に昔からアイヌの行き来があって、義経一行はしばらく北海道に滞在した後アイヌの水先案内人によって大陸に渡った可能性が十分に考えられるのではないか。
  • 成吉思汗が1206年ハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎判官を意味するものではないか。
  • 成吉思汗は紋章として笹竜胆を使用した。笹竜胆(源氏の紋章)を尊び、九の数を好むのは己の名の九郎に因んだからではないか。
  • 成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。
  • 成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。
  • 沿海州ナホトカウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地があり、九郎判官が上陸した土地ではないか。
  • 成吉思汗が滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があるのは、義経ゆかりの「平泉」によるのではないか。
  • 蒙古では現在でも「オボー祭り」が8月15日に開かれているが、義経が幼年時代をすごした京都鞍馬山でも、この日、同じような祭りが見られる[28]
  • 成吉思汗はニルン族の貴族キャト氏族だが、「キャト」は「キョウト」「京都」出身をあらわしているのではないか。
  • 国名「元」は「源」に通じる[29]
  • 年齢もほぼ同じ。義経が衣川で討たれたのが30歳で、その数年後ジンギスカンが表舞台に登場するようになった時期の年齢が30代半ばであるなら、辻褄が合うのではないか。
  • ジンギスカンの前半生には空白部分が多い。
  • 両者とも背は高くなかった。酒も全然飲めなかった。
  • 戦術も同じ、戦い方もそっくりであった。
  • モンゴル文字にかなりの平仮名からヒントを得たとしか考えられない文字が存在する。
  • 蒙古の地名や現地言語に日本内地、蝦夷との類似性がみられる(チタ、スルガなど)。蒙古には「源」の苗字が多い。
  • ラマ教の寺院に伝わるジンギスカンの肖像はどこか日本人的な顔立ちをしている。

蘇城(スーチャン)[編集]

小谷部はまた、ロシアウラジオストックから120キロメートルほどのところに、蘇城(スーチャン)という古城の遺跡があり、日本の武将が築いたという伝説が残っていることを記している。その武将は後に中国本土へ攻め入って、大王になったという。昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築いた。武将がここで「蘇生した」という逸話から、「蘇城」と命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自らは中国本土に攻め入って強大な王国を建てたという。ハンガン岬から東北に120キロメートル離れたところにあるこの「スウチャン」は中国語であり、沿海州1858年ネルチンスク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったため、ロシア領下でも中国語の地名が残っているという地元の伝承を紹介している。

義経の古碑[編集]

小谷部によれば、ニコラエフスクから100キロメートルの郊外に石碑があって、そこに現在は撤去されているが「義経」などの漢字と、明瞭な笹竜胆の紋所が刻まれてあったといい、「隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗のいわゆる義将軍の古碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり」と述べる(『成吉思汗ハ源義經也』)。

笹竜胆の紋章[編集]

さらに小谷部は、大正14年(1925年)2月1日付の朝日新聞で、シベリア出兵当時、ニコラエフスクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であらわれたことを記している。わけを尋ねたところ、昔から伝わっているもので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったという。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと小谷部は説明している。

結論[編集]

笹竜胆の紋章のみならず、それまで日本にしかなかった長弓の使用、白旗の使用など、それまで蒙古の慣習になかったものが成吉思汗によりはじまり、旗印は九旒の白旗、紋章は笹竜胆など、すべて源義経の文物と一致しており、これこそ、成吉思汗が源義経にほかならない何よりの証拠であると、小谷部は結論づけている。

『成吉思汗ハ源義経也』の主な内容であるが、清朝は源氏の末裔であるというのがよく否定論者の標的の的になるが、間宮林蔵の『窮髪紀譚』には満州人が中国の王族は日本人の末裔と沢山の人間が答えたと書かれている。

小谷部説とその反論[編集]

小谷部説 それに対する反論
ジンギスカンに関するもの
成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。 ニロンはニホンの訛りではなく、蒙古語の「納ラン(口編に闌)ナラン」、納藍(日、太陽)から訛ったものである。中島
キャトは京都出身者の事を表しているのではないか? キャトはアボルガジイ氏曰く成吉思汗の姓は「キャン」で、蒙古語の岩石に直下する飛泉の意味で、「キャト」はその複数形である。中島
成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。 小谷部は九郎(義経官職の九郎判官)に結び付けたがっているが、蒙古語「古兒罕グルハン」であり、「部落の長」である。発音は「グラン」に近い。中島
義経は「九つのふさのついた白い旗」を使ったと云われているように九をシンボル数として多用した。 源九郎義経判官のシンボルとして「九」の数を挙げているがアイヌは「六」がシンボル数である。中島
成吉思汗の父「エスガイ」は「蝦夷海」から来ているのではないか 成吉思汗の父の名は「エゾカイ」ではなく「也速該」(エガイ)である。蝦夷は他民族はエゾと呼ばない。アイヌ語や奇鄰語では、Ainuといい、山丹語ではKuiである。蝦夷(カイ)に近い。ニクブン語(ギリヤーク語)ではKugiである。
武将金烏諸(キンウチョ)の名が成吉思汗の訛り 小谷部は「西利亜及沿海州の蘇城」、「雙城子と義将軍の石碑」の二項を設け、日本の武将金烏諸(キンウチョ)の名が成吉思汗の訛りだとするが、山丹人は黒龍江岸ばかりでなく、樺太南部にも住んでいるから、アイヌから云えば樺太・山丹は選ぶところではない。従って蘇城などに行くわけがない。
軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。 タイシャー(小谷部説は大将の意)は蒙古語では大石(タイシー)。親友の意味の蒙古語アンダ(安答)はオロッコ語のAndaなどと同系である。
アイヌに関するもの
オキクルミは義経を表し、サマユンクルは弁慶のことである。 オキクルミは造化神の意味でアイヌ語の「クルミ」は日本男子で、「クルマツ」は日本婦人のことだから、混乱して蝦夷に渡ってきた和人の英雄と解する人が多くなった。永田方正に従えばオキクルミはオオキリマイ、オキキリマイと云っていたのが訛ったのである。アイヌ説話のサマウンクルはオキクルミに先んじて死んでいるし、オキクルミは樺太アイヌから殺されている。サマウンクルが弁慶であるとすれば、義経に先んじて死んだことになるから小谷部氏の大陸渡航説はありえない。中島

小谷部『成吉思汗ハ源義經也』に対する反応[編集]

大正13年(1924年)の小谷部の著書『成吉思汗ハ源義經也』は「判官びいき」の民衆の心をつかんで大ベストセラーになり、多くの日本人の間に「成吉思汗=義経」伝説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、増補版も出版されたが、この本が歴史家には相手にされない一方で、広く民衆に受け入れられた背景として、単に判官びいきの心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が日清戦争日露戦争を経て「満蒙こそ日本の生命線」と考える人びとの心をとらえ、シベリア出兵をおこなっていた時期の風潮に適合したことが指摘されている。また、ブームの背景としては、大衆の政治参加の進展や中間層の形成、中等教育の普及などにともなう文化の大衆化も掲げられる。さらに、発表された大正13年が関東大震災1923年)の惨禍のあった翌年にあたることから、絶望に打ちひしがれた人びとを慰撫し、復興にたずさわる人々を鼓舞する意味合いもあったと考えられる。

