総合選抜

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総合選抜(そうごうせんばつ)とは、主に日本の中等教育レベルの公立学校で実施されていた入学試験方式の一つで、学校間格差の解消を目的として、居住地や学力などによって合格者を学区内の各校に平均的に振り分ける制度。総選(そうせん)とも略される。最盛期には10都府県を上回る地域で採用されていたが、問題が指摘され全ての地区で廃止された。

戦後に京都府知事だった蜷川虎三によって導入された。

  • 総合選抜自体を「学校群制度」や「合同選抜」という名称を使用している地域もあり、制度の詳細は自治体学区によって微妙に異なる場合が多い。
    • 一般的に総合選抜は「学校群制度」と同様に、小学区制度下かそれに近い形式で行われているのが通例であるが、学校群制度よりもさらに徹底した形で学校間の選択肢を減らし、代わりに全入を促進する入試形態をとるものである。
    • 合同選抜」は受験生が希望校を指定しその希望を一定程度考慮しつつ合格者を各校に振り分ける制度であり、総合選抜は、受験生による希望校の指定なしで合格者を各校に振り分ける制度である。
    • 学校単位で選抜を行う一般的な方式は総合選抜との対比で、「単独選抜」と呼ばれる。
  • 総合選抜は受験競争の緩和や高校間の格差・序列化の是正などを目的に制度化された。多くの場合、総合選抜は公立で普通科の高校のみを対象に実施され、特に受験人口の多かった第2次ベビーブーム世代の高校受験期においては、対象となった高校間での受験競争や序列化の緩和に大きく貢献した。しかし当初から高校を自由に選べないといった反対の声が多く挙がっていた。また、公立高校を避けて私立高校国立高校などに流れる受験生が増加したため、一部の私立高校が難関化する一方で多くの地域で公立高校の難易度が低下進学実績が低下していった。

選抜方式[編集]

  • 総合選抜は学区内の高校間の学力格差を無くす(縮める)ことを目的としており、一般的に学力均等方式または居住地優先方式のいずれかの方式で実施される。
  • 通常、総合選抜が実施される地域では小規模な学区割りが行われている。
学力均等方式
学区内の複数の高校を一つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、総合成績順位に基づいて受験生を男女別に複数の成績群に階層化し、各高校の合格者の成績分布が均等になるように各階層ごとに合格者をそれぞれの高校に振り分けて調整する。
居住地優先方式
学区内の複数の高校を一つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、各高校の周辺地域を固定区とし、隣接地域を調整区として、固定区で合格点に達した者はそれぞれの地域の高校に、調整区で合格点に達した者は居住地を勘案して隣接のいずれかの高校に振り分けて調整する。
成績優先方式(オプション)
学区内の複数の高校を一つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、調査書および学力試験の成績の良い合格者から順番に希望校への入学を許可する。この方式は居住地優先方式のオプションとして一部の成績上位者にのみ適用される場合がある。

メリットとデメリット[編集]

総合選抜は制度上のメリットとデメリットがはっきりしている。とはいえ、その受け止め方は生徒個人の意識、学力、または進路などによって大きく異なり、各地で議論の対象にはなるものの、何らかの妥協点に至るケースはまれである。

メリット[編集]

一定水準以上の成績を確保するという大前提はあるものの、ほぼ確実に地元の公立高校に進学できるため高校入試に当たっての学習上の負担が少ない。そのため、比較的ゆとりのある中学生活を送ることができる。都市部においても公立高校を第一志望とする受験生の半数程度はすべり止め校を受験しておらず単独選抜学区と比較して高校入試に対する負担感は相当少ないといえる。

特に受験人口の多かった第2次ベビーブーム世代の高校受験期には受験競争の緩和、高校進学率の維持、中卒浪人の発生防止という点では効果があったのは確かである。

学区そのものが小規模であったり居住地優先で進学高校が決められたりしている場合には自宅から至近の高校に通う生徒が多い。そのため、必然的に徒歩や自転車での通学が大半となるので通学時間が短くなるとともに電車やバスの交通費の負担も小さくなる。また、学区内の高校間の学力差が少ないためいわゆる序列がほとんど存在しない。

デメリット[編集]

