義経=ジンギスカン説

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義経=ジンギスカン説(よしつね=ジンギスカンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間-1227年8月12日[1])は、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年-1189年6月15日)と同一人物であるという仮説伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハーン説は否定され、学説では問題にされていない。

村上源氏等、源氏の一部の氏族が用いる紋章「笹竜胆」

概説[編集]

この説は四つの立場がある。

  1. 義経が奥州衣川で死せず、死んだと見せかけて北上し蝦夷に渡った。
  2. 義経が奥州衣川で死せず、大陸の金の将軍になった。
  3. 義経が奥州衣川で死せず、蝦夷にわたり、更に韃靼にわたり元を建国しチンギス・カンとなった。
  4. 義経は大陸で死んだがその子孫が清和源氏の清の字をとった清を建国した。

  この記事では主に3について記す。


室町時代以降、いわゆる「判官びいき」から生まれた「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びついて「義経北行伝説」が成立し、近代に入り『義経再興記』によって「成吉思汗=義経伝説」へと発展した。江戸時代に『義経記』は元和木活字本により広く流布し、寛永年間(1624年-1643年)の流布本[2]によって本格的に読まれるようになり、浄瑠璃歌舞伎狂言読本などにもさかんに取り入れられていくが、こうしたなかで、義経不死伝説と「御曹子島渡」説話が互いに結びつき、義経は自刃したとみせかけて、実は蝦夷地にわたったという伝説(源義経北行伝説)となって成立した。しかしながら江戸時代初期には林羅山新井白石らによって真剣に議論された。水戸光圀が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていたが、沢田源内金史別本』などの虚偽が判明し、学術的には有耶無耶にされた。一般庶民には源義経がの将軍になったり、義経の子孫がという国を作ったなどという話が流行した。シーボルトがその書「日本」で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張したあと、大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。この頃から学者の反論が大きくなるが、学者からは否定されつつも東北北海道では今も義経北行説を信じる者が多い。[3]戦後は高木彬光1958年昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を得たが、生存説は俗説にとどまり、アカデミックな世界からは取り扱われることは無かった。我国ではこの様に何世代も渡って語られてきた伝説・仮説も現代では、トンデモ説都市伝説などと評されている。


ジンギス・カンについては生年や前半生が不明な点が多いことや、蒙古民族が文字を残さなかった為、文献が残っておらず、口伝口承による歴史伝達など裏づけ部分が不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実である。特に約10年の空白期間を歴史学者が何をしていたのか特定できず、義経がその時期日本で活躍していることなどから、この説をややこしくしている。源義経に関しても信頼できる資料は『吾妻鏡』であるが、22歳のときに駿河黄瀬川に陣を布いた源頼朝を訪ね、兄弟の対面した記録が最初であり、その前には地方を放浪して「土民」(土人)や「百姓」に使われていたとあるだけで[4]、不明な点が多く、義経記等の弁慶と橋の上での対決などはフィクションであるとされ、22歳の前には一体何処で何をしていたのかさっぱり判らない人物である。史学界とこの説の信望者らはこの二人の人物に対し資料が無さすぎ、比較しようにも信用・信頼できる文献資料が無さすぎる為、お互いに無視しあっているというのが、本当の所である。


  • 「世伝義経不死於衣河館、遁至蝦夷」「然則義経偽死而遁去乎、至今夷人祟奉義経、祀而神之、蓋或有其故也」『大日本史徳川光圀編纂。
  • 「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ」「今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝へシトモ云フ」『読史余論新井白石


 新井白石は、アイヌ伝説のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関するものがあり、この主従を義経と弁慶に同定する説のあったことを『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り手紙を書いたが義経渡航説を否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。古くから義経の入夷説はアイヌの間にも広まっていたが、更に千島、もしくは韃靼へ逃延びたという説も行われ、白石は『読史余論』の中で吾妻鑑を信用すべきかと云いながら、幾つかの疑問点を示し、義経の死について入夷説を長々と紹介し、更には入韃靼説も付記している。更に『蝦夷志』でも同様の主張をし、これが長崎のイサーク・ティチングに翻訳され欧米に紹介された。


 吾妻鑑には義経は奥州衣川自害したと記されているが、林羅山本朝通鑑に義経が蝦夷に渡った可能性について論じ、その子林鵞峰(春斎)の『続本朝通鑑』「俗伝」の記載(1670年)により、義経北行伝説は急速に識者に知られるようになる。江戸時代平泉地方を統治した仙台藩は、義経が平泉で自害したと記録しているが、延宝年間成立とされる『可足記[6]享保二年(1717年)成立の『鎌倉実記[7][8]明治初年成立の『新撰陸奥国史』では衣川事件のあと、義経は蝦夷地へ渡り、満州(中国東北部)や蒙古に向かったと伝えている。


水戸光圀は義経北行説に執着し、『大日本史編纂事業では、その一環として調査団を組織し快風丸を建造して蝦夷地探検と義経北行伝説の真偽を確かめるため派遣している。貞享2年(1685年)、貞享5年2月(1688年3月)など、数回に亘って航海が行われたが、この説を裏付けるほどの期待された効果は得られていない。しかしながら派遣団は、蝦夷地に義経・弁慶にちなんだ地名があること、義経がアイヌの人達からオキクルミ(狩猟や農耕をアイヌの人に教えた神)として崇められているとして報告している。


 弁慶岬(弁慶崎)の地名はアイヌ語のベルケイ、すなわち「裂けた所」の意味で、海食屋の地形に由来し、ここで義経一行が逗留中に余興として弁慶が相撲をとった伝わるが、アイヌ人が弁慶としてで命名したのではなく、和人が義経伝説に因んで勝手に命名したに過ぎない。元文4年(1739年)成立の坂倉源次郎『北海随筆』(『日本庶民生活資料集成』三一書房、1969年)には、この「弁慶崎」から、義経が「北高麗」に渡った、とする伝承が記されている。また、義経をオキクルミとすることに対して、弁慶をもう一人の英雄であるサマユンクルに擬える事も、広く行われていた。


 イザベラ・バードも『日本奥地紀行』に、「彼(義経)は蝦夷に逃れてアイヌ人と長年暮らし十二世紀の末に死んだ、と信ずる人も多く、アイヌ人は何処のことを固く信じている人は殆ど無く、義経は彼らの祖先に文字や数学と共に、文明の諸学芸を教え、正しい法律を与えた、と主張している」、等と和人からの伝承を記している。


 宝永七年(1710年)に蝦夷地を訪れた幕府巡検使松宮観山が、蝦夷通詞からの聞書を基にした『蝦夷談筆記』(『日本庶民生活史料集成』第四巻)には、「(義経が)蝦夷の大将の娘に馴染み、秘蔵の巻物を取たるといふ事」をアイヌがユーカラに謡っている事などが記されている。これは『御曹子島渡』の、義経が千島大王の大日法の巻物を、天女の力を借りて写し終えると白紙になったという、物語を擬えたものである(『義経伝説と文学』大学堂書店、1935年)。和人が伝えたと考えられるが、この伝説も巻物がアイヌの文字を記した書物で、白紙になったことでアイヌの文字が失われた、という話は、義経がアイヌの文字を奪ったという話と同じである。


 義経神社沙流郡平取町本町)は義経を祭神とする神社だが、これには諸説ある。寛政一一年(1799年)、幕吏近藤重蔵が蝦夷地探検でこの地に来た時、この地に義経伝説があることを知って建立したという。この近くの新冠郡新冠町には、判官館城跡と呼ばれるチャシ()跡がある。この地に重蔵が最初に義経神社を勧請したと伝わっている。小シーボルトと呼ばれるハインリッヒ・シーボルトもこの地を訪れた。農耕、舟の作り方と操法、機織などを伝えたという伝説が義経神社に伝わっており、社伝によれば、義経一行は、むかし蝦夷地白神(現在の福島町)に渡り、西の海岸を北上し、羊蹄山を廻って、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ集落に落ち着いたとされ、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官の神ほどの意味か)あるいは「ホンカンカムイ」と慕われたこという説もある。他にアイヌの民の間ではアイヌの民から様々な宝物を奪った大悪人とされていたり、義経に裏切られて、女の子(メノコ)が自殺を遂げた場所も存在する。


