綾川五郎次 (大正)
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 綾川 五郎次 | |||
| 本名 | 村上 要作 | |||
| 生年月日 | 1883年11月2日 | |||
| 没年月日 | 1933年2月16日(49歳没) | |||
| 出身 | 青森県南津軽郡(現:青森県黒石市) | |||
| 身長 | 175cm | |||
| 体重 | 101kg | |||
| BMI | 32.98 | |||
| 所属部屋 | 高砂部屋→入間川部屋 | |||
| 得意技 | 左四つ、吊り、寄り、下手投げ、首投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 関脇 | |||
| 幕内戦歴 | 45勝34敗12分5預54休(15場所) | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1905年1月場所 | |||
| 入幕 | 1914年1月場所 | |||
| 引退 | 1921年1月場所 | |||
| 備考 | ||||
| 2013年7月3日現在 | ||||
綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ、1883年11月2日 - 1933年2月16日)は、青森県南津軽郡(現:青森県黒石市)出身の元大相撲力士。本名は村上 要作(むらかみ ようさく)。
来歴[編集]
1883年11月2日に青森県南津軽郡(現:青森県黒石市)で生まれる。幼少期から宮相撲で活躍して力士を志し、旧姓盛岡中学校を中退して高砂部屋へ入門、1905年1月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。1910年6月場所で十両に昇進し、1914年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は負け越しがなく、鳳谷五郎を二度破るなど「鳳キラー」として活躍、1915年5月場所で小結へ、1916年5月場所で関脇へ昇進したが、腎結石のために初日の取り組みに出場(黒星)のみで残りを全休、それ以降も不振で番付が降下していった。また、2代目朝潮高砂の襲名争いに敗れたことで入間川部屋へ移籍した。綾川が出羽ノ海一門へ離脱したことによって相撲界が高砂部屋の時代から出羽ノ海部屋の時代へと加速したとされる[1]。
入幕する前に学生相撲の普及・指導に尽力したことで明治大学の相撲部師範を務め、学生相撲道場の設立を念願としていた。これによって学生による後援者が多く、本場所開催中の学生応援団による野球のような熱狂的応援は名物として知られた。
1921年1月場所(全休)を最後に現役引退して年寄・千賀ノ浦を襲名、千賀ノ浦部屋を創設したが、経営中に腎臓病の治療のために自彊術を始めると心身共に回復したため、以後は本業である相撲よりも力を入れて普及を行ったほか、故郷でりんごサイダーの製造を始めたために部屋の経営を止めた。1928年にはプロレス興行を企画して、大日本レスリング協会の役員を務めた。1933年2月16日に死去、49歳没。
人物・エピソード[編集]
- 弁舌・文筆に優れており、相撲の決まり手である四十八手を写真入りで解説した「一味清風」を著し、大変な話題となった。
- ハイカラ好み、自由奔放な性格で、ある本場所中に洋服を着て場所入りしたが、協会幹部の耳に入って取締に呼び出された上に散々怒られ、洋服での場所入りを禁じられた上に、せっかく新調した背広も協会に没収された。また、幕内力士しか許可されていなかった二人引きの人力車を幕下時代から乗り回していた。
主な成績[編集]
- 通算幕内成績:45勝34敗12分5預54休 勝率.570
- 幕内在位:15場所
- 三役在位:3場所(関脇1場所、小結2場所)
脚注[編集]
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p12