一般的には選択可能な公立高校が非常に少ない。定員・通学所要時間などの事情が重なると本来の志望校への進学を希望することが事実上不可能な場合もある。学区内の高校間の学力差は少ないが一つの高校内における生徒間の学力差が非常に大きいため落ちこぼれ浮きこぼれの生徒が単独選抜の高校よりも多く発生する。また、総合選抜は高校入試の負担が少ない分だけ学力の低下を招き、生徒間の競争が低レベル化していく傾向がある。

総合選抜は特定の高校を受験するのではなく、学区単位で一括してまず合格者を決め、その後に受験者の希望、成績、および居住地・交通事情等を考慮して各高校に配分するため、どこの高校に入学を許可されるかは発表されるまで分からない。総合選抜が行われている地域の場合、テレビニュースなどで見られる合格発表の一覧表を前に生徒が泣いている光景の中では、全員が喜びの涙で号泣しているとは限らず、その中には合格こそしたものの自身が希望しない高校への配分対象とされたため悔しさや悲しみからくる感情から泣いている生徒も少なからず含まれている[1]

さらに、都市部や都市近郊では学力の高い生徒や進学意識の高い生徒が総合選抜を忌避して国立・私立の進学校、高等専門学校(高専)などに進学するケースが多い。同様にスポーツ・芸術などに秀でた生徒であっても総合選抜では優秀な指導者がいる高校・良質な練習環境を持つ高校に進学できるとは限らない。その結果、優秀な指導者や練習環境を求めて私立校に進学するケースが多くなる。逆に公立高校に進学したとしても地域に分散されてしまう上、優秀な生徒が優秀な指導者に出会えるとは限らない。このため、結局は競技活動・芸術活動などにおいても伸び悩みの傾向となり、伝統校と呼ばれていた学校であっても総合選抜校となった公立高校からのスポーツ・芸術の各種目の全国大会やコンクールへの出場実績は凋落傾向となる。

また、自宅から近い場所に学校があるにもかかわらず遠方の学校に合格することがあり、特に面積的に広大な学区において実施されている場合には通学の負担が大きくなる。

各地の状況(現在は全て廃止)[編集]

総合選抜の開始年と廃止年
都道府県名 開始年 廃止年(前年まで実施) 備考
山梨県 1968年 2007年
京都府 1950年 2013年
兵庫県 1953年 2010年
岡山県 1950年 1999年
広島県 1956年 1998年
徳島県 1972年 2003年
長崎県 1950年 2003年
大分県 1951年 1995年
宮崎県 1963年 2003年
東京都 1967年 1982年 学校群制度[2]
千葉県 1975年 1980年 学校群制度
愛知県 1973年 1989年 学校群制度
岐阜県 1974年 1983年 学校群制度
三重県 1974年 1995年 学校群制度
福井県 1980年 2004年 学校群制度

山梨県[編集]

導入の経緯
総合選抜を実施していた学区
甲府総合選抜(甲府学区)
  • 1968年(昭和43年)- 2校で総合選抜を開始。
  1. 甲府第一高等学校
  2. 甲府南高等学校
  3. 甲府西高等学校1975年(昭和50年)から参加。1997年(平成9年)単位制導入で離脱。)
  4. 甲府東高等学校(創設に伴い、1977年(昭和52年)から参加。)
  5. 甲府昭和高等学校(創設に伴い、1984年(昭和59年)から参加。)
吉田総合選抜(吉田学区)
  • 1977年(昭和52年)- 2校で総合選抜を開始。
  1. 吉田高等学校(既存校)
  2. 富士河口湖高等学校(創立に伴い、総合選抜が開始)
小笠原総合選抜(小笠原学区)
  • 1984年(昭和59年)- 2校で総合選抜を開始。
  1. 巨摩高等学校(既存校)
  2. 白根高等学校(創立に伴い、総合選抜が開始)
東山梨総合選抜(東山梨学区)
  • 1989年(平成元年)- 3校で総合選抜を開始。
  1. 日川高等学校(既存校。1999年(平成11年)単位制導入で離脱。)
  2. 山梨高等学校(既存校)
  3. 塩山高等学校(塩山商業高等学校が総合制に改編されたことに伴い、総合選抜が開始)
総合選抜を実施しなかった学区
大月学区(2001年消滅)
区内の普通高校は都留高等学校1校のみであったが、都留高等学校が単位制導入により対象外となったため区内に該当する高等学校がなくなり消滅。
上野原学区
区内の普通高校は上野原高等学校1校のみ。
都留学区
区内の普通高校は桂高等学校1校のみ。なお、都留高等学校は名前こそ都留であるが大月市にあったため大月学区となる。
石和学区
区内の普通高校は石和高等学校(現・笛吹高等学校)1校のみ。
韮崎学区
区内の普通高校は韮崎高等学校1校のみ。
日野春学区
区内の普通高校は北杜高等学校(2000年までは峡北高等学校)1校のみ。
市川学区
区内の普通高校は市川高等学校1校のみ。
身延学区
区内の普通高校は身延高等学校1校のみ。
廃止の経緯