 前述の通り江戸時代初期に、の正史である『金史』の外伝という触れ込みで、「12世紀の金の将軍に源義経なる者がいた」と記した『金史別本』なる書が、沢田源内の翻訳によって出版されているが金田一京助永田方正が「『鎌倉実記』と『金史別本』の作者は沢田源内」という説を受け沢田源内を捏造者と断定した(『世界』75号所収)。岩崎克己加藤謙斎説を唱えている(『義経入夷渡満説書誌』昭和18年)。この『金史別本』の内容に乾隆帝の御文の中に「の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」とあり、この噂が流布し、これが後の大陸進出に利用された。


 松浦静山の『甲子夜話』文政4年(1821年)および『甲子夜話続編』や古川古松軒の『東遊雑記』天明7年(1787年)などにみられるように、義経が韃靼に渡り、その子孫が清和源氏の一字をとって、清国を興したとする説がむしろ幕末までは一般的であった。

通俗小説の世界では、嘉永3年(1850年)に、永楽舎一水の『義経蝦夷談』に義経がジンギスカンになったとする話がある。


 『岩手県姓氏歴史人物大辞典』には、「奥州藤原氏系の中野氏は、祖先は藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が北海道に居住」と書かれている。つまり姓氏に関する限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れた事が書かれている。また、『中尊寺建立供養願文』には、1105年、初代藤原清衡によって建立された中尊寺の当時の事を書いた物の中に、「粛慎挹婁海蛮は、陽に向かう葵(向日葵)の類」と、当時の奥州藤原氏と大陸系の他民族である粛慎、挹婁がかなり親しく、しかも藤原氏に従順だったのではないかと思わせる記述がある。

伝説地[編集]

義経不死伝説および義経北行伝説においては、当然のことながら平泉以北に伝説地が分布する。

主要な伝説地

この伝説に基き、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(北海道平取町)に義経神社が創建された。

北東北沿岸に残る義経伝説[編集]

岩手県の郷土史家である佐々木勝三らは地元に点在する伝説を丹念に拾い集め、『成吉思汗は義経』(1977年、勁文社)として出版した。 しかし著書の中で紹介される義経生存説を示す古文書の多くは、江戸時代中後期の盛岡藩の役人や学者が地元の神官や百姓に請われて書いたもの[9]であり、その中の一つで明和二(1765)年に書かれた『奥州南部封域志』は、「義経記」や「鎌倉実記」などの当時既に広まっていた書物を下敷きに書かれており、義経が王朝に逃れて将軍になったと記している。

修験道と義経伝説[編集]

義経伝説が色濃く残る岩手県宮古市黒森山羽黒修験と密接な関わりを持つとされ[10]、国の重要無形民俗文化財である黒森神楽山伏神楽の代表的なものである。このように、三陸沿岸北部は山伏の一大根拠地であり、この地の義経伝説は「弁慶の大般若経」「鈴木重家の笈」など修験道との関わりを示すものが多い。これら修験者の残した道具や巻物が、判官びいきの心情と結びつき伝説を形作っていったと考えられる。 更に江戸時代中期の盛岡藩の儒学者であった高橋東洋(高橋子績)が、これらの伝説をまとめた『黒森山稜誌』『奥州南部封域志』などを執筆したことで、現在につながる義経伝説を成立させることとなる。

中世の藤原氏北方貿易[編集]

義経が登場する以前から奥羽蝦夷、海外交易を行っている。平安中期から鎌倉中期にかけて、北方貿易奥州藤原氏は行っており、莫大な富を築き、奥州藤原氏、あるいはそれ以前に奥羽を支配した安倍氏清原氏が、中国(北宋)との間で行った貿易で主に十三湊を拠点として行われた。のちに平清盛南宋との間で行った日宋貿易と違い、朝廷などの影響を受けない北方のルートを使ったと推定される。この十三湊は 鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地で、蝦夷のアイヌ和人との間の重要交易拠点でもあった。

金色堂の仏壇や4本の巻柱長押アフリカゾウ象牙夜光貝紫檀が使われており[11]、当時の奥州藤原氏の隆盛ぶりと海外とのつながりが証明されている[12]。つまりここの地方は朝廷の中央文化とは別にアジアの独自貿易ルートを持っており、独立的経済圏を形成していた。

藤原基衡は、毛越寺本尊の制作を仏師・運慶に依頼し、其の費用一体分は円金100両、羽100尻、アザラシの皮六十余枚、安達1000き、希婦の細布2000端、糠部駿馬50頭…等々を京へ収めたほか、中央政界の実力者藤原頼長荘園も管理し、海外からの宝物を納めている。延暦21年(802年)、東北以北に住む蝦夷の族長アテルイを、坂上田村麻呂が征討したことは、よく知られ、蝦夷支配のための、政府出先機関、胆沢(いさわ)鎮守府が置かれ、安倍氏が台頭し朝廷は安倍氏からもたらされる、オットセイアシカ毛皮は装身具に必要であり、の羽根は矢羽に欠かせなかった。

この頃から齎されたといわれる、蝦夷産の昆布は現在も京料理に使用されている。藤原氏の北方貿易とは別に、渡党らがアイヌと和人との仲介役を果たし、交易の民として活躍した。そのアイヌにとって狩猟は、縄文時代続縄文時代以来の長い年月を有する生業であり、7世紀にはじまる擦文文化期の遺跡ではアワオオムギヒエソバなどの出土例がある。海獣の捕獲などについてはむしろ和人の側がアイヌ文化の影響を受けた可能性が高い。和人が蝦夷進出をするに従い、半ば強制的に義経とアイヌ神話を和人が結び付けた。和人の蝦夷進出は1669年から翌年にかけておこったシャクシャインの戦いなどを引き起し、アイヌ人との摩擦も大きかった。西廻り航路などの海運網の整備によって、蝦夷地を含めて国内市場、一国市場が形成された。とくに、江戸時代中期以降は、昆布俵物など蝦夷地の産品が江戸や大坂、京に輸出された。それらにより北方への関心が高まったが、徳川光圀が蝦夷探検隊を派遣した例でも判るように、まだ日本人にとって蝦夷、樺太千島列島はまだ謎の多い土地であった。

日本史からみた義経暗殺事件[編集]

江戸時代からこの事件に関しては論争が耐えない。源義経は藤原秀衡から与えられた衣川高舘の屋敷に住んでいたが、文治5年4月30日(5月30日)(1189年藤原泰衡の襲撃により死去したとの記録が、『吾妻鏡』にある。藤原泰衡は父藤原秀衡の遺命に叛き義経を誅殺し“功績”を源頼朝に伝えるべく報告を出すが、その時期は遅く、高舘襲撃から22日も後である。焼け落ちた高舘の仏像から回収した義経の首も鎌倉へ搬送されたが、首実検が行われるまでに43日も要し、日本史の謎になっている。

高舘襲撃事件から七ヵ月後、頼朝が奥州から鎌倉へ凱旋して建久元年(1190年)1月、「伊予守・義経が 奥州の賊徒を率いて挙兵した」という噂が広がり、鎌倉が警戒したと吾妻鏡にある。義経の生存を既成事実 として受け止める暗黙の了解があったとみる向きもある[13][14]