これに対し雑誌『中央史壇』(第10巻第2号 1925年 320. 4-265,国史講習会)は『成吉思汗は源義経にあらず』と題して臨時増刊号を組み、国史学東洋史学考古学民俗学国文学国語学言語学など当時第一級の研究者たちがこの説に対し大々的に反論を行った。

特に言語学の金田一京助漢学者歴史学者中島利一郎らの批判は激しく、金田一京助は小谷部説を「小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」である」と全面否定した。また中島利一郎の場合の反論はさらに激しく、小谷部論をひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑稽」「児戯に等しい」という言葉を用いて痛罵している。[30]。ただしこの本の内容は90年経っており、間違いも散見される。

小谷部説批判のおもな論拠[編集]

研究者たちによる小谷部説批判のおもな論拠には、以下のようなものがあった。

  • 大森金五郎=成吉思汗は源義経也という説を読みて義経の最後に関する所見を陳ぶ
  • 金田一京助=英雄不死伝説の見地から
  • 箭内亘=成吉思汗は源義経成との説について
  • 沼田頼輔=笹竜胆は源氏の家紋にあらず
  • 臨風生=先づ人物の相違
  • 中村久四郎=義経と成吉思汗は全く別人なり
  • 藤村作=判官びいき
  • 沼田頼輔=白旗神社の祭神は義経なり
  • 中島利一郎=成吉思汗は源義経にあらず[31]
  • 中島利一郎=再び小谷部氏の『成吉思汗は源義経』を評す
  • 中島利一郎=三度成吉思汗は源義経成を評す
  • 藤沢衛彦=源義経元祖説話の構成
  • 三宅雪嶺=伝説と史実を混同するな
  • 梅沢和軒=義経なりの詰論は物足らぬ
  • 高桑駒吉=成吉思汗は源義経にあらず
  • 関壮二=義経最後の地岩手県における伝説
  • 鳥居龍蔵=義経の北方渡航説について
  • 志筑祥=人好きのする義経公

中島利一郎の反論[編集]

「『義経再興論』の明治18年から40年余りを経て、大正13年の末にこのような馬鹿な書が出版されるとは思ってもみなかった」と前置きし、「小谷部氏が名もない一酋長の遺跡の前に立って、その辺の都祉と思っていたなどとはとても他に見られない図である。『余之を訊き、愕然として驚き、而して』その後ろにつぐべき言葉を知らぬ」と結び、義経=オキクルミ、義経=ジンギスカンではないと断言した。 「大汗のクロー宮古にありという、氏の独合黒点に止まる。実に粗忽屋である」とまで書いて痛罵した。 「人間生活のやみがたき本能を洞察し、その理解に到達する方法」(岩崎前掲書)をもって小谷部説を批判し、「最後は笑って義経論を閉じることが出来た」と書いている。難読漢字が多い。

  • (要人が「クロー」と満州で呼ばれていたことに対し)小谷部は九郎(義経官職の九郎判官)に結び付けたがっているが、蒙古語「古兒罕グルハン」であり、「部落の長」である。発音は「グラン」に近い。
  • 「黒森山判官稲荷神社縁起」はまったくの偽書である。
  • 日高沙流郡ハヨピラなるハイエヌサウシの地は義経の遺跡ではない。住吉のアイヌがHayo(剣魚の鼻の武器)を「崖の間」で発見し、それをオキクルミの器だと信じてその地を霊場視し木弊を奉った処である。
  • オキクルミは造化神の意味でアイヌ語の「クルミ」は日本男子で、「クルマツ」は日本婦人のことだから、混乱して蝦夷に渡ってきた和人の英雄と解する人が多くなった。永田方正に従えばオキクルミはオオキリマイ、オキキリマイと云っていたのが訛ったのである。
  • アイヌ説話のサマウンクルはオキクルミに先んじて死んでいるし、オキクルミは樺太アイヌから殺されている。サマウンクルが弁慶であるとすれば、義経に先んじて死んだことになるから小谷部氏の大陸渡航説はありえない。
  • 源九郎義経判官のシンボルとして「九」の数を挙げているがアイヌは「六」がシンボル数である。
  • 小谷部は「西利亜沿海州蘇城」、「雙城子と義将軍の石碑」の二項を設け、日本の武将金烏諸(キンウチョ)の名が成吉思汗の訛りだとするが、山丹人は黒龍江岸ばかりでなく、樺太南部にも住んでいるから、アイヌから云えば樺太・山丹は選ぶところではない。従って蘇城などに行くわけがない。
  • 「バル」とは蒙古語の虎の意味。蒙古語の虎はバルでなく「巴兒思」である。城は「巴刺合孫」(バラスガン)。
  • 法衣(ホロム)は蒙古語で、他に満州語、朝鮮語、でも似た言葉があり「クルメー」、「コロモ」などアルタイ語族の通用詞である。
  • タイシャー(小谷部説は大将の意)は蒙古語では大石(タイシー)。親友の意味の蒙古語アンダ(安答)はオロッコ語のAndaなどと同系である。
  • 小谷部が山の上を「タッパ」と聞いたのは、蒙古語の「峠、峰」の意味である「蓉巴」(ダベ)を訊き間違えたのだ。
  • 成吉思汗の父の名は「エゾカイ」ではなく「也速該」(エガイ)である。蝦夷は他民族はエゾと呼ばない。アイヌ語や奇鄰語では、Ainuといい、山丹語ではKuiである。蝦夷(カイ)に近い。ニクブン語(ギリヤーク語)ではKugiである。
  • ニロンはニホンの訛りではなく、蒙古語の「納ラン(口編に闌)ナラン」、納藍(日、太陽)から訛ったものである。
  • キャトはアボルガジイ氏曰く成吉思汗の姓は「キャン」で、蒙古語の岩石に直下する飛泉の意味で、「キャト」はその複数形である。

まとめ[編集]