1980年代までは新設校の設置など総合選抜制度は増加傾向であったが、1990年代より様々な状況の変化により総合選抜および学区制度の意義が次第に薄れていった。

  • 過疎化少子化の影響により特に山間部の学区で定員割れとなる学校が相次ぐようになった。
  • 隣接都県では山梨ほどの学区拘束がなく、通学が可能な地域では越境入学する事象が相次ぎ、その煽りを受け当該学区の教育レベルが低下する現状が発生するようになった(南部町 (山梨県)#越県通学を参照)。
  • 普通科のみであった学校が学区対象外の総合学科や専門教育学科を導入し、また学年制から学区縛りのない単位制に切り替える学校も現れるようになった。これにより総合選抜から離脱する学校や学区が廃止された地域もある。
  • 専門教育学科はハイレベルな教育を受けられることから人気が高かった一方で定員が普通課程より少なく、合格するには必要以上のレベルを要求されたため、総合選抜の主旨である「受験戦争の抑制」は有名無実化していった。
  • 学区の指定を受けていない地域は隣接する学区の対象校に入学を希望すれば制限を受けることがなく、総合選抜や学区内拘束により自由に選択できない地域とで不平等な状態が発生した。

以上の経緯を踏まえ2000年代に入ると見直しが検討され始め、結果2007年(平成19年)に小学区および総合選抜制度は廃止され、県内在住であれば基本的にどの県立高等学校へも行くことができる全県一学区に改められた。

京都府[編集]

  • 総合選抜発祥の地として長年制度が堅持されていた上、最後まで総合選抜が導入されていた都道府県でもある。
  • 公立高校普通科の選抜において、京都市乙訓地区(向日市長岡京市大山崎町)からなる京都市地域2通学圏(北・南)で実施。(2009年(平成21年)度選抜から従来の4通学圏(北・南・東・西)を2通学圏に変更)
  • 報告書と学力検査の成績を基に合否が決定され、志願者の住所から最寄りの交通アクセスに基づき入学校が決定された。
  • 普通科には第I・II・III類があり、第I類の選抜において総合選抜が実施されていた。
  • 2013年(平成25年)度入試をもって、上記の類型とともに廃止された。

兵庫県[編集]