江戸時代前期の林羅山本朝通鑑で《義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す》 と記している。公式文書として初めて、義経自害を否定したばかりか、蝦夷まで行き子孫まで残した と言明したが、「俗伝又曰」という前文を含めて解釈すれば、「世間では……と噂されている」 といった文意になる。また新井白石も『読史余論』で《義経、手を束ねて史に突くべきにあらず。不審の事なり。今も蝦夷の地に義経の家の跡あり。また夷人、飲食に必ず祀る。それのいわゆるオキクルミと云うは即ち義経のことにて、義経後には奥へ行きしなど云い伝えし》と記した。

水戸光圀も『大日本史』で、《世に伝う、義経衣川に死せずとして蝦夷に逃れると。今、『吾妻鏡』を考えるに閏四月己未(新暦5月30日)藤原泰衡、義経を襲いてこれを殺す。五月辛巳(新暦6月22日)報至り(頼朝へ)、まさに首を鎌倉へ致さんとせしが、時に源頼朝使いを使わして(平泉へ)これ(首の鎌倉搬送)を止める。六月辛丑(新暦7月13日)、泰衡が使者、首を斎して腰越に至り、漆函をもて之(首)を盛り、浸すに美酒をもってす。頼朝和田義盛梶原景時をして之を検せしむ。己未より辛丑にいたるまで相隔てること四十三日。天時に暑熱なり。函にして浸したりといえども、ついぞ壊爛腐敗せざることを得ん。よくぞ真偽を弁ぜんや。しからずんばすなわち義経は、偽りしして逃れ去りしか。今に至るも夷人、義経を崇奉し、祀りて之を神となせり。けだし、その故あらん》とこのようにこの事件を疑っている。

成吉思汗=義経説[編集]

シーボルト[編集]

1823年に来日したオランダ商館医員のドイツ人医学者シーボルトは本格的な日本研究をおこなって『日本』を著したが、彼はこのなかでこの説を書いている。 蝦夷志[15]読史余論長崎出島商官長のイサーク・ティチングに翻訳され、マルテ・ブリューン[16]が『地理および歴史に関する探検旅行記録集』[17]に書き、シーボルトはこれを読んでいた。[18]和年契を日本で座右の書とし、この説を確認する。

 シーボルトは日本滞在中に、オランダ語通訳の吉雄忠次郎からこの話を聞き、「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。『東蒙古史』には豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もなくチンギス・ハーンははじめオノン川のほとりに立てられた九つの房飾りのついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」と記している。

シーボルトは、さまざまな伝承、説話、先駆者達の研究を綿密に検討した結果、義経が蝦夷へ行き大陸へ渡った説を支持した。まず彼は二人に関する年代的な一致点に注目し、義経が死んだとされるのは1189年であり、その後蝦夷から大陸へいけば1190年代にモンゴルに到着したことになる。一方、ジンギスカンは生年月日が不詳であり、前半生の資料が少なく、1190年代に突如としてモンゴル中央平原に出現し、可能性があるとした。またジンギスカンが登場したときの九つの房をつけた白い軍旗や、モンゴルや中国になかった長弓をジンギスカンが得意として使い、これは義経がモンゴルに持ち込んだと考えた。


さらに、日本では、神武天皇以来日本諸侯の爵位として「守」(かみ)といい、義経は「かみ」すなわちモンゴル民族の「カーン」になったのではないかと考察した。ただし、カーンについては『元朝秘史』に他部族の長を合罕と称するという記述があり、日本とのかかわりは指摘されていない。


ほかにもモンゴルの宮廷習慣と日本の貴族たちの習慣に共通点が多いこと、たとえば城壁の外装は”幕=MAKU”といい、紋章を用い、朝廷や祝宴では白色が用いられること、白い天幕に「シラ」という名称をつけること、さらにはその頃に日本独特の長い弓と矢も用いれられるようになったということ、中国で一般的に用いれられていた短い弓や矢とは明らかに違っていたこと、中国人に非常に恐れられたため、「長い弓の盗賊」と呼ばれるようになったこと(『小シーボルト蝦夷見聞記175頁)……などと挙げながら実証主義の姿勢でこの説を構築していった。原田信男は殆ど言葉遊びに近く、単なる推測の域を脱していないと否定的である。[19][20]


シーボルトの『日本』(第一巻二八七頁注10)によれば、「この中国の史書」の引用部分はイサーク・ヤコブ・シュミット編の『東蒙古史』に拠り、モンゴルの歴史家サナン・セチュン1162年に記した『蒙古源流』をシュミットがドイツ語訳したものである。


一説には1189年にはチンギス・カンは34歳であったといい、1206年には44歳で北アジアを統一し、強いハンと云う意味で、可汗を称したともいう。また「九つのふさのついた白い旗」の存在は実態はよく判っておらず、一本の旗に九つの吹流しが付いていたものと考えられており、かつては古代中国で絶大な権力を持った王の象徴とされていたという。「九旒白旗」は「テゥク」と呼ばれるもので古い中国からの伝来によるものと、大正の学者が論じたらしいが、確証は得られていない。


なお、ケルレン川バイカル湖周辺のダツルン山脈南部を流れており、アムール川にそそぐ川である。またアルラト族はチンギス・カンを支えた名門で直属の部下に多くなっている。ベーテについては不明だが、族長と巫女のベゲが統治していたことからこのベゲの部族だと推測される。


シーボルトは「ジンギスカンの伝説的な系譜を重要視しているわけではなく、憶測を逞しくしようとは思わず、義経が蒙古の戦場に登場することに推測を加えることで、歴史家の注目を集めたいのである」と結んでいる(『シーボルト日本』)。


追放処分から30年後再び来日(1861年)し、幕府の顧問になるが、西洋書籍の分析機関『蕃書調所』に勤めた西周 (啓蒙家)に再三に渡って「義経=ジンギスカン説」を正史として認めるよう薦めている。(『末広の壽』1869年)

末松謙澄[編集]

末松謙澄伊藤博文の知遇を得て、明治11年(1878年)から12年にかけて外交官としてロンドンに赴任、ケンブリッジ大学で学んだ。『義経=ジンギスカン説』を卒業論文にまとめて発表した。末松は江戸時代からの義経生存説の流れを下敷きにし、手塚律蔵(瀬脇寿人)の『浦潮港日記』やグリフィスの記述などを参考にして完成させた。題名は「The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なること)」。『大日本史』などの記述を引用したほか、独自の見地からも論証した。これを書いた背景にはイギリス人たちから日本が清国属国のように云われるので、日本人は世界的な英雄を出した民族であり、卑下された見方は心外であるとして大胆な仮説を唱えたとされている。[21] この論文は内田弥八訳述『義経再興記』(明治史学会雑誌)として明治18年(1885年)を嚆矢としてそののち和訳出され、小谷部全一郎の論に影響を与えた。

二人の年表[編集]

チンギス・カン 西暦年/和暦年 源義経
(以下のはっきりした年号は不明) 1159年/平治元年 義経の生年。京都で源義朝の9男として生まれている。平治の乱が起き、父義朝敗れる。幼名は牛若丸。
モンゴル中央高原でチンギス・ハン誕生する。右手に“血”の塊を握っていたと伝承。父はイェスゲイ。幼名はテムジン。 1162年1167年?詳しくは不明
1169年/嘉応元年 義経は鞍馬寺に預けられる。遮那王に名前を変える。(10)
1174年/承安4年 義経は奥州にいく。(15)
テムジン、ウンギラト族のデイ・セチュンの娘ボルテと結婚するが、メルキド部族にボルテを奪われる 1178年/治承2年
1180年/治承4年 義経、黄瀬川の宿で頼朝と対面する。(22)
1181年/治承5年 大工の馬事件鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、工匠たちに与える馬を引かせられた。たとえ兄弟であっても、義経は頼朝の御家人の一人にすぎないということを認識させた事件(23)
1184年/寿永3年 宇治川の合戦1月20日兄範頼とともに宇治川の合戦に勝利し、義仲を近江粟津に敗死させる。壇ノ浦の合戦。(26)
1185年/寿永5年 義経京に凱旋するも、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず、都落ちし、大物浦より西国へ向かうが、暴風雨により失敗(11月6日)。その後消息不明。(27)
テムジン、メルキド部族をプウラ・ケエルで破りボルテを奪還する。テムジン、第一回目の即位「ハン」を宣言(年号は不確かで実際はこの前後か) 1189年/文治5年 奥州衣川で義経自害。(31)
チンギス・親友ジャムカとの戦いに敗れる。(十三翼の戦い) 1190年/文治6年