小谷部『成吉思汗ハ源義經也』は、満州国建国とそれにともなう移民の増加などによって脚光を浴び、戦中から戦後にかけてさかんに増刷され、「成吉思汗=源義経」説をとなえた類似の書籍は戦後もいくどか出版されてきた。しかし『成吉思汗は源義経にあらず』を越えるようなものはなく、歴史学説としては相手にされていない。中島利一郎の論などは平成の現代でも通じる歴史論であり、現代の歴史家でも答えられぬ問題も取り扱っている。だが、アイヌの話など少々強引な面もあると思われ、例えばオキクルミの「クルミ」というのが、日本男児を意味するのを、他人の(永田方正)の論を持ってきてそれはオオキリマイの訛りだと云ったり、義経は九の数をシンボル数としているが、アイヌは六の数がシンボル数だから違うだろうとする論説や、義経、弁慶と擬えるアイヌ伝説の英雄が殺されているから違うだろうというのも無理がありすぎるとおもわれる。アイヌの神話や伝説は、口承で伝えられてきたため、伝承地や伝承者によってさまざまな差異があり、このアイヌラックル(オキクルミ)の伝説に関しても、定説というものは存在しないとされているからだ。それは比較的文章がのこされているとはいえ、口承で伝えられてきたことには変わりがない蒙古に対しても同じことが云え、正しいか間違っているかの判断は難しいのではないかと思われる。蒙古語の「クロー」と呼ばれる武将の職名は「グルハン古兒罕」であるといい、まるで蒙古語が訛ったりしないとでもする論説であり、「クローハンガン」は訛れば「グルハン」に聞こえなくもない。また蒙古語の字音が日本語に近いのを印度の悉曇学「デウアーナーガリー」だと逃げたり、ちゃんと説明がされてない部分もある。また、小谷部説は末松謙澄説を踏襲しているが、間宮林蔵の書なども参考にされている。江戸時代に蒙古で漢土の王室は日本人の末なりと伝承されていたことなど間宮林蔵が伝えた事柄について全然触れていない。 『中央史檀』は大半がごく限られた(アイヌ語だけなど)言語学哲学など東洋史に直接関係のない者達の反論によるものであり、しかも小谷部全一郎説を全部論破したわけではない。そもそも小谷部説を批判できる資格を持っていたかどうか疑問であり、主観的、感情的になっていたのは彼らのほうである。尚、小谷部全一郎は『成吉思汗ハ源義経也・著述の動機と再論』(富山房、1924年)をまた書いているが、それについては史学側からの反論はなかった。金田一とは旧知の間柄であるのに批判を浴びたことに対し、小谷部は彼を「売名行為であり、学徒としても薄弱だ」とやりかえしている。中島利一郎に対しても、「神経病的」、「鎖国時代の田舎侍が西洋人の肉を食わんとするが如き態度」と猛烈に批判し、最後には「痴漢」とも記した。そして戦前程の注目度は薄れ、忘れられているのが現在である。

『偽史冒険世界』での小谷部全一郎評[編集]

長山靖生は『偽史冒険世界』で『成吉思汗ハ源義經也』の小谷部全一郎説をこき下ろしている。荒唐無稽な法螺話に過ぎない話がベストセラーになってしまったとし、余りにも売れすぎたため『中央史檀』で史家と称する者たちが反論した事に対し驚いてもいる。 特に長山は蒙古王室並びに清朝はジンギスカンの子孫であり、源氏末裔であるという内容に特に固執して攻撃し、政治的戦略として大陸侵攻に使われたと決めつけている。またこの『成吉思汗ハ源義經也』の中で人種差別撤廃を白人優位の欧州にあるなかで小谷部全一郎が主張している事を、「過去の歴史に奇妙な空想を差し入れて史実をかき乱した奇書に留まらず、日本がアジア大陸をかき乱していく未来を予測し、戦乱への賛美を掲げた極めて政治的な書物だった」と、崇高な理念も大陸侵攻に置き換え、これでもかというぐらいの批判を行っている。単に小谷部全一郎は人種差別撤廃を訴えたかったはずであるが、長山は偏見に満ちた言葉で痛罵しこれではどちらがトンデモ本か判らない。しかも、肝心の歴史検証はできていない。元より彼は医師であり、東洋史の学者でもない。小谷部全一郎を批判できる立場でもないはずである。しかしながら歴史学者の高桑駒吉が『中央史檀』の中で「満州、蒙古にある種の軍部の陰謀があり、書籍を多数買い上げて各方面へ配布した」と書いていて、満蒙進出に小谷部の本が利用されたのも事実のようである。

戦後から現在[編集]

中尊寺金色堂の学術調査[編集]

昭和25年(1950年朝日新聞社が中心となって奥州藤原氏廟所である中尊寺金色堂の学術調査がおこなわれた。従来藤原忠衡のものであろうと信じられていた遺体は兄の藤原泰衡の首であり、当時の作法によってできた傷跡であろうということがわかった。従来は、泰衡は父藤原秀衡の遺命にそむいて義経を殺害し、火内(秋田県大館市周辺)の贄柵で河田次郎に殺害されたのだから、秀衡の横に安置されるはずはないと考えられていた。調査内容は3遺体が日本人かアイヌか、どんな状況で死亡したのか、藤原忠衡の首なのか、河田次郎に殺された後継者の藤原泰衡のものではないか、ということが議論され、記者会見のなかで長谷部言人博士と鈴木尚博士は「四氏遺体のミイラ化は人工的に手を加えられた結果ではなく、忠衡の首と称せられるものは泰衡の物と判明した。藤原清衡始め四代の当主にはアイヌらしい面影はない」という見解を発表した(星亮一『悲劇の英雄源義経と奥州平泉』KKベストセラーズ〈ベスト新書〉、2005年)。

小説「成吉思汗の秘密」[編集]

昭和33年(1958年)、推理作家高木彬光が推理小説『成吉思汗の秘密』を著し、人気を得た。しかし、義経をチンギス・ハーンとする論理の弱さ例:『成吉思汗』の「汗」を「水と干」に分けると、

「成吉 思水干」となり、遠くモンゴルで良きこと「吉」を成し遂げ、
「吉成りて、水干を思う」

となる。水干とは衣装をまとった白拍子静御前を指して偲んでいるという説。(ただし、「汗」はハーンの音訳であり、3世紀頃から用いられてきた用法である)など矛盾点が歴史作家海音寺潮五郎に批判された。これに対し、高木は表立った反論は行わず、作品を改訂した際に神津恭介が「ある歴史小説家」への回答を行うくだりを追加している。また、「成吉思汗は身体が大きかったのに、義経は身体が小さかったではないか」と云う指摘が記録されているが、これに対しては、「弁慶がなりすまし、義経は裏で采配を振るったのではないか」という推測を繰り広げている。なお、最近の研究ではモンゴル日本大使館の肖像画に体の小さなチンギス・カンが確認されており、この点は問題が無くなっている[32]

郷土史家の活動[編集]

佐々木勝三は奥州史談会や岩手史談会の会員として、郷士史家として活動し、高校で教鞭を執る傍ら義経生存説の検証に取り組み、平泉以北に残っていた義経伝承を丹念に調査した。昭和33年(1958年)に『義経は生きていた』(東北社)を発表し、91歳で没するまで『源義経蝦夷亡命追跡の記』『成吉思汗は義経』などの研究成果を発表した[33]

北東北沿岸に残る義経伝説[編集]

佐々木勝三らは地元に点在する伝説を丹念に拾い集めた著書の中で紹介される義経生存説を示す古文書の多くは、江戸時代中後期の盛岡藩の役人や学者が地元の神官や百姓に請われて書いたもの[34]であり、その中の一つで明和二(1765)年に書かれた『奥州南部封域志』は、「義経記」や「鎌倉実記」などの当時既に広まっていた書物を下敷きに書かれており、義経が王朝に逃れて将軍になったと記している。

近年の作品[編集]