16の学区があり、そのうちの5つの学区(尼崎西宮宝塚伊丹明石)が総合選抜を実施していた。各学区の振り分け方式は次の通りである。

尼崎、西宮、宝塚学区(居住地優先方式+成績優先方式)
  • 各高等学校の募集定員のうち
  • 10% - 成績を優先
  • 90% - 住居を優先
(交通事情・特殊事情等を勘案)
総合選抜導入の理念と経緯(西宮学区)
  • 1952年(昭和27年)- 区内に公立高等学校が1校しかない小学区制から、複数の学校を選択できる中学区制に変更。
  • この当時、子供数の急増にもかかわらず、私立高等学校への流出で公立高等学校は入学率低下に直面し、公立高等学校のあり方が大きく問われていた。また中学校では生徒指導上の問題が多発し、教師はその対策に奔走しながら、補習授業や習熟度別授業で、厳しい進路実現に対応しなければならなかった。高校間格差の拡大、それに伴う受験競争の激化、児童・生徒の苦悩等の解決をどのように図るかが日々論ぜられた。高等学校の新設、学級増などへの働きかけと併行して、中学校教育の正常な運営、小学校の私学偏重体質の改善等のためには高校間格差をなくし、地元の高等学校を育て、小中高一貫教育を目指す「総合選抜」の実施に踏み切るべきだとの機運が高まっていった。
  • 1953年(昭和28年)- 西宮学区で総合選抜が開始。
  • その後、志望優先率の変更等もあったが、県立・市立を問わず、地域の学校育成の見地から、保護者の理解と協力の中で、総合選抜が維持されてきたとされている[4]。しかし実際には実質的に飛び地となる北部には高校が存在せず、北部の生徒は一度宝塚市を通って中部の高校へ、中部の生徒は南部の高校に通わざるを得なくなるなど弊害も大きかった。このため、住居を優先とはいいつつも、近所の高校に通うことは至難の業となり、家の目の前の高校に通うために選抜試験で上位の成績を取る必要があるなど本末転倒の状況に陥っており、私学への生徒の流出は著しかった。
廃止
  • 尼崎学区 - 2008年(平成20年)度入試から廃止。
  • 西宮学区 - 2009年(平成21年)度入試から廃止。
  • 宝塚学区 - 2010年(平成22年)度入試から廃止。
伊丹学区(居住地優先方式+成績優先方式)
  • 各高等学校の募集定員のうち
  • 35% - 志望を優先
  • 65% - 住居を優先
(交通事情・特殊事情等を勘案)
沿革
  • 1951年(昭和26年)まで - 1校1学区(小学区制)の単独選抜が実施。
  • 1952年(昭和27年)- 中学区制(伊丹学区)となる。
  • 1953年(昭和28年)-「住居を重視し、志望を考慮する」(志望優先率3分の1)という2校による総合選抜が実施。
  • 1960年(昭和35年)- 単独選抜に変更。
  • 中学校の成績上位者の多くが一方の高校を受検したため、いわゆる「回し合格」となった生徒の指導が困難との声が上がり、県教育委員会に単独選抜への要請がなされたため。
  • 1971年(昭和46年)- 再び総合選抜を開始。(志望優先率70%)
  • 再開の背景
  • 伊丹学区では進学率の上昇と中学校卒業者数の増加が見込まれたため、県立高校が新設により、比較的短期間で増加した[5]。こうした状況の中で、受験競争の激化による受験学力の偏重や偏差値教育による詰め込み教育、学習塾通い等から引き起こされる中学校教育の様々な問題への対応、高校間格差の是正などが課題となり、兵庫県教育委員会は「総合選抜は可能な地域(学区)から漸次実施する」という基本方針に沿って、総合選抜を行うことを決定。
  • ねらい
  • 調査書を主資料に合否を判定することと、総合選抜では「中学校できちんと勉強していれば公立高校に行くことができる」ということにより、過度な受験競争の緩和とともに既存校と新設校との格差を是正。
  • 1972年(昭和47年)- 志望優先率を60%とする。
  • 1973年(昭和48年)- 志望優先率を50%とする。
  • 1975年(昭和50年)- 志望優先率を40%とする。
  • 1986年(昭和61年)- 5教科の学力検査の成績と調査書の学習評定を同等に扱うことになった。
  • 2000年(平成12年)- 志望優先率を35%とする。(伊丹北高等学校が総合学科に改編)
  • 2009年(平成21年)- この時の入試から廃止。
明石学区(学力均等方式)
配分方法
  1. 学区内にある6つの高等学校(普通科)の受検者について、成績の上位の者から順に総募集定員を満たす者を選別する。
  2. 上記の合格者は19の群(グループ)に分類される。これらの群はそれぞれほぼ成績の等しい者をもって構成される。
  3. 一つの成績群の中で志望者の数がそれぞれの高等学校に配分される定員に等しいか、あるいは定員に満たない場合にはそのまま志望する高等学校の合格者となる。
  4. 一つの成績群の中で志望者の数がそれぞれの高等学校に配分される定員を超える場合には各中学校からの当該高等学校のその成績群内における志望者数・交通事情等を勘案して合格校が決定される。
  5. 上記4で志望が認められなかった者については交通事情等を勘案して合格校が決定される。
  • 上記のような方法で19の各群が6つの高校に均等に配分される。
沿革
  • 1975年(昭和50年)- 総合選抜が開始。明石・加印学区の一部(明石市)で総合選抜が開始。
  • 1990年(平成2年)- 明石学区が単独学区として正式に分離。
  • 当初は現在の明石学区から明石・加印学区内のどの高校にも進学できることになっていたが、制度開始後すぐに明石市内の生徒はすべて明石市内の公立高校へ進学するように進路指導が強化されたため、実質的に明石市が単独の学区として扱われた。
  • 当時は地元集中運動のような非公式な活動が自治体の教育委員会や教職員組合などの主導の下で全国的に行われており、競争を緩和するための全体的な取り組みが公式・非公式を問わず正当化されていた。
  • 2008年(平成20年)度入試から廃止[6]
  • 総合選抜導入前は進学校だった高校も総合選抜導入によって大学進学実績が大幅に下がり、浪人しても地元の大学すら行けない等の問題となっていた。総合選抜廃止後は地域の協力もあって徐々に大学進学実績が回復しつつある。

