紀飯麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
紀 飯麻呂
時代 奈良時代
生誕 持統天皇4年(690年)頃[1]
死没 天平宝字6年7月19日762年8月13日
官位 従三位参議
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀古麻呂
テンプレートを表示

紀 飯麻呂(き の いいまろ)は、奈良時代公卿御史大夫紀大人の孫で、式部大輔紀古麻呂の長男。官位従三位参議勲位は勲十二等[2]

経歴[編集]

聖武朝神亀6年(729年)2月に発生した長屋王の変終結後、3月行われた叙位にて従五位下に叙せられる。この時の叙位では、変で活躍したと考えられる藤原武智麻呂石川石足多治比県守藤原麻呂らが昇進していることから、飯麻呂も反長屋王派に属していたことが窺われる[3]。同年8月に内位の従五位下、天平5年(733年)従五位上。

天平12年(740年)9月に発生した藤原広嗣の乱において、持節大将軍・大野東人の下で征討副将軍を務める。翌天平13年(741年)には藤原広嗣追討の功労により従四位下と一挙に三階の昇叙を受け、右大弁に任ぜられている。天平14年(742年)正月に藤原広嗣の乱に関連して大宰府が廃止された際には、現地に派遣されて官物筑前国司へ移転するなどその実務処理に当たった[4]。また同年2月には新羅使・金欽英が大宰府に来航するが、遷都後まもない恭仁宮の宮室がまだ完成していなかったため、入京を許さなかったことから、飯麻呂が当地で饗応し帰国させる[5]などの対応を行っている。同年8月から翌天平15年(743年)4月にかけて聖武天皇が都合三度に亘って紫香楽宮行幸した際には、全て恭仁宮の留守司を務めた[6]。天平16年(744年畿内巡察使。天平17年(745年)には平城京への還都に先んじて平城宮の掃除を命じられるが、諸寺院の僧侶は浄人や童子を率いて争うように集まり、百姓もみな平城京に集まって村里に人がいなくなってしまうような状態であったという[7]

この頃までは、飯麻呂は橘諸兄派と認識されていたらしく、天平18年(746年)右大弁から常陸守に転任すると、天平21年(749年大倭守天平勝宝5年(753年)大宰大弐と、藤原仲麻呂の台頭に伴いしばらく地方官を務めた[8]。また、この間の天平勝宝元年(749年)には孝謙天皇即位に伴い従四位上に叙せられている。

天平勝宝6年(754年大蔵卿次いで右京大夫と再び京官に復帰する。天平勝宝9歳(757年)正月に橘諸兄が薨去した際は葬儀の監護を務めるが[9]藤原仲麻呂派に転じたらしく、同年7月左大臣藤原豊成失脚により仲麻呂政権が確立すると飯麻呂は右大弁に、さらに8月には正四位下参議に叙任され、のち紫微大弼も兼ねるなど要職に就いた。

仲麻呂政権では議政官として左右大弁・義部卿・紫微大弼・河内守美作守を兼ね、美作守の任にあった天平宝字5年(761年)には、同国の介であった県犬養沙弥麻呂(橘諸兄の外戚)に対して国政を恣にしているとの理由で告発を行い官職を辞めさせている[10]。また、この間天平宝字3年(759年)正四位上、天平宝字6年(762年)正月には従三位と順調に昇進するが、病気のため辞官を請い許されたのち、同年7月19日薨去。最終官位散位従三位。

官歴[編集]

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 木本[2003: 91]
  2. ^ 『弘福寺田数帳』天平15年4月12日付
  3. ^ 木本[2003: 96]
  4. ^ 『続日本紀』天平14年正月5日条
  5. ^ 『続日本紀』天平14年2月5日条
  6. ^ 『続日本紀』天平14年8月27日条,12月29日条,15年4月3日条
  7. ^ 『続日本紀』天平17年5月7日条
  8. ^ 木本[2003: 109]
  9. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳正月6日条
  10. ^ 『続日本紀』天平宝字5年8月1日条
  11. ^ 『万葉集』19-4257
  12. ^ 『公卿補任』

参考文献[編集]