近年もこの説に関連した作品は書かれ、三好京三の『生きよ義経』(新潮社)、山田智彦の『義経の刺客』(文藝春秋)、中津文彦の『義経はどこへ消えた?』(PHP研究所)などがある。

テレビで源義経の北行説が放送される[35]

  • 東北や北海道各地の義経伝承の地は、ほとんどが観光スポットになっている。

外国人も関心を示す[編集]

2005年大統領シラクは、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させ、外国要人もこの説に関心を持っている事が窺える。

丘英夫[編集]

ジンギスカンの前半生は不詳[編集]

歴史作家の丘英夫[36]モンゴル人であるはずのジンギス・カンには様々な謎が多すぎるとし、杉山正明氏が『大モンゴルの世界』で述べている『元史』の太祖本紀から引用し、ジンギスカンの崩年は1227年が66歳であり、テムジンと呼ばれていた時期にモンゴル高原に姿を現したのは、1202、3年で41,2歳以前の前半生は歴史家にとって「闇」であると書いている。

異民族疑惑[編集]

また『元史』の記述には1202年ジンギスカンがケレイト部族の長、ワンカンと共にナイマンを攻めた日にジャムカがワンカンに云った記述がある。

「私はあなたにとって白翎雀であるが、彼は鴻雁である。白翎雀は、寒暑に関わらず北方にいるが、 鴻雁は寒くなると南へ飛んで行き暖を取る」

と、ジャムカはジンギスカンを渡り鳥の鴻雁に例えて、暗にジンギスカンがモンゴル部族とは別の異民族の人間だと書いているのではないかとしている。

鉄の鎧[編集]

また上海人民出版社の『成吉思汗伝』に、1204年初夏、テムジンがナイマンを攻撃したときに、その時、ジャムカはテムジンと敵対し、ナイマン側についていた。

ナイマンの王タヤンカンはジャムカに尋ねた。「その後ろから飢えた鷹のように真っ先にやってくるのは誰か」
ジャムカは「彼は私のアンダ(盟友)であるテムジンである。彼は、全身に鉄の鎧を着て飢えた鷹のようにやってくる」

「全身」にとは鎧だけでなく兜も着用していたことを意味し、モンゴル高原で鉄の甲冑をどこで入手したのだろうかと疑問視している。

かな文字と五十音図[編集]

また、1204年、モンゴルがナイマンを攻略、ウイグル人のタタトンガを捕虜にしたが、『元史』のタタトンガ伝によると、ジンギスカンは掌印官である彼に「そちはウイグル文字に詳しいのではないか」と尋ね、彼がウイグル文字に精通しているのを知ると、彼にモンゴル文字を作らせたが、 33文字から成るモンゴル文字は、大部分がウイグル文字であるが、その中で4文字は日本語のかな文字が用いられているとしている。モンゴル文字の字順はウイグル文字の字順とは違う五十音体系(ア、カ、サ、タ、マ、ヤ、ラ、ワ)になっているとしている。4文字のかな文字と五十音体系を彼がモンゴル人だとすれば、どこで習得したのかと丘は疑問視している。

漢文の備忘録[編集]

また、『長春真人西遊記』の記述を引用し、1222年西征中のジンギスカンは道教の師である長春真人山東省菜州から呼び寄せ、ハバルク郊外で不老長寿の道を尋ねたが、ジンギスカンは侍臣にその講和を記録するよう命じた。ジンギスカンはそれを備忘録にするため漢文で書くよう指示している。人民公布する内容はモンゴル文字で書かせ、外に洩らしてはならない自らの備忘録は漢文で記録させている。ジンギスカンは漢文を理解できたのではないか、漢文を読解出来たとすれば何処でいつ漢文を習得したのか、とこれも丘は疑問視している。

衣川遺跡群の発掘調査[編集]

近年の学術調査で本当の衣川の場所が特定されつつあり、その発掘調査から藤原基成の宿舘である衣川館が燃えていないことが、判った(ボルテ・チノ日本の心 義経と静の会)。東北芸術工科大学入間田宣夫は、『吾妻鑑』等の史料を基に「基成の館そのものは、火災ほかの被害を受けることもなく、基成一家の暮らしには、なんら変化が無かったことが察知できる。それどころか、義経の居宅、「持仏堂」でさえ、火災などの被害を受けることが無かった」としている。「義経の首はなんら損傷もなく、勿論焼疵もなく、鎌倉に運ばれ首実検を供えられることが出来たのではないか、今までの一面が火の海になったというイメージが作られていたが、それは間違いでありそれが不思議でならない」と云っている。『吾妻鑑』や『玉葉』には一言も燃えたとする記載はない。『義経記』だけに「猛火は程なく御殿につきけり」等と書かれ、この書が創作であるということが判り、その影響の結果である。 火災が無かったということはすなわち、燃えていないどころか、合戦もなかったとする方が自然であると云う見方を近年はされている。

モンゴル史研究におけるチンギス・カン像[編集]

もともと成吉思汗=義経伝説は日本起源であり、冒頭に示したように肝心のモンゴルにはこの伝説は伝わっていないところから、従来のモンゴル史研究ではチンギス・カンを義経の後半生であるという見解は勿論存在していない。

肉体的特徴その他[編集]

源義経が源義朝の八男ないし九男であったことはよく知られているが、それに対し、チンギス・カンの前身たるテムジンはイェスゲイの長男であり、テムジン9歳のとき父を失って苦労した、という『元朝秘史』に記されている逸話はよく知られている[37]。小谷部は「ともに小柄」としているが、チンギス・カンはモンゴル関係の歴史書には「堂々たる体躯」であったと記録されており[38]、小谷部の主張と同時代的な記録とは合致しない。

杉山正明[編集]

しかし、杉山正明はチンギス・カンの肖像として一般に知られている台北の故宮博物院蔵のチンギス・カンの肖像を例にあげて、これが実際のチンギス・カンの容姿を反映したものであるかどうかは疑問視している。さらにまた、チンギス・カンの子孫たちが作らせた東西の文献には「波乱に満ちた彼の前半生について、様々な逸話、苦心譚を人馬が激しく交わる『血湧き肉踊る』活劇」として語り伝えてはいるが、「前半生と容姿は真偽は闇の中にあり、確かだといえることは、1203年の秋にケレイトオン・カンを奇襲でチンギス・カンが倒し、モンゴルの東半分を制圧してからだ」と述べている[39]。 

岡田英弘[編集]

また、満洲史、モンゴル史研究者である岡田英弘も、「1195年ケレイトオン・ハーンとその部下のチンギス・ハーン(このときはテムジン)は、と同盟してタタール人に大規模な征伐作戦を行い、金から恩賞を受けている。これが初めて歴史に登場した事件であり、これ以前のチンギス・ハーンの事跡ははっきりとは分からない。」と述べる[40]

血統に関する伝承[編集]

ただし、杉山も岡田もチンギス・カンにまつわる伝記資料の事績やエピソードの説話的要素と実際の事績との不分明さを意識して「前半生は謎に包まれている」と述べており、チンギス・カンがイェスゲイやバルタン・バアトル、カブル・カンの血統であるという伝承自体を否定している訳ではない。むしろ、両者ともその血統に関する伝承を前提として論じている[41][42]。特に杉山はテムジンが「名門の傍系」であったために、君主としての権力を確立する過程で、アルタンやクチャルといった同じキヤト氏族内の嫡流の人々を排除して行った点に注意を促している。