岡山県[編集]

岡山学区(岡山市
  • 1950年(昭和25年)- 2校の間で総合選抜が開始。
  1. 岡山朝日高等学校
  2. 岡山操山高等学校
  3. 岡山大安寺高等学校(創設に伴い、1962年(昭和37年)から参加。)
  4. 岡山芳泉高等学校(創設に伴い、1974年(昭和49年)から参加。)
  5. 岡山一宮高等学校(創設に伴い、1980年(昭和55年)から参加。)
  • 1999年(平成11年)- この時の入試から総合選抜廃止。
倉敷学区(倉敷市
  • 1962年(昭和37年)- 2校の間で総合選抜が開始。
  1. 倉敷青陵高等学校
  2. 倉敷天城高等学校
  3. 倉敷南高等学校(創設に伴い、1974年(昭和49年)から参加。)
  4. 倉敷古城池高等学校(創設に伴い、1980年(昭和55年)から参加。)
  • 1999年(平成11年)- この時の入試から総合選抜廃止。

広島県[編集]

他県に比べ古くから実施していたが、変則的であった。

  • 1956年(昭和31年)- 旧広島市内の普通科高校5校(「市内五校」)で総合選抜を開始。
  • 実質的に小学区[7]制(47学区制)から大学区[8]制(4学区制)に移行したため、市内五校は県内広範囲から受験者を集めることができ、目立った学力低下は見られなかった。
  • 1962年(昭和37年)- 正式に小学区制から、大学区制(4学区制)に移行。
  • 大学区制(4学区制)
高校数などは1962年発足当時。高校数には分校を含まない。( )は普通科高校の数。
  • 西部学区(14校)
総合選抜実施校(5校、通称「市内五校」)※他9校は単独選抜
  1. 広島国泰寺高等学校
  2. 広島観音高等学校
  3. 広島皆実高等学校
  4. 基町高等学校
  5. 舟入高等学校
  • 南部学区(7校)- すべて単独選抜
  • 東部学区(16校)- 同上
  • 北部学区(9校)- 同上
  • 1976年(昭和51年)- 大学区制(4学区制)から中学区制(14学区制)に移行し、県内6地区で新たに総合選抜を実施。
  • 目的 - 大学区制による下宿生の増大などの問題を解決するため。
  • 内容
  • 結果
  • 中学区制移行に伴い、広島地区と三次地区では学区内に総合選抜高以外に公立普通科高がなくなり、実質小学区制[9]となった。移行措置として、各校とも定員の10%(第4学区「市内五校」は20%)は他学区の生徒を受け入ることが可能であった。しかし、その措置も1981年(昭和56年)からは全校とも定員の3%に縮小、1998年(平成10年)に5%に再拡大するも、進学実績が徐々に振るわなくなっていった。
  • 特に、県北部の進学校である三次地区の三次高等学校は実質小学区制になった上に、総合選抜相手校の日彰館高等学校が地理的に冬季は下宿を必要とする可能性があったことや、福山地区では総合選抜各校間の距離が遠いこともあり、さらに進学実績も振るわないようになっていく。
  • 14学区制
高校数などは1976年発足当時のもの。高校数には分校を含まない。ただし学区外から定員の3〜20%を限度に受け入れを行っていた。
廿日市地区総合選抜実施校(2校)※他2校は単独選抜。
  1. 廿日市高等学校
  2. 五日市高等学校
  • 第3学区(安芸郡・広島市安佐南区、安佐北区、安芸区等)(5校)- すべて単独選抜。
  • 第4学区(広島市中区、東区、南区、西区)(5校)
広島地区総合選抜実施校(5校(市内五校)、1978年(昭和53年)に1校追加で6校(市内六校))
  1. 広島国泰寺高等学校
  2. 広島観音高等学校
  3. 広島皆実高等学校
  4. 基町高等学校
  5. 舟入高等学校
  6. 広島井口高等学校(新設に伴い、1978年(昭和53年)に参加。)
呉地区総合選抜実施校(3校)※他5校は単独選抜。
  1. 呉三津田高等学校
  2. 呉宮原高等学校
  3. 広高等学校
三原地区総合選抜実施校(2校)
  1. 三原高等学校
  2. 三原東高等学校
尾道地区総合選抜実施校(2校)
  1. 尾道北高等学校
  2. 尾道東高等学校
  • 他4校は単独選抜。
福山地区総合選抜実施校(5校)※他2校は単独選抜。
  1. 福山誠之館高等学校
  2. 福山葦陽高等学校
  3. 松永高等学校
  4. 大門高等学校
  5. 福山高等学校(福山市立)
三次地区総合選抜実施校(2校)
  1. 三次高等学校
  2. 日彰館高等学校
  • 1988年(昭和63年)- 福山地区(旧第9学区)において、総合選抜5校を6校とし、東西の学校群(グループ・各3校)に分割。
既存の福山明王台高校の総合選抜加入によるもの。
  • 東部グループ(3校)
  1. 福山誠之館高等学校
  2. 大門高等学校
  3. 福山明王台高校
  • 西部グループ(3校)
  1. 福山葦陽高等学校
  2. 松永高等学校
  3. 福山高等学校(福山市立)
  • 1991年(平成3年)-「広島市内六校」を東西の学校群(グループ)に分割。
  • 東部グループ(3校)
  1. 広島国泰寺高等学校
  2. 広島皆実高等学校
  3. 市立基町高等学校
  • 西部グループ(3校)
  1. 広島観音高等学校
  2. 広島井口高等学校
  3. 市立舟入高等学校
  • 三次地区(旧第13学区)廃止。単独選抜へ移行。
  • 1998年(平成10年)- 全地区で総合選抜制度が廃止され、各校毎の単独選抜制度となる。
  • 14学区制から15学区制へ移行(第3学区を2地区に分割(安芸・安佐))。
  • 2003年(平成15年)- 中学区制(15学区制)から中学区制(6学区制)に移行。学区外定員を今までの5%から30%に拡大。
  • 2006年(平成18年)- 学区制を廃止。大学区制(全県1学区制)に移行。