小谷部全一郎による「成吉思汗=義経」説の提唱[編集]

小谷部全一郎アメリカ合衆国で学んで牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが実は源義経ではないかという話を聞き、義経北行説に興味をもった。その後、満州モンゴルに旧日本軍の通訳官として赴任し、「成吉思汗=義経」の痕跡を調べるべく、満蒙を精力的に取材する。1920年帰国。軍功により勲六等旭日章を授与されている。彼はこの調査によって、義経が平泉で自害せず、北海道、樺太にわたり、さらにモンゴルに渡ってチンギス・ハーン(成吉思汗)となったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。

以下、小谷部の論拠を示す。

  • 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られた義経の首は、事件を5月22日に報告し、6月13日に鎌倉の頼朝に届けられている。いくら中世とは言え、当時は早馬を飛ばせば平泉から鎌倉までは数日で使者は着くはずである。何故一ヶ月以上もかかったのか。故意に腐らせ偽物と判別できなくするためではないか。
  • 吾妻鏡』で衣川事件から1年後(1190年5月)鎌倉に義経軍が攻めてくるという情報が流れ緊張が走った、という記録があるが、義経が死んでいるという確証があるならおそれる必要は無いのではないか。おそれているのは鎌倉幕府が先の衣川事件の首は実は偽物であり、義経が生きているのを知っていたという証拠ではないか。
  • 成吉思汗の少年時代の記録として「朽木の洞に隠れていて助かった」とあるが、兄頼朝の伝説と内容が重なる。
  • 大日本史』などでは鎌倉に届けられた首は偽首としており、蝦夷へ逃亡したと記している。
  • 延宝年間の『可足記』に九郎判官の身代わりに杉目太郎行信が致し、行信の首が鎌倉に運ばれた、と記す。
  • 北海道と大陸の間に昔からアイヌの行き来があって、義経一行はしばらく北海道に滞在した後アイヌの水先案内人によって大陸に渡った可能性が十分に考えられるのではないか。
  • 成吉思汗が1206年ハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家の棟梁の宣言ではないか。「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎判官を意味するものではないか。
  • 成吉思汗は紋章として笹竜胆を使用した。笹竜胆(源氏の紋章)を尊び、九の数を好むのは己の名の九郎に因んだからではないか。
  • 成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。
  • 成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。
  • 沿海州ナホトカウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地があり、九郎判官が上陸した土地ではないか。
  • 成吉思汗が滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があるのは、義経ゆかりの「平泉」によるのではないか。
  • 蒙古では現在でも「オボー祭り」が8月15日に開かれているが、義経が幼年時代をすごした京都鞍馬山でも、この日、同じような祭りが見られる[22]
  • 成吉思汗はニルン族の貴族キャト氏族だが、「キャト」は「キョウト」「京都」出身をあらわしているのではないか。
  • 国名「元」は「源」に通じる[23]
  • 年齢もほぼ同じ。義経が衣川で討たれたのが30歳で、その数年後ジンギスカンが表舞台に登場するようになった時期の年齢が30代半ばであるなら、辻褄が合うのではないか。
  • ジンギスカンの前半生には空白部分が多い。
  • 両者とも背は高くなかった。酒も全然飲めなかった。
  • 戦術も同じ、戦い方もそっくりであった。
  • モンゴル文字にかなりの平仮名からヒントを得たとしか考えられない文字が存在する。
  • 蒙古の地名や現地言語に日本内地、蝦夷との類似性がみられる(チタ、スルガなど)。蒙古には「源」の苗字が多い。
  • ラマ教の寺院に伝わるジンギスカンの肖像はどこか日本人的な顔立ちをしている。

[24][25][26][27][28]

小谷部『成吉思汗ハ源義經也』に対する反応[編集]

大正13年(1924年)の小谷部の著書『成吉思汗ハ源義經也』は「判官びいき」の民衆の心をつかんで大ベストセラーになり、多くの日本人の間に「成吉思汗=義経」伝説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、増補版も出版されたが、この本が歴史家には相手にされない一方で、広く民衆に受け入れられた背景として、単に判官びいきの心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が日清戦争日露戦争を経て「満蒙こそ日本の生命線」と考える人びとの心をとらえ、シベリア出兵をおこなっていた時期の風潮に適合したことが指摘されている。また、ブームの背景としては、大衆の政治参加の進展や中間層の形成、中等教育の普及などにともなう文化の大衆化も掲げられる。さらに、発表された大正13年が関東大震災1923年)の惨禍のあった翌年にあたることから、絶望に打ちひしがれた人びとを慰撫し、復興にたずさわる人々を鼓舞する意味合いもあったと考えられる。

これに対し雑誌『中央史壇』(第10巻第2号 1925年 320. 4-265,国史講習会)は『成吉思汗は源義経にあらず』と題して臨時増刊号を組み、国史学東洋史学考古学民俗学国文学国語学言語学など当時第一級の研究者たちがこの説に対し大々的に反論を行った。

特に言語学の金田一京助漢学者歴史学者中島利一郎らの批判は激しく、金田一京助は小谷部説を「小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」である」と全面否定した。また中島利一郎の場合の反論はさらに激しく、小谷部論をひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑稽」「児戯に等しい」という言葉を用いて痛罵している。他に星野恒が実証史側として入夷説や清祖説が存在しないことを論証している[29]

小谷部説批判のおもな論拠[編集]

研究者たちによる小谷部説批判のおもな論拠には、以下のようなものがあった。

  • 「クロー」は部落の長を意味する「古兒窂(グルハン)」の訛りにすぎない。[30]
  • 「九旒の白旗」は「テゥク」と呼ばれるもので古い中国からの伝来によるものであり、源氏とは何の関係もない。

金田一京助御曹司島渡の説話が蝦夷地に渡りアイヌの口にも「判官様」が知られているのを、後世の人々が知って広ませたということを聞き出し、アイヌは義経を口承文芸にしていないと述べている[31]。また、オキクルミはアイヌの創造神であり、アイヌにとっては迷惑な話だったが、判官=オキクルミという話をすると、内地の人が喜ぶのでそう話すことがあったとアイヌから本音を聞きだした[32]。 小谷部『成吉思汗ハ源義經也』は、満州国建国とそれにともなう移民の増加などによって脚光を浴び、戦中から戦後にかけてさかんに増刷され、「成吉思汗=源義経」説をとなえた類似の書籍は戦後もいくどか出版されてきた。しかし『成吉思汗は源義経にあらず』を論破できるようなものはなく、また敗戦によって大陸進出を語ることそのものがタブー視されるようになったことや目新しい「新史料」が登場しないこともあって、歴史学説としては相手にされず、オカルトや伝奇のネタとしても半ば忘れられているのが現状である。

戦後から現在[編集]