江上波夫[編集]

また、江上波夫によれば、遊牧民族騎馬民族国家の君主は、同じ国家に所属する氏・部族長らによって君主として推戴・承認を必要とする推戴・承認制と呼べる制度があり、「軍事的・外交的活動の最高指導者としての適格性が君主の資格として、つねにひじょうに重視されていた」ことを指摘している。「内陸アジアの遊牧騎馬民族国家の君主に『勇猛な(バガトル)』『賢明な(ビルゲ)』などといった資質にもとづく名」を負っていたのは、これら遊牧騎馬民族の動的な社会に深く根ざしていた現実主義合理主義的な側面から導き出された結実と見ている。

推戴・承認で血縁でない者も君主になる[編集]

しかしながら、同時に、氏・部族長らによって君主として推戴・承認を受ける遊牧騎馬民族国家の君主候補者は、最初の君主を輩出した支配・中核氏族の成員に限定される、という原則が形成されており、さらに実際にはその君主の男系近親者に選択範囲が狭められる、という現象も生じている。すなわち、第1に「内陸アジアの遊牧騎馬民族国家」の君主の選定には、「軍事的・外交的活動の最高指導者としての適格性」を氏・部族長らによって君主として推戴・承認される制度という現実主義・合理主義的な側面と、第2に「最初の君主と同じ男系の氏族でかつ近親者でなければならない」という血統主義的な側面という、両側面が考慮されることになった。そのため、両者の間に原則的な矛盾を孕みつつ、併用的に行われており、匈奴の時代からチンギス・カンの時代までほとんど改変されることなく続いたものであった。そして、それはしばしば王族や支配氏族間の内訌の原因ともなり、さらには国家の分裂、衰退の原因ともなった、と述べている[43]

チンギス・カンの名の由来[編集]

チンギス・カンの称号の由来については諸説あり、現在も意味は良くわかっていない。1206年に即位した時に、コンゴタン部族出身の巫者ココチュ・テプ・テングリによって「チンギス・カン」という称号が贈られたことは、『集史』や『元史』『元朝秘史』などの諸資料で共通して記録されている。この巫者(シャーマン、カム)ココチュ・テプ・テングリとは、『元朝秘史』にはチンギスの父イェスゲイに親しく仕えていた従者モンリク・エチゲの四男であったとされている(ただし、『集史』ではモンリク・エチゲはチンギスの母ホエルンの再婚相手だったため「エチゲ(父)」と呼ばれていたと述べている)。また『集史』によると、「チング( چينگ chīng)」はモンゴル語で「強大な」を意味し、「チンギズ( چينگگيز Chīnggīz)」はその複数形で、ペルシア語での「王者中の王者」( پادشاه پادشاهان pādshāh-i pādshāhān)と同じ意味であるとしている[44][45]。後代のクビライ家の後裔であるサガン・セチェンによるモンゴル語歴史書『蒙古源流』(1662年成立)には、「テムジンが二十八歳の甲寅の年(1194年)にでケルレン河のコデー・アラルでハーン(Qaγan)位に即いた時に、その日から三日目の朝にわたってテムジンのゲル (家屋)の前の石に止まった五色の瑞鳥が、「『チンギス、チンギス』とさえずったので、中央で唱える名、『スト・ボグダ・チンギス・ハーン(Sutu Boγda Činggis Qaγan)』として、各方面で有名になった」と記している[46]


また、『元朝秘史』には「海内(かいだい)の天子」という意味もあるとしている。ソ連時代のブリヤート・モンゴル人の学者ドルジ・バンザロフによると、「チンギス」はシャーマニズムにおける光の精霊の名前、Hajir Činggis Tenggeri に由来するとする説を唱えた。ペリオテュルク語での「海」(tengiz)を意味するとしている。[45]

現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報[編集]

この説で源義経と同一人物とされるチンギス・カンの生年に関してであるが、 現存資料での記述によっておのおの異なっているため1155年説、1162年、1167年説といった諸説あって、まだ厳密に確定し切れていない[47]。しかし、チンギス・カン自身の家系は諸資料ではっきりとした記載があり、チンギス・カンの曾祖父カブル・カンを始祖とするキヤト氏族の家系について、諸資料の間のおおよその親族情報は一致している[48]


昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、中央ユーラシア遊牧民は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、匈奴に於いては中核氏族である攣鞮氏単于位を、突厥においては阿史那氏可汗位および主要な地位を独占し、それ以外の氏族はこの地位につけなかったことが知られている[49][50]


祖先の系譜については、『元朝秘史』に取材した井上靖の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国や中央アジアイランモンゴル本土で存続したその後継諸政権においてチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされるアラン・コアとその息子ボドンチャルであった[51]。また、上でも述べたように、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『集史』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル=アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料もカブル・カンバルタン・バアトルイェスゲイ・バアトルテムジンチンギス・カン)という流れは共通して記録している。


チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため、実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。

義経不死伝説と「御曹子島渡」説話[編集]

治承・寿永の乱は、源平合戦であると同時に王朝国家に対する武士の組織立った抵抗ないし自立化の希求という側面を有し、この抵抗を通じて東国政権である鎌倉幕府が成立してゆく過程でもあった。その組織の頂点にあったのが征夷大将軍となった源頼朝であり、梶原景時はその良き補佐役、そして義経に付された軍監であった。ところが、義経は頼朝の名代であり、武士でありながら、頼朝の軍律には違反し、武士の抵抗の相手であった王朝国家の側に立ってしまった。

それに対し、庶民は、頼朝を権力者、景時を讒言者、義経を悲劇の英雄と理解した。このような理解のうえに、反権力という立場からの共感、讒言者への憎しみ、冷酷な兄に対する健気な弟に対する同情、あるいは「滅びの美学」とも呼ぶべき独特の美意識が加わって、「判官びいき」が生まれた。王朝国家の側に立つ畿内の文化人の多くが義経びいきだったことも、こうした風潮を後押ししたものと考えられる。

判官びいきは、早くも南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられる軍記物語義経記』にあらわれている。五味文彦(日本中世史)は鎌倉時代成立の『曽我物語』が御霊信仰の影響の強い作品であるのに対し、『義経記』にはそれが希薄であることを指摘している[52]