徳島県[編集]

  • 1972年(昭和47年)- 徳島市において、理数科・普通科高校4校による総合選抜制度が開始。
総合選抜六校(県立5校、市立1校)
  1. 城東高等学校
  2. 城南高等学校
  3. 城北高等学校
  4. 城ノ内高等学校(創設に伴い、1980年(昭和55年)から参加)
  5. 徳島北高等学校(創設に伴い、1997年(平成9年)から参加)
  6. 徳島市立高等学校
  • 2003年(平成15年)入試から廃止。

長崎県[編集]

県内三地区(3市1郡)の普通科高校入試において総合選抜が実施されていたが、いずれも2003年(平成15年)度からの長崎県による県立高校改革の一環として前年(2002年(平成14年))限りで廃止された。

長崎五校
  1. 長崎県立長崎東高等学校長崎市
  2. 長崎県立長崎西高等学校(同上)
  3. 長崎県立長崎南高等学校(同上)
  4. 長崎県立長崎北高等学校(同上)
  5. 長崎県立長崎北陽台高等学校西彼杵郡長与町
諫早二校
  1. 長崎県立諫早高等学校諫早市
  2. 長崎県立西陵高等学校(同上)
佐世保三校
  1. 長崎県立佐世保北高等学校佐世保市
  2. 長崎県立佐世保南高等学校(同上)
  3. 長崎県立佐世保西高等学校(同上)
長崎県の総合選抜試験の歴史[10]
  • 1948年昭和23年)11月 - 長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校、長崎県立諫早高等学校が開校。
  • 1949年(昭和24年)2月 - 長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校が開校。
  • 1950年(昭和25年)3月 - 教員、財産、生徒に格差を生じさせないことを理由に、長崎東高と長崎西高の間で総合選抜試験を開始(長崎二校)。
  • 1958年(昭和33年)3月 - 各校独自の方法で生徒募集をしたいという要望から、長崎東高と長崎西高の総合選抜制を一旦廃止
  • 1961年(昭和36年)
  • 3月 - 長崎県立長崎南高等学校設立にあたり、長崎三校での総合選抜制度が復活。(長崎三校)
  • 4月1日 - 長崎県立長崎南高等学校が開校。
  • 1964年(昭和39年)4月1日 - 長崎県立長崎北高等学校が開校。(長崎四校)
  • 1972年(昭和47年)
  • 3月 - 佐世保市立西高等学校の県立移管に伴い、各校の学力の均衡を保つことを目的として、佐世保三校での総合選抜試験が開始
  • 4月1日 - 移管により、佐世保市立西高等学校が長崎県立佐世保西高等学校と改称。
  • 1979年(昭和54年)4月1日 - 長崎県立長崎北陽台高等学校が開校。(長崎五校)
  • 1986年(昭和61年)
  • 3月 - 長崎県立西陵高等学校の新設に伴い、諫早高校と西陵高校の諫早二校総合選抜が開始
  • 4月 - 長崎県立西陵高等学校が開校。
  • 1995年(平成7年)- 総合選抜制度の一部が改変。