  • 昭和25年(1950年朝日新聞社が中心となって奥州藤原氏廟所である中尊寺金色堂の学術調査がおこなわれた。従来藤原忠衡のものであろうと信じられていた遺体は兄の藤原泰衡の首であり、当時の作法によってできた傷跡であろうということがわかった。従来は、泰衡は父藤原秀衡の遺命にそむいて義経を殺害し、火内(秋田県大館市周辺)の贄柵で河田次郎に殺害されたのだから、秀衡の横に安置されるはずはないと考えられていた。調査内容は3遺体が日本人かアイヌか、どんな状況で死亡したのか、藤原忠衡の首なのか、河田次郎に殺された後継者の藤原泰衡のものではないか、ということが議論され、記者会見のなかで長谷部言人博士と鈴木尚博士は「四氏遺体のミイラ化は人工的に手を加えられた結果ではなく、忠衡の首と称せられるものは泰衡の物と判明した。藤原清衡始め四代の当主にはアイヌらしい面影はない」という見解を発表した。(悲劇の英雄源義経と奥州平泉 KKベストセラーズ)
  • 昭和33年(1958年)、推理作家高木彬光が推理小説『成吉思汗の秘密』を著し、人気を得た。しかし、義経をチンギス・ハーンとする論理の弱さ例:『成吉思汗』の「汗」を「水と干」に分けると、「成吉 思水干」となり、遠くモンゴルで良きこと「吉」を成し遂げ、「吉成りて、水干を思う」となる。水干とは衣装をまとった白拍子静御前を指して偲んでいるという説など。ただし、「汗」はハーンの音訳であり、3世紀頃から用いられてきた用法である。など矛盾点が歴史作家海音寺潮五郎に批判された。これに対し、高木は表立った反論は行わず、作品を改訂した際に神津恭介が「ある歴史小説家」への回答を行うくだりを追加している。また、成吉思汗は身体が大きかったのに、義経は身体が小さかったではないか、と云う指摘が記録されているが、最近の研究ではモンゴル日本大使館の肖像画に体の小さなチンギス・カンが描かれており、この点は問題が無くなっている。
  • 佐々木勝三は奥州史談会や岩手史談会の会員として、郷士史家として活動し、高校で教鞭を執る傍ら義経生存説の検証に取り組み、平泉以北に残っていた義経伝承を丹念に調査した。昭和33年(1958年)に『義経は生きていた』(東北社)を発表し、91歳で没するまで『源義経蝦夷亡命追跡の記』『成吉思汗は義経』などの研究成果を発表した[33]
  • 近年もこの説に関連した作品は書かれ、三好京三の『生きよ義経』(新潮社)、山田智彦の『義経の刺客』(文藝春秋)、中津文彦の『義経はどこへ消えた?』(PHP研究所)などがある。
  • テレビで源義経の北行説が放送される[34]
  • 東北や北海道各地の義経伝承の地は、ほとんどが観光スポットになっている。
  • 2005年大統領シラクは、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させ、外国要人もこの説に関心を持っている事が窺える。

モンゴル史研究におけるチンギス・カン像[編集]

もともと成吉思汗=義経伝説は日本起源であり、冒頭に示したように肝心のモンゴルにはこの伝説は伝わっていないところから、従来のモンゴル史研究ではチンギス・カンを義経の後半生であるという見解は勿論存在していない。

肉体的特徴その他[編集]

源義経が源義朝の八男ないし九男であったことはよく知られているが、それに対し、チンギス・カンの前身たるテムジンはイェスゲイの長男であり、テムジン9歳のとき父を失って苦労した、という『元朝秘史』に記されている逸話はよく知られている[35]。小谷部は「ともに小柄」としているが、チンギス・カンはモンゴル関係の歴史書には「堂々たる体躯」であったと記録されており[36]、小谷部の主張と同時代的な記録とは合致しない。


しかし、杉山正明はチンギス・カンの肖像として一般に知られている台北の故宮博物院蔵のチンギス・カンの肖像を例にあげて、これが実際のチンギス・カンの容姿を反映したものであるかどうかは疑問視している。さらにまた、チンギス・カンの子孫たちが作らせた東西の文献には「波乱に満ちた彼の前半生について、様々な逸話、苦心譚を人馬が激しく交わる『血湧き肉踊る』活劇」として語り伝えてはいるが、「前半生と容姿は真偽は闇の中にあり、確かだといえることは、1203年の秋にケレイトオン・カンを奇襲でチンギス・カンが倒し、モンゴルの東半分を制圧してからだ」と述べている[37]。 


また、満洲史、モンゴル史研究者である岡田英弘も、「1195年ケレイトオン・ハーンとその部下のチンギス・ハーン(このときはテムジン)は、と同盟してタタール人に大規模な征伐作戦を行い、金から恩賞を受けている。これが初めて歴史に登場した事件であり、これ以前のチンギス・ハーンの事跡ははっきりとは分からない。」と述べる[38]


ただし、杉山も岡田もチンギス・カンにまつわる伝記資料の事績やエピソードの説話的要素と実際の事績との不分明さを意識して「前半生は謎に包まれている」と述べており、チンギス・カンがイェスゲイやバルタン・バアトル、カブル・カンの血統であるという伝承自体を否定している訳ではない。むしろ、両者ともその血統に関する伝承を前提として論じている[39][40]。特に杉山はテムジンが「名門の傍系」であったために、君主としての権力を確立する過程で、アルタンやクチャルといった同じキヤト氏族内の嫡流の人々を排除して行った点に注意を促している。


また、江上波夫によれば、遊牧民族騎馬民族国家の君主は、同じ国家に所属する氏・部族長らによって君主として推戴・承認を必要とする推戴・承認制と呼べる制度があり、「軍事的・外交的活動の最高指導者としての適格性が君主の資格として、つねにひじょうに重視されていた」ことを指摘している。「内陸アジアの遊牧騎馬民族国家の君主に『勇猛な(バガトル)』『賢明な(ビルゲ)』などといった資質にもとづく名」を負っていたのは、これら遊牧騎馬民族の動的な社会に深く根ざしていた現実主義合理主義的な側面から導き出された結実と見ている。


しかしながら、同時に、氏・部族長らによって君主として推戴・承認を受ける遊牧騎馬民族国家の君主候補者は、最初の君主を輩出した支配・中核氏族の成員に限定される、という原則が形成されており、さらに実際にはその君主の男系近親者に選択範囲が狭められる、という現象も生じている。すなわち、第1に「内陸アジアの遊牧騎馬民族国家」の君主の選定には、「軍事的・外交的活動の最高指導者としての適格性」を氏・部族長らによって君主として推戴・承認される制度という現実主義・合理主義的な側面と、第2に「最初の君主と同じ男系の氏族でかつ近親者でなければならない」という血統主義的な側面という、両側面が考慮されることになった。そのため、両者の間に原則的な矛盾を孕みつつ、併用的に行われており、匈奴の時代からチンギス・カンの時代までほとんど改変されることなく続いたものであった。そして、それはしばしば王族や支配氏族間の内訌の原因ともなり、さらには国家の分裂、衰退の原因ともなった、と述べている[41]


チンギス・カンの名の由来[編集]