『義経記』は、幸若舞曲、御伽草子浮世草子歌舞伎人形浄瑠璃など、後世の多くの文芸演劇に影響を与え、今日の義経やその周辺の人間像は、この物語に準拠しているとされる。義経主従など登場人物の感情が生き生きと描かれ、人物の描写にすぐれているとされる。しかし、義経死後200年を経過してからの成立と考えられる[53]ため、『義経記』の作者は当事者たちの人柄を、直接的にも間接的にも知っていたとは考えられない。また、軍記物語の下地となりうる軍注記を利用したとも考えられていない。さらに、作中の行動のあちこちに矛盾が生じていることも指摘されており、歴史資料としてではなく物語として扱うのが妥当とされる。なお、『弁慶物語』の成立も応永から永享にかけての時期(1394年-1440年)と考えられている[54]。 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られたはずの義経であるが、藤原泰衡は、そのことを5月22日に報告し、義経の首は6月13日に鎌倉の頼朝のもとに届けられた。つまり、当時としても遅すぎる感があり、これは義経の本当の首ではないのではないかという憶測を生んだのであり、さらに義経は高舘では自刃していないという伝説を生んだ。これを義経不死伝説と呼んでいる。もとより、この経緯は『吾妻鏡』の記述によるものであり、当の『吾妻鏡』では義経が衣川で死んだと記述している。

後述するように、江戸時代には義経北行伝説が成立するが、その原型となった説話が室町時代の御伽草子にみられる。「御曹子島渡」説話とよばれる話がそれであり、これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵書があることを聞き、四国土佐の港[55]から出帆、神仏の加護を得て、半身半馬の人びとの住む「王せん島」、「裸人の島」、「女護の島」、「小さ子の住む島」、当時「渡島」と呼ばれていた「蝦夷が島」(北海道)を経て「千島」の喜見城にたどりつき、大王の娘と契るがその過程でさまざまな怪異を体験するという物語であった。「御曹子島渡」説話は、当時渡党など蝦夷地を舞台に活躍する集団の存在や予想以上に活発だった北方海域の交易の様相が広く中央にも知られるようになった事実を反映しているものと考えられる。

脚注[編集]