  • 各校に文科系、理科系のコースを1学級ずつ設置し、そのコースに生徒が直接出願できるようになる。また推薦入試を導入。
  • 2002年平成14年)3月 - この時の入試をもって、総合選抜試験を廃止。最後の総合選抜試験となる。
  • 2003年(平成15年)2月~3月 - 総合選抜試験の廃止に伴い、各校とも単独選抜試験を開始。一般入試に面接試験を導入。

大分県[編集]

大分市別府市中津市合同選抜、総合選抜が実施されていたが1995年(平成7年)までにすべて廃止された。

大分県における合同選抜、総合選抜の違い
  • 合同選抜制度 - 受験生が希望校を指定し、その希望を一定程度考慮しつつ合格者を各校に振り分ける制度。
  • 総合選抜制度 - 受験生による希望校の指定なしで合格者を各校に振り分ける制度。
大分市
  • 1951年(昭和26年)- 大分舞鶴高校の新設に伴い、二校合同選抜を開始。
  1. 大分上野丘高等学校(開始当初は大分第一高等学校)
  2. 大分舞鶴高等学校
  • 1961年(昭和36年)- 合同選抜を廃止。
  • 1973年(昭和48年)- 大分雄城台高校の新設に伴い、合同選抜を再開。
  1. 大分上野丘高等学校
  2. 大分舞鶴高等学校
  3. 大分雄城台高等学校
  4. 大分南高等学校(新設に伴い、1983年(昭和58年)から参加)
  • 1985年(昭和60年)- 大分豊府高校の新設に伴い、既存校の大分鶴崎高校、大分東高校を加え、四校・三校の2グループの合同選抜に再編。
四校グループ
  1. 大分上野丘高等学校
  2. 大分舞鶴高等学校
  3. 大分鶴崎高等学校
  4. 大分東高等学校
三校グループ
  1. 大分雄城台高等学校
  2. 大分南高等学校
  3. 大分豊府高等学校
  • 四校グループでは県下屈指の進学校である大分上野丘、大分舞鶴に希望が集中して希望校に入学できないケースが多数生じたこと、および、同一グループ内に距離の離れた学校が含まれ、通学の負担が大きくなる場合があったこと等から合同選抜制度への批判が高まり複数の民事訴訟が起きた。
  • 1990年(平成2年)- 二校・二校・三校の3グループの合同選抜に再編。
二校グループ
  1. 大分上野丘高等学校
  2. 大分舞鶴高等学校
二校グループ
  1. 大分鶴崎高等学校
  2. 大分東高等学校
三校グループ
  1. 大分雄城台高等学校
  2. 大分南高等学校
  3. 大分豊府高等学校
  • 1995年(平成7年)- 合同選抜を廃止。
別府市
  • 1979年(昭和54年)- 別府鶴見丘高校と別府青山高校の二校で総合選抜が開始。
  1. 別府鶴見丘高等学校
  2. 別府青山高等学校
  3. 別府羽室台高等学校(新設に伴い、1983年(昭和58年)から参加)
  • 1995年(平成7年)- 合同選抜を廃止。
中津市
  • 1951年(昭和26年)- 中津西高校の中津北高校および中津南高校への分割に伴い、二校での合同選抜を開始。
  1. 中津北高等学校
  2. 中津南高等学校
  • 1961年(昭和36年)- 合同選抜を廃止。