チンギス・カンの称号の由来については諸説あり、現在も意味は良くわかっていない。1206年に即位した時に、コンゴタン部族出身の巫者ココチュ・テプ・テングリによって「チンギス・カン」という称号が贈られたことは、『集史』や『元史』『元朝秘史』などの諸資料で共通して記録されている。この巫者(シャーマン、カム)ココチュ・テプ・テングリとは、『元朝秘史』にはチンギスの父イェスゲイに親しく仕えていた従者モンリク・エチゲの四男であったとされている(ただし、『集史』ではモンリク・エチゲはチンギスの母ホエルンの再婚相手だったため「エチゲ(父)」と呼ばれていたと述べている)。また『集史』によると、「チング( چينگ chīng)」はモンゴル語で「強大な」を意味し、「チンギズ( چينگگيز Chīnggīz)」はその複数形で、ペルシア語での「王者中の王者」( پادشاه پادشاهان pādshāh-i pādshāhān)と同じ意味であるとしている[42][43]。後代のクビライ家の後裔であるサガン・セチェンによるモンゴル語歴史書『蒙古源流』(1662年成立)には、「テムジンが二十八歳の甲寅の年(1194年)にでケルレン河のコデー・アラルでハーン(Qaγan)位に即いた時に、その日から三日目の朝にわたってテムジンのゲル (家屋)の前の石に止まった五色の瑞鳥が、「『チンギス、チンギス』とさえずったので、中央で唱える名、『スト・ボグダ・チンギス・ハーン(Sutu Boγda Činggis Qaγan)』として、各方面で有名になった」と記している[44]


また、『元朝秘史』には「海内(かいだい)の天子」という意味もあるとしている。ソ連時代のブリヤート・モンゴル人の学者ドルジ・バンザロフによると、「チンギス」はシャーマニズムにおける光の精霊の名前、Hajir Činggis Tenggeri に由来するとする説を唱えた。ペリオテュルク語での「海」(tengiz)を意味するとしている。[43]


現存資料に見られるチンギス・カンの系譜情報[編集]

この説で源義経と同一人物とされるチンギス・カンの生年に関してであるが、 現存資料での記述によっておのおの異なっているため1155年説、1162年、1167年説といった諸説あって、まだ厳密に確定し切れていない[45]。しかし、チンギス・カン自身の家系は諸資料ではっきりとした記載があり、チンギス・カンの曾祖父カブル・カンを始祖とするキヤト氏族の家系について、諸資料の間のおおよその親族情報は一致している[46]


昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、中央ユーラシア遊牧民は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、匈奴に於いては中核氏族である攣鞮氏単于位を、突厥においては阿史那氏可汗位および主要な地位を独占し、それ以外の氏族はこの地位につけなかったことが知られている[47][48]


祖先の系譜については、『元朝秘史』に取材した井上靖の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国や中央アジアイランモンゴル本土で存続したその後継諸政権においてチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされるアラン・コアとその息子ボドンチャルであった[49]。また、上でも述べたように、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『集史』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル=アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料もカブル・カンバルタン・バアトルイェスゲイ・バアトルテムジンチンギス・カン)という流れは共通して記録している。


チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため、実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。

義経不死伝説と「御曹子島渡」説話[編集]

治承・寿永の乱は、源平合戦であると同時に王朝国家に対する武士の組織立った抵抗ないし自立化の希求という側面を有し、この抵抗を通じて東国政権である鎌倉幕府が成立してゆく過程でもあった。その組織の頂点にあったのが征夷大将軍となった源頼朝であり、梶原景時はその良き補佐役、そして義経に付された軍監であった。ところが、義経は頼朝の名代であり、武士でありながら、頼朝の軍律には違反し、武士の抵抗の相手であった王朝国家の側に立ってしまった。

それに対し、庶民は、頼朝を権力者、景時を讒言者、義経を悲劇の英雄と理解した。このような理解のうえに、反権力という立場からの共感、讒言者への憎しみ、冷酷な兄に対する健気な弟に対する同情、あるいは「滅びの美学」とも呼ぶべき独特の美意識が加わって、「判官びいき」が生まれた。王朝国家の側に立つ畿内の文化人の多くが義経びいきだったことも、こうした風潮を後押ししたものと考えられる。

判官びいきは、早くも南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられる軍記物語義経記』にあらわれている。五味文彦(日本中世史)は鎌倉時代成立の『曽我物語』が御霊信仰の影響の強い作品であるのに対し、『義経記』にはそれが希薄であることを指摘している[50]

『義経記』は、幸若舞曲、御伽草子浮世草子歌舞伎人形浄瑠璃など、後世の多くの文芸演劇に影響を与え、今日の義経やその周辺の人間像は、この物語に準拠しているとされる。義経主従など登場人物の感情が生き生きと描かれ、人物の描写にすぐれているとされる。しかし、義経死後200年を経過してからの成立と考えられる[51]ため、『義経記』の作者は当事者たちの人柄を、直接的にも間接的にも知っていたとは考えられない。また、軍記物語の下地となりうる軍注記を利用したとも考えられていない。さらに、作中の行動のあちこちに矛盾が生じていることも指摘されており、歴史資料としてではなく物語として扱うのが妥当とされる。なお、『弁慶物語』の成立も応永から永享にかけての時期(1394年-1440年)と考えられている[52]。 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られたはずの義経であるが、藤原泰衡は、そのことを5月22日に報告し、義経の首は6月13日に鎌倉の頼朝のもとに届けられた。つまり、当時としても遅すぎる感があり、これは義経の本当の首ではないのではないかという憶測を生んだのであり、さらに義経は高舘では自刃していないという伝説を生んだ。これを義経不死伝説と呼んでいる。もとより、この経緯は『吾妻鏡』の記述によるものであり、当の『吾妻鏡』では義経が衣川で死んだと記述している。

後述するように、江戸時代には義経北行伝説が成立するが、その原型となった説話が室町時代の御伽草子にみられる。「御曹子島渡」説話とよばれる話がそれであり、これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵書があることを聞き、四国土佐の港[53]から出帆、神仏の加護を得て、半身半馬の人びとの住む「王せん島」、「裸人の島」、「女護の島」、「小さ子の住む島」、当時「渡島」と呼ばれていた「蝦夷が島」(北海道)を経て「千島」の喜見城にたどりつき、大王の娘と契るがその過程でさまざまな怪異を体験するという物語であった。「御曹子島渡」説話は、当時渡党など蝦夷地を舞台に活躍する集団の存在や予想以上に活発だった北方海域の交易の様相が広く中央にも知られるようになった事実を反映しているものと考えられる。

脚注[編集]