  1. ^ ジャン=ポール・ルー著、杉山正明監修「チンギス・カンとモンゴル帝国」p21,p37。より。なおチンギス・カン死後の相続は末子相続で有名である(林俊雄著「スキタイと匈奴」p63)。66歳で死んだという説と72歳で死んだというように各説がある(陳舜臣「中国の歴史(五)」p135)。幼いころに父を失い、若年期は敵の捕虜になっていたとされる。
  2. ^ 義経入夷渡満説書誌 岩崎克己著
  3. ^ (1787~1833)オランダ通詞文政6年馬場佐十郎の跡を継ぎ、天文方詰め通詞となる。同九年郷里長崎に戻りシーボルトの翻訳を手伝う。11年シーボルト事件に連座し、米沢藩預かりとなり、天保4年同地で病死する。
  4. ^ 土井全二郎『義経伝説を作った男 義経ジンギスカン説を唱えた奇骨の人・小谷部全一郎伝』光人社、2005.10、ISBN 4769812760
  5. ^ 寛永10年(1633年)流布本と寛永12年(1635年)流布本が知られる。
  6. ^ 腰越状にある記述
  7. ^ 源義経(角川源義、高田実著)P11の記述。義経の生立ちがまず不明で、喜瀬川の陣中で頼朝と対峙するまで、歴史に登場していないと記述。
  8. ^ 林羅山(道春)の子で林鳳岡の父。
  9. ^ 元禄年間の成立とも。著者は可足権僧正。津軽土佐の守信義(津軽藩主)の11男にして京都養源院住職。義経は杉目太郎行信を身代わりにして難を逃れ、57名の従者とともに、津軽十三港に脱出し、藤原秀衡の実弟で十三を支配する入道秀栄をたより、鎌倉攻撃を船団を組んで目論むが、泰衡の遺臣由利広常南部崋山の兵に破れ、義経軍の鎌倉襲撃も失敗する。義経は蝦夷に漂着後、韃靼の金に渡った、という内容。(『奥州伝説と日本人』103頁)
  10. ^ 著者は加藤謙斎。『金史別本』を異国の文献と称して紹介している。加藤は『金史別本』の捏造者ではないかという見方もある。(『義経伝説と日本人』108項)
  11. ^ 加藤謙斎 1670*-1724江戸時代前期-中期の医師。寛文9年12月12日生まれ。臨節子に医学を,浅見絅斎(けいさい)に儒学を,さらに稲生若水(いのう-じゃくすい)に本草学を,笠原子に詩文をまなぶ。のち京都で開業。享保(きょうほう)9年1月7日死去。56歳。三河(愛知県)出身。名は忠実。字(あざな)は衛愚。別号に烏巣道人。著作に「病家示訓」など。(コトバンク)
  12. ^ ただしこの文献も他の文献と違う内容が散見されるので参考として
  13. ^ 別の資料では「先月晦日に基成の館で与州を誅す。その首は追って進上せり」とも解された書もある
  14. ^ http://www.youtube.com/watch?v=GBfTjvZYnsc
  15. ^ 小谷部全一郎説 、シーボルト説
  16. ^ 土井全二郎『義経伝説を作った男 義経ジンギスカン説を唱えた奇骨の人・小谷部全一郎伝』光人社
  17. ^ 鎌倉事典 白井詠二編 東京堂出版 平成4年1月10日発行 、図説鎌倉年表 鎌倉市 大塚功藝社 平成元年11月3日発行 、鎌倉広報第13号 鎌倉市 昭和27年11月3日発行
  18. ^ 宮家準著『羽黒修験 -その歴史と峰入』 岩田書院 (2000)
  19. ^ (紫檀は、マメ科の常緑広葉樹の総称で、ローズウッドパーロッサなどが「紫檀」として使用。主な産地はタイラオスベトナム
  20. ^ 奥州藤原氏の財力を示すものとして、寺塔四十余宇・禅房三百余宇からなる中尊寺(初代清衡の創建)、堂塔四十余宇、禅房五百余宇から構成される毛越寺(もうつうじ2代基衡による再建)、宇治平等院を模したと言う無量光院(3代・秀衡の創建)といった具合に歴代頭首が各々巨大な寺院を建立している。
  21. ^ 蝦夷志。 新井白石(1657-1725)著 享保5年(1720)。日本最初の本格的な蝦夷地の地誌で、後の蝦夷地研究の先駆をなした。新井白石が松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した、体系的な蝦夷地誌(漢文)。この写本の巻末には十余枚の貴重な彩色アイヌ風俗画が付けられている。画家は不明であるが、実際にアイヌ人、彼らの生活を直接観察して描いたものである。図版の繊細度、色彩、殆ど完璧な保存状態であり、現存の写本の中では最高の質と考えられる。 序、蝦夷地図説、本文という構成で、本文はさらに蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太(からふと))、東北諸夷(千島列島)の3部からなっている。巻末には人物や武具などの図が綿密かつ色彩豊かに描かれており興味深い。なお、白石は前年にも『南島志』を著しており、蝦夷(北海道)、琉球(りゅうきゅう)(沖縄)を政論的な意味で日本の周辺地域として注目していたことがうかがえる。(Yahoo!百科事典)
  22. ^ コンラッド・マルテ・ブルン(1755年8月12日- 1826年12月14日) ブルーンコンラッド 、生まれデンマーク - フランス の地理学者 、ジャーナリスト。 次男は、 ビクターアドルフマルテブルン (地理学者)。インドシナは彼が名づけた。(ウィキペディア英語版から)
  23. ^ (Annales des voyages,de la geographine et de I'historie.第二四巻、1814年、パリ刊)
  24. ^ 『小シーボルト蝦夷見聞記』172頁
  25. ^ 『中国の旅行記』(ピエール・ベルジュロンPierre Bergeron:?~1637が記した原題『十二、十三、十四、十五世紀のアジア旅行記』1247年「宝治元」〜1252年「建長五」からの抜粋と思われるローマ教皇インセント四世フランス国王ルイ九世の派遣された使節である修道士の旅行記)から引用し、中国の朝廷に定着していた風俗習慣は日本国のそれを非常に思い起こさせるもので、蒙古帝国建国されて初めてそうした風俗習慣が用いられるようになった、という。(『小シーボルト蝦夷見聞記』174頁)
  26. ^ (ムー2009年8月号 総力特集=義経ジンギスカンの復活と天皇の国師)(『シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響』1,2,3 岩崎克己)(『中外医事新報)1252〜4、1938年)(『シーボルト日本』雄松堂書店版、第一巻、287頁から289頁)
  27. ^ 以上『義経伝説と日本人』159頁〜163頁
  28. ^ 「現在でも」とあるのは小谷部生前の事で、実際には1924年の社会主義化により禁止される。その後、1989年の社会主義廃止により序々に復活している。しかしオボー祭は元々が国家ナーダム等と違って国家的行事では無く、地域単位の祭礼である
  29. ^ 国号については正しくは「」ではなく「大元」。制定はクビライによるものであり、その出典はクビライ自身が出した詔によって『易経』であると特定されている。『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条の詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とあり、『易経』巻一 乾 に「彖曰、乾元萬物資始。」とある。なお源氏の字義は「天皇家と同祖(源流)
  30. ^ 「源義経の話」(『史学号欉説』)第二集、富山房、1909年
  31. ^ 「クロー」は部落の長を意味する「古兒窂(グルハン)」の訛りにすぎない。『中央史壇』臨時増刊号『源義経は成吉思汗にあ正らず』大正13年
  32. ^ 『歴史群像シリーズ「チンギス・ハーン」大モンゴル〝蒼き狼"の覇業』P47 のチンギスハーン肖像写真
  33. ^ 大町北造横田正二樋口忠次郎が共著者として協力した。
  34. ^ 宮古市小山田に残るとされる「横山八幡宮記」は、寛政四(1792)年に、宮古代官所下役の豊間根保によって書かれたものである。
  35. ^ 新説!?日本ミステリー * 第7回 (2008年6月10日)- 義経は生きていた!? みちのく黄金帝国の逆襲…で、義経と一緒に蝦夷まで逃げた藤原忠衡の子孫が紹介された。
  36. ^ 昭和32年大阪外国語大学中国語学科卒。音韻学専攻。著書に『義経はジンギスカンになった』(アーバンプロ出版センター)、随筆に『義経紀行』、『邪馬台国への道程』(歴史研究誌)、『蘇州紀行』、『北京紀行』(JMCジャーナル)など。
  37. ^ 元朝秘史』によると、テムジンが父イェスゲイの手によって、後に彼の第一皇后となるコンギラト部族のデイ・セチェンの娘ボルテの許嫁となって、デイ・セチェンのもとに里子に出されたのは9歳の時であったという。『元朝秘史』ではイェスゲイがタタル部族民によって毒殺されたのはテムジンを里子に出したその帰りの道中であったとしている。一方、『元朝秘史』よりも完成が1世紀程早い『集史』「チンギス・ハン紀」によると、イェスゲイが死去した時、テムジンは13歳であったとしている。
  38. ^ 例えば、1221年ムカリの宮廷を訪れた南宋孟珙撰『蒙韃備録』立國条には、「惟今韃主忒沒真者、其身魁偉而廣顙長髯、人物雄壯、所以異也。」とある。また、1260年ジューズジャーニーが著した『ナースィル史話(Ṭabaqāt-i Nāṣirī)』の第23章によるとホラーサーン侵攻時にチンギスは65歳であったが、「背が高く、力強く立派な体格で、顔には白くなった鬚を延ばし、極めて敏捷な猫の眼をしていた」と同様の特徴について述べられている。W.W. Bathold, "Chingiz-khān and the Mongols"Turkestan down to the Mongol invasion 3rd ed. (1st ed. London in 1928) with additional chapter...and with furthur addenda and corrigenda by C.E. Bosworth, London, 1968., p.459.
  39. ^ 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川選書、1992年、p.67
  40. ^ 岡田英弘「"モンゴル民族"を創ったチンギス・ハーン」『チンギス・ハーン 大モンゴル”蒼き狼”の覇業』(学研)P47
  41. ^ 例えば、「おそらく歴史上はじめて、たしかな人物とされるカイドゥ・カンの子孫をキヤトとよぶ。カイドゥはイェスゲイの五代まえの人である。(中略)(イェスゲイの)父もまた、バルタン・バアトルという。バルタン・バアトルは、カイドゥ・カンの嫡流カブル・カンの子ではあるものの、かれの兄弟には、まさしく、「カン」を名のるクトラ・カンがいる。つまり、バルタン・バアトル—イェスゲイ・バアトル—テムジンという血統は、名門の一員ではあるが、傍流といわざるをえない」「テムジンは、その血脈のうえからいえば、名門の末流といったていどの家柄に生まれたことになる。よくいわれるような、ばりばりの名流とはけっしていえない」と述べている。(杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川選書、1992年、p.66-67)
  42. ^ 「ハイドゥの曾孫がハブル・ハーンで、モンゴル部族の最初のハーン(カガン)となった。ハブル・ハーンの孫がイェスゲイで、イェスゲイの息子がテムジン・チンギス・ハーンである。」(岡田英弘『世界史の誕生 【モンゴルの発展と伝統】』ちくま文庫、1999年、p.208
  43. ^ 江上波夫『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』中公新書、1967年、p.92-94
  44. ^ 宇野伸浩「チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察」『人間環境学研究』7、2009年2月28日。
  45. ^ a b 村上正二訳注『モンゴル秘史』第1巻、254-255頁
  46. ^ サガン・セチェン著(岡田英弘訳注)『蒙古源流』刀水書房、2004年10月、80-81頁
  47. ^ 村上正二訳注『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』第1巻、(東洋文庫 163)平凡社、1970年、80-81頁。
  48. ^ 例えば、『元朝秘史』第1巻48段,50段に「(48段)…カブル・カハンの子供は七人であった。長兄はオキン・バルカク、〔次は〕バルタン・バアトル」「(50段)バルタン・バアトルの子供は、モンケドゥ・キヤン、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バアトル、ダリタイ・オッチギンの四人であった」とある(村上正二訳注『モンゴル秘史』第1巻、59頁)。また、同60段には「(60段)イェスゲイ・バアトルの〔妻〕ホエルン夫人からテムジン、カサル、カチウン、テムゲ、これら四人の子供が生まれた。(中略)テムジンが九歳になった時、ジョチ・カサルは七歳であった。カチウン・エルチは五歳であった。テムゲ・オッチギンは三歳であった(同78頁)」とある。また『集史』チンギス・ハン紀の第一部冒頭にも、「チンギズ・ハンの父はイェスゲイ・バハードゥルであり(pidar-i Chīnggīz Khān Yīsūgāī Bahādur)、(中略)チンギズ・ハンの祖父はバルタン・バハードゥルであり(Jadd-i Chīnggīz Khān Bartān Bahādur)、(中略)チンギズ・ハンの曾祖父はカブル・ハンであり(pidar-i suwum Qabul Khān)…」とある。(Jāmi` al-Tawārīkh, ed. Rawshan&Mūsavī, Tehran, vol. 1., 1994, p.292.)
  49. ^ 「(匈奴の)単于は、攣鞮(れんてい)という名の特定の家系からのみ選出された。一方、単于の后妃も特定の家系に限られていたが、こちらは呼衍(こえん)、蘭(らん)、須卜(すぼく)(後に丘林(きゅうりん)が加わる)という複数の姻戚民族があった。」(林俊雄「古代騎馬遊牧民の活動」『アジアの歴史と文化 7【北アジア史】』(若松寛責任編集)同朋舎、東京角川書店、1999年4月、22頁。
  50. ^ 「「突厥」正統の可汗ははすべて阿史那一門のものによって独占されており、また逆に、阿史那姓をもつものは、明らかにしうるかぎりは全部可汗の支裔であって、さきにあげた(A:遊牧国家「突厥」とは、阿史那氏の出身者を支配者、可汗とする国家であった。逆にいうなら、「突厥」の支配者である可汗の位に即くものは、阿史那一門のものに限られていた)の一般的事実、たてまえは、少なくとも「突厥」国家の存続中は、現実において完全に貫徹されていた。つまり、このような可汗位の相続における血統的制限の伝統は、「第一帝国」・「第二帝国」を通じて、「突厥」にあって根強くまもられていたのであり、この阿史那政権の没落は、そのまま「突厥」国家の瓦解にほかならなかったのである。そうだとすると、「突厥」の国家は、これ以前の「匈奴」の攣鞮(虚連題)氏について、またこれ以後の「廻紇(Uiγur)」の薬羅葛(Yaγlaqar)氏や「イェヘ-モンゴル-ウルス(Yeke Mongγol Ulus)」の Altan Uruγ について、それぞれ指摘されているように、一氏族阿史那氏の「家産」という性格をもっていたといえる。」(護雅夫「突厥第一帝国におけるqaγan号の研究」『古代トルコ民族史研究 I』山川出版社、1967年3月、233頁。)
  51. ^ 山口修「キヤンとボルヂギン:元朝秘史覺書その一」『東洋文化研究所紀要』第2冊、1951年9月。
  52. ^ 五味は、それを根拠に『義経記』の鎌倉時代成立説に疑義を呈し、鎌倉幕府治下において義経の活躍を描くにはいたらなかったであろうと推測している。また、南北朝時代にはいって、室町幕府創業に大きく寄与したのが足利尊氏直義の兄弟であったことから、頼朝・義経兄弟の活動に目が向けられたのではないか、としている。五味(2004)
  53. ^ 南北朝期成立の『太平記』巻二十九「将軍上洛事」に『義経記』にみえる若い時期の義経の活動が記されていることから、『義経記』成立はそれと前後する時期と考えられる。五味(2004)
  54. ^ 五味(2004)
  55. ^ 関は、室町期に繁栄した十三湊が反映された名前としている。関幸彦(1998)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