宮崎県[編集]

  • 以下の3つの通学区域において、「宮崎市都城市延岡市における高等学校入学者選抜に関する特別措置」(通称・合同選抜)が行われていた。「合同選抜」とは呼ばれるものの、実質は小学区制に近いものである。居住地により通学する高校が決められており、その境界に位置する中学校の校区は調整区域とされ、定員に応じて2校あるいは3校に振り分けられた。(普通科系専門学科・コースは合同選抜に含まれず全県学区である。)
  • しかし、出願・受験・合格とも各校単独で行うため、例えば大規模なニュータウンの開発などといった各高校の後背地における状況変化によって、高校間で難易度差や学力差が発生し、必ずしも均等とはならなかった。2000年(平成12年)には普通科系専門学科・コースと普通科の併願が可能となり、また、推薦枠を各校が10%~50%の範囲で設定可能となるなど規制が次第に緩和され、3通学区域とも2003年(平成15年)に合同選抜は廃止された。さらに2008年(平成20年)からは通学区域は全県となり、事実上学区制は廃止された。各校は優秀層を少しでも多く取り込むため、普通科系専門学科や1年次からの選抜クラスの設置などを行っている。
下記の市町村名は合同選抜廃止の2003年(平成15年)当時
宮崎市宮崎郡東諸県郡
  • 1963年(昭和38年)- 2校で合同選抜を開始。
  1. 宮崎大宮高等学校
  2. 宮崎南高等学校
  3. 宮崎西高等学校(新設に伴い、1974年(昭和49年)から参加)
  4. 宮崎北高等学校(新設に伴い、1984年(昭和59年)から参加)
  • 佐土原町は妻高等学校の通学区域でもある。宮崎北高校の開校以降は宮崎大宮高校の至近に居住する生徒が遠くの宮崎北高校へ通うという現象が起きた。
  • 1980年(昭和55年)から、毎年5月に上記合同選抜校の野球部による「定期戦」(1984年(昭和59年)度までは「三校定期戦」、それ以降は「四校定期戦」)が開催されている。
延岡市北川町北方町北浦町北郷村日之影町
  • 1963年(昭和38年)- 2校で合同選抜を開始。
  1. 延岡高等学校
  2. 延岡西高等学校
  3. 延岡東高等学校(新設に伴い、1977年(昭和52年)から開始)
都城市北諸県郡
  • 1963年(昭和38年)- 2校で合同選抜を開始。
  1. 都城泉ヶ丘高等学校
  2. 都城西高等学校

東京都[編集]

千葉県[編集]

愛知県[編集]

岐阜県[編集]

三重県[編集]

福井県[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ かつて合同選抜(総合選抜)が実施されていた大分県では受験生の希望よりも高校側の都合・希望が優先されており、入学者の半数以上が本来の希望校とは異なる高校に回されていた実態があり、その結果、大分合同選抜訴訟に代表される賠償問題民事裁判にまで発展するケースが多々発生した。そのため、現在は完全に廃止されている。
  2. ^ 学区内に複数の学校群を設けており、受験生が受験する学校群を選択できる点が上記各府県の狭義の総合選抜と異なる。
  3. ^ 私立駿台甲府高等学校の創業者はその開校理由について山梨県立高等学校での総合選抜実施を理由の一つに挙げている。
  4. ^ 「高校改革に伴う選抜制度改善検討会のまとめ」(平成18年10月27日、西宮市:高校改革に伴う選抜制度改善検討会)
  5. ^ *1969年(昭和44年)川西緑台高等学校
  6. ^ 明石により良い教育を!
  7. ^ 細かく学区が分けられており、志願者(中学生)にとっては選択肢が少ない。
  8. ^ 大まかに学区が設けられており、志願者(中学生)にとっては選択肢が多い。
  9. ^ 志願者にとって選択肢が少ない。
  10. ^ 生嶌亜樹子「高等学校再編の現代的様相 : 長崎県の高校入試制度の改革過程の分析を中心に」『飛梅論集』(九州大学大学院教育学コース院生論文集)5号(2005年3月)163-174頁所収 - 九州大学学術情報リポジトリ(QIR)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]