  1. ^ ジャン=ポール・ルー著、杉山正明監修「チンギス・カンとモンゴル帝国」p21,p37。より。なおチンギス・カン死後の相続は末子相続で有名である(林俊雄著「スキタイと匈奴」p63)。66歳で死んだという説と72歳で死んだというように各説がある(陳舜臣「中国の歴史(五)」p135)。幼いころに父を失い、若年期は敵の捕虜になっていたとされる。
  2. ^ 寛永10年(1633年)流布本と寛永12年(1635年)流布本が知られる。
  3. ^ 土井全二郎『義経伝説を作った男 義経ジンギスカン説を唱えた奇骨の人・小谷部全一郎伝』光人社、2005.10、ISBN 4769812760
  4. ^ 腰越状にある記述
  5. ^ 林羅山(道春)の子で林鳳岡の父。
  6. ^ 元禄年間の成立とも。著者は可足権僧正津軽土佐の守信義(津軽藩主)の11男にして京都養源院住職。義経は杉目太郎行信を身代わりにして難を逃れ、57名の従者とともに、津軽十三港に脱出し、藤原秀衡の実弟で十三を支配する入道秀栄をたより、鎌倉攻撃を船団を組んで目論むが、泰衡の遺臣由利広常南部崋山の兵に破れ、義経軍の鎌倉襲撃も失敗する。義経は蝦夷に漂着後、韃靼の金に渡った、という内容。(『奥州伝説と日本人』103頁)
  7. ^ 著者は加藤謙斎。『金史別本』を異国の文献と称して紹介している。加藤は『金史別本』の捏造者ではないかという見方もある。(『義経伝説と日本人』108項)
  8. ^ 加藤謙斎 1670*-1724江戸時代前期-中期の医師。寛文9年12月12日生まれ。臨節子に医学を,浅見絅斎(けいさい)に儒学を,さらに稲生若水(いのう-じゃくすい)に本草学を,笠原子に詩文をまなぶ。のち京都で開業。享保(きょうほう)9年1月7日死去。56歳。三河(愛知県)出身。名は忠実。字(あざな)は衛愚。別号に烏巣道人。著作に「病家示訓」など。(コトバンク)
  9. ^ 宮古市小山田に残るとされる「横山八幡宮記」は、寛政四(1792)年に、宮古代官所下役の豊間根保によって書かれたものである。
  10. ^ 宮家準著『羽黒修験 -その歴史と峰入』 岩田書院 (2000)
  11. ^ (紫檀は、マメ科の常緑広葉樹の総称で、ローズウッドパーロッサなどが「紫檀」として使用。主な産地はタイラオスベトナム
  12. ^ 奥州藤原氏の財力を示すものとして、寺塔四十余宇・禅房三百余宇からなる中尊寺(初代清衡の創建)、堂塔四十余宇、禅房五百余宇から構成される毛越寺(もうつうじ2代基衡による再建)、宇治平等院を模したと言う無量光院(3代・秀衡の創建)といった具合に歴代頭首が各々巨大な寺院を建立している。
  13. ^ 文治5年(1189)12月23日には、「工藤小次郎行光。由利中八維平。宮六兼仗國平等。發向奥州。件國又物忩之由。依告申之。可致防戰用意之故也。」 がある。 義経・義仲秀衡の子らが鎌倉に発向するとの風聞があり、深雪の期にもかかわらず、翌日には、工藤行光等を奥州に派遣したことが窺える
  14. ^ 文治6年(1190年)正月6日に、大河次郎兼任以下が去年の十二月以来、反逆を計画し、義経を名乗って出羽の国の余目町に現れ、七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発したと云う記事がある。
  15. ^ 蝦夷志。 新井白石(1657-1725)著 享保5年(1720)。日本最初の本格的な蝦夷地の地誌で、後の蝦夷地研究の先駆をなした。新井白石が松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した、体系的な蝦夷地誌(漢文)。この写本の巻末には十余枚の貴重な彩色アイヌ風俗画が付けられている。画家は不明であるが、実際にアイヌ人、彼らの生活を直接観察して描いたものである。図版の繊細度、色彩、殆ど完璧な保存状態であり、現存の写本の中では最高の質と考えられる。 序、蝦夷地図説、本文という構成で、本文はさらに蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太(からふと))、東北諸夷(千島列島)の3部からなっている。巻末には人物や武具などの図が綿密かつ色彩豊かに描かれており興味深い。なお、白石は前年にも『南島志』を著しており、蝦夷(北海道)、琉球(りゅうきゅう)(沖縄)を政論的な意味で日本の周辺地域として注目していたことがうかがえる。(Yahoo!百科事典)
  16. ^ コンラッド・マルテ・ブルン(1755年8月12日- 1826年12月14日) ブルーンコンラッド 、生まれデンマーク - フランス の地理学者 、ジャーナリスト。 次男は、 ビクターアドルフマルテブルン (地理学者)。インドシナは彼が名づけた。(ウィキペディア英語版から)
  17. ^ (Annales des voyages,de la geographine et de I'historie.第二四巻、1814年、パリ刊)
  18. ^ 『小シーボルト蝦夷見聞記』172頁
  19. ^ 『中国の旅行記』(ピエール・ベルジュロンPierre Bergeron:?~1637が記した原題『十二、十三、十四、十五世紀のアジア旅行記』1247年「宝治元」~1252年「建長五」からの抜粋と思われるローマ教皇インセント四世フランス国王ルイ九世の派遣された使節である修道士の旅行記)から引用し、中国の朝廷に定着していた風俗習慣は日本国のそれを非常に思い起こさせるもので、蒙古帝国建国されて初めてそうした風俗習慣が用いられるようになった、という。(『小シーボルト蝦夷見聞記』174頁)
  20. ^ (ムー2009年8月号 総力特集=義経ジンギスカンの復活と天皇の国師)(『シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響』1,2,3 岩崎克己)(『中外医事新報)1252~4、1938年)(『シーボルト日本』雄松堂書店版、第一巻、287頁から289頁)
  21. ^ 以上『義経伝説と日本人』159頁~163頁
  22. ^ 「現在でも」とあるのは小谷部生前の事で、実際には1924年の社会主義化により禁止される。その後、1989年の社会主義廃止により序々に復活している。しかしオボー祭は元々が国家ナーダム等と違って国家的行事では無く、地域単位の祭礼である
  23. ^ 国号については正しくは「」ではなく「大元」。制定はクビライによるものであり、その出典はクビライ自身が出した詔によって『易経』であると特定されている。『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条の詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とあり、『易経』巻一 乾 に「彖曰、哉乾」とある。
  24. ^ 小谷部はまた、ロシアウラジオストックから120キロメートルほどのところに、蘇城(スウチャン)という古城の遺跡があり、日本の武将が築いたという伝説が残っていることを記している。その武将は後に中国本土へ攻め入って、大王になったという。昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築いた。武将がここで「蘇生した」という逸話から、「蘇城」と命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自らは中国本土に攻め入って強大な王国を建てたという。ハンガン岬から東北に120キロメートル離れたところにあるこの「スウチャン」は中国語であり、沿海州1858年ネルチンスク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったため、ロシア領下でも中国語の地名が残っているという地元の伝承を紹介している。
  25. ^ 小谷部によれば、ニコラエフスクから100キロメートルの郊外に石碑があって、そこに現在は撤去されているが「義経」などの漢字と、明瞭な笹竜胆の紋所が刻まれてあったといい、「隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗のいわゆる義将軍の古碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり」と述べる(『成吉思汗ハ源義經也』)。
  26. ^ さらに小谷部は、大正14年(1925年)2月1日付の朝日新聞で、シベリア出兵当時、ニコラエフスクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であらわれたことを記している。わけを尋ねたところ、昔から伝わっているもので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったという。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと小谷部は説明している。
  27. ^ 笹竜胆の紋章は義経の属する清和源氏のものではなく村上源氏のものであるとする意見があるが、河内国石川郡発祥の石川氏は、源義家(清和源氏)の子・義時を祖とし、代々石川郡を本拠とした石川氏の家紋が、【石川竜胆】という紋である(羽継原合戦記)。笹竜胆は、村上源氏(六条・久世(くぜ)・岩倉・千種(ちぐさ)・梅渓(うめたに))以外に宇多源氏(綾小路)も使用している。また鎌倉市は笹竜胆を源氏の正紋とみとめ、鎌倉市の市章に使用している。鎌倉事典 白井詠二編 東京堂出版 平成4年1月10日発行 、図説鎌倉年表 鎌倉市 大塚功藝社 平成元年11月3日発行 、鎌倉広報第13号 鎌倉市 昭和27年11月3日発行