義経北行伝承地[編集]

史跡 住所 詳細
亀井文書(借用書) 岩手県油田村 食糧調達の亀井六郎が、油田村の惣平氏より糧米粟七斗(126kg)借用したとする文書。文治四年四月(1188年)の日付。義経、弁慶、亀井の連名で署名。
高舘 岩手県平泉 泰衡の報告ではここが最後の地とされている。
観福寺 岩手県東磐井郡大東町 一行は観福寺に宿泊し、蝦夷入りの行程を検討したと伝えられる。亀井六郎重清の笈が寺宝として残されている。
弁慶屋敷 岩手県江刺市 一行は夜に菅原家にて白粟五升(9kg)を借り、粥を炊かせて食した後立ち去った。弁慶が足を洗った池が存在する。
多門寺 岩手県江刺市 多門寺の末寺である重染寺には鈴木三郎重家の子重染が正治年中に創建されたと伝わる。
玉崎神社 岩手県江刺市 一行は十数人、馬数頭で来て五日間逗留し玉崎の牧馬山に馬を放った。
源休館 岩手県江刺市 源休館では数日間休息をとったと伝えられる。『平泉雑記』に記載がある。
判官山 岩手県気仙郡住田町 判官山(別名黒山)九郎の転化と思われる。野宿しながら険しい山を越えたと伝承。慶長10年に書かれた宮古判官稲荷縁起に「黒舘」との記載がある。
法冠神社 岩手県釜石市 一行が野宿したと伝えられている。「ほうかん」と呼んだと伝わっている。
判官家 岩手県下閉伊郡山田町大沢 義経一行が宿泊したとされる家。そのため、明治以前は「判官」の姓を名乗っている。今も判官の名が入った墓石が残る。
佐藤家 岩手県下伊郡山田町関口 義経の軍師佐藤庄司基治」の子信正が、義経一行を案内して、当地まで来たことを示す文書がある。文治4年申ノ九月(1188年)の日付。氏神棟札慶長8年(1603年)
判官神社 岩手県宮古市津軽石 義経を祀る(ほこら)がある。義経一行がこの地に滞在したことから、「判官館」とよばれるようになった。
横山八幡宮 岩手県宮古市宮町 義経一行が松前渡海の安全祈願をしたという神社。弁慶直筆の大般若経が収められていたと伝わる。一行は義経、弁慶、依田源八兵衛弘綱、亀井六郎重清、鈴木三郎重家など。鈴木三郎重家は老齢のためこの地に留まると神主になったと伝えられる。
御堂華、出雲家 岩手県宮古市 義経一行が15、6人でやってきて、粟を六升(11kg)借りて証文を置いていった。
吉内(よしうち)屋敷 岩手県下閉郡田老町乙部 かつては「きちない」と呼ばれた。金売吉次の弟吉内の屋敷。義経が着用したという兜は、宮古市本町の志賀家で所蔵。

この説の肯定者[編集]

余話[編集]

  • 夏目漱石の『吾輩は猫である』にこの説の挿話がある。
  • 蒙古史に源氏の白旗、源氏の紋章である笹竜胆が使用された、と載っている。(ボルテ・チノ4号)
  • 鶴屋忠恭氏によれば、昭和53年ごろ中国満州平泉出身の張振中(チャンツェンチョン)という方に源義経を何と呼ぶか訊いてみたところ、「チンギス」と云う答えが返ってきた。(ボルテ・チノ4号)
  • 大英博物館のチンギス・ハーンの銅像の台座には笹竜胆の紋章が彫ってある。(ボルテ・チノ4号)

外部リンク[編集]