紅林麻雄

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静岡県警察部浜松署巡査部長時代の紅林(1942年1月)

紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年 - 1963年9月)は、日本の警察官静岡県警察部から国家地方警察静岡県本部を経て静岡県警察に属した。最終階級は警部。担当した事件で多くの冤罪を作ったことで知られる。

人物[編集]

現在の静岡県藤枝市出身。国家地方警察静岡県本部刑事課員として、浜松連続殺人事件などの数々の事件を解決した名刑事であると言われ、数々の表彰を受けた。

その一方で、自身が担当した幸浦事件死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で、無実の者から拷問自白を引き出し、証拠をでっち上げた上で、数々の冤罪を作ったとして批判された。

取調べにおいて、拷問とそれによって得た自白を、いかにして合法とするかを考案したとして「拷問王」と評された。紅林は様々な拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず、部下に指示を出していた。また二俣事件における山崎兵八の書籍においては、真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。

上記4事件中、島田事件を除く3事件が一審・二審の有罪判決の後に無罪となり、島田事件も最高裁での死刑判決確定後の再審で無罪が確定しが、幸浦事件・二俣事件の有罪判決破棄差し戻し時点で、当時御殿場警察署次席警部の地位にあった紅林は、非難を浴びた県警上層部によって、吉原警察署駅前派出所へ左遷された。しかも交通巡視員待遇という、実質的な二階級降任であった。

世間や警察内部から非難され、精神的に疲弊しきっていたが、1963年7月、幸浦事件の被告人に無罪判決が確定したことを機に気力がつきて警察を引退。同年9月に脳出血により急死した。

紅林捜査法[編集]

前述のように、紅林は拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者であった。またアリバイが出てきそうになった場合は、犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者が推理マニアであることや被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画が上映されていることなどの傍証を積み重ねる手法で、アリバイを否定しようとした。

これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし「妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)」として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑がある他、主犯とされた男性は拷問による為か持病(てんかん)が悪化しわずか34歳で上告中に死亡した。

紅林捜査法に見られるような強制、拷問又は脅迫によるなど任意性に疑いのある自白調書は、刑事訴訟法322条1項及び319条1項により証拠とすることができない。小島事件では、実際に紅林捜査法に最高裁の判断が下された。最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場に戻ってくるたびに赤チン(傷薬)を塗るなど治療を受けていたという証言などが認定され、被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについては疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された自白調書の任意性が否定され、被告人に有罪を言い渡した原判決が破棄差戻し(後に無罪確定)された[1]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • 佐藤友之・真壁旲『冤罪の戦後史』(図書出版社)、ISBN 4809981916(浜松事件での紅林の功績は偽りのもので、実際は当時の県警刑事課長の怪我の功名によるものだったとある。その後、紅林はしくじって免職しかけるが、浜松事件解決の「功労者」として、後継の刑事課長によって県警に引き上げられたという。 以上、二俣事件で被告側の証人になった、元刑事の南部清松の談。南部は島田事件でも冤罪を証明する活動をしている)
  • 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」、東京法経学院出版、2002年、ISBN 4808940035