  28. ^ 笹竜胆の紋章のみならず、それまで日本にしかなかった長弓の使用、白旗の使用など、それまで蒙古の慣習になかったものが成吉思汗によりはじまり、旗印は九旒の白旗、紋章は笹竜胆など、すべて源義経の文物と一致しており、これこそ、成吉思汗が源義経にほかならない何よりの証拠であると、小谷部は結論づけている。
  29. ^ 「源義経の話」(『史学号欉説』)第二集、富山房、1909年
  30. ^ 『中央史壇』臨時増刊号『源義経は成吉思汗にあらず』大正13年
  31. ^ (『旅と伝説』所収昭和5年)
  32. ^ 『アイヌ文学』昭和8年』
  33. ^ 大町北造横田正二樋口忠次郎が共著者として協力した。
  34. ^ 新説!?日本ミステリー * 第7回 (2008年6月10日)- 義経は生きていた!? みちのく黄金帝国の逆襲…で、義経と一緒に蝦夷まで逃げた藤原忠衡の子孫が紹介された。
  35. ^ 元朝秘史』によると、テムジンが父イェスゲイの手によって、後に彼の第一皇后となるコンギラト部族のデイ・セチェンの娘ボルテの許嫁となって、デイ・セチェンのもとに里子に出されたのは9歳の時であったという。『元朝秘史』ではイェスゲイがタタル部族民によって毒殺されたのはテムジンを里子に出したその帰りの道中であったとしている。一方、『元朝秘史』よりも完成が1世紀程早い『集史』「チンギス・ハン紀」によると、イェスゲイが死去した時、テムジンは13歳であったとしている。
  36. ^ 例えば、1221年ムカリの宮廷を訪れた南宋孟珙撰『蒙韃備録』立國条には、「惟今韃主忒沒真者、其身魁偉而廣顙長髯、人物雄壯、所以異也。」とある。また、1260年ジューズジャーニーが著した『ナースィル史話(Ṭabaqāt-i Nāṣirī)』の第23章によるとホラーサーン侵攻時にチンギスは65歳であったが、「背が高く、力強く立派な体格で、顔には白くなった鬚を延ばし、極めて敏捷な猫の眼をしていた」と同様の特徴について述べられている。W.W. Bathold, "Chingiz-khān and the Mongols"Turkestan down to the Mongol invasion 3rd ed. (1st ed. London in 1928) with additional chapter...and with furthur addenda and corrigenda by C.E. Bosworth, London, 1968., p.459.
  37. ^ 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川選書、1992年、p.67
  38. ^ 岡田英弘「"モンゴル民族"を創ったチンギス・ハーン」『チンギス・ハーン 大モンゴル”蒼き狼”の覇業』(学研)P47
  39. ^ 例えば、「おそらく歴史上はじめて、たしかな人物とされるカイドゥ・カンの子孫をキヤトとよぶ。カイドゥはイェスゲイの五代まえの人である。(中略)(イェスゲイの)父もまた、バルタン・バアトルという。バルタン・バアトルは、カイドゥ・カンの嫡流カブル・カンの子ではあるものの、かれの兄弟には、まさしく、「カン」を名のるクトラ・カンがいる。つまり、バルタン・バアトル—イェスゲイ・バアトル—テムジンという血統は、名門の一員ではあるが、傍流といわざるをえない」「テムジンは、その血脈のうえからいえば、名門の末流といったていどの家柄に生まれたことになる。よくいわれるような、ばりばりの名流とはけっしていえない」と述べている。(杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川選書、1992年、p.66-67)
  40. ^ 「ハイドゥの曾孫がハブル・ハーンで、モンゴル部族の最初のハーン(カガン)となった。ハブル・ハーンの孫がイェスゲイで、イェスゲイの息子がテムジン・チンギス・ハーンである。」(岡田英弘『世界史の誕生 【モンゴルの発展と伝統】』ちくま文庫、1999年、p.208
  41. ^ 江上波夫『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』中公新書、1967年、p.92-94
  42. ^ 宇野伸浩「チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察」『人間環境学研究』7、2009年2月28日。
  43. ^ a b 村上正二訳注『モンゴル秘史』第1巻、254-255頁
  44. ^ サガン・セチェン著(岡田英弘訳注)『蒙古源流』刀水書房、2004年10月、80-81頁
  45. ^ 村上正二訳注『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』第1巻、(東洋文庫 163)平凡社、1970年、80-81頁。
  46. ^ 例えば、『元朝秘史』第1巻48段,50段に「(48段)…カブル・カハンの子供は七人であった。長兄はオキン・バルカク、〔次は〕バルタン・バアトル」「(50段)バルタン・バアトルの子供は、モンケドゥ・キヤン、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バアトル、ダリタイ・オッチギンの四人であった」とある(村上正二訳注『モンゴル秘史』第1巻、59頁)。また、同60段には「(60段)イェスゲイ・バアトルの〔妻〕ホエルン夫人からテムジン、カサル、カチウン、テムゲ、これら四人の子供が生まれた。(中略)テムジンが九歳になった時、ジョチ・カサルは七歳であった。カチウン・エルチは五歳であった。テムゲ・オッチギンは三歳であった(同78頁)」とある。また『集史』チンギス・ハン紀の第一部冒頭にも、「チンギズ・ハンの父はイェスゲイ・バハードゥルであり(pidar-i Chīnggīz Khān Yīsūgāī Bahādur)、(中略)チンギズ・ハンの祖父はバルタン・バハードゥルであり(Jadd-i Chīnggīz Khān Bartān Bahādur)、(中略)チンギズ・ハンの曾祖父はカブル・ハンであり(pidar-i suwum Qabul Khān)…」とある。(Jāmi` al-Tawārīkh, ed. Rawshan&Mūsavī, Tehran, vol. 1., 1994, p.292.)
  47. ^ 「(匈奴の)単于は、攣鞮(れんてい)という名の特定の家系からのみ選出された。一方、単于の后妃も特定の家系に限られていたが、こちらは呼衍(こえん)、蘭(らん)、須卜(すぼく)(後に丘林(きゅうりん)が加わる)という複数の姻戚民族があった。」(林俊雄「古代騎馬遊牧民の活動」『アジアの歴史と文化 7【北アジア史】』(若松寛責任編集)同朋舎、東京角川書店、1999年4月、22頁。
  48. ^ 「「突厥」正統の可汗ははすべて阿史那一門のものによって独占されており、また逆に、阿史那姓をもつものは、明らかにしうるかぎりは全部可汗の支裔であって、さきにあげた(A:遊牧国家「突厥」とは、阿史那氏の出身者を支配者、可汗とする国家であった。逆にいうなら、「突厥」の支配者である可汗の位に即くものは、阿史那一門のものに限られていた)の一般的事実、たてまえは、少なくとも「突厥」国家の存続中は、現実において完全に貫徹されていた。つまり、このような可汗位の相続における血統的制限の伝統は、「第一帝国」・「第二帝国」を通じて、「突厥」にあって根強くまもられていたのであり、この阿史那政権の没落は、そのまま「突厥」国家の瓦解にほかならなかったのである。そうだとすると、「突厥」の国家は、これ以前の「匈奴」の攣鞮(虚連題)氏について、またこれ以後の「廻紇(Uiγur)」の薬羅葛(Yaγlaqar)氏や「イェヘ-モンゴル-ウルス(Yeke Mongγol Ulus)」の Altan Uruγ について、それぞれ指摘されているように、一氏族阿史那氏の「家産」という性格をもっていたといえる。」(護雅夫「突厥第一帝国におけるqaγan号の研究」『古代トルコ民族史研究 I』山川出版社、1967年3月、233頁。)
  49. ^ 山口修「キヤンとボルヂギン:元朝秘史覺書その一」『東洋文化研究所紀要』第2冊、1951年9月。
  50. ^ 五味は、それを根拠に『義経記』の鎌倉時代成立説に疑義を呈し、鎌倉幕府治下において義経の活躍を描くにはいたらなかったであろうと推測している。また、南北朝時代にはいって、室町幕府創業に大きく寄与したのが足利尊氏直義の兄弟であったことから、頼朝・義経兄弟の活動に目が向けられたのではないか、としている。五味(2004)
  51. ^ 南北朝期成立の『太平記』巻二十九「将軍上洛事」に『義経記』にみえる若い時期の義経の活動が記されていることから、『義経記』成立はそれと前後する時期と考えられる。五味(2004)
  52. ^ 五味(2004)
  53. ^ 関は、室町期に繁栄した十三湊が反映された名前としている。関幸彦(1998)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

この説の肯定者[編集]

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