笹山登生

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笹山登生
ささやま たつお
生年月日 (1941-02-08) 1941年2月8日(77歳)
出生地 秋田県横手市
出身校 慶應義塾大学経済学部
前職 衆議院議員秘書
現職 NPO法人理事
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
自由党→)
(無所属)
称号 旭日重光章
親族 父:笹山茂太郎(衆議院議員)

日本の旗 衆議院議員
選挙区秋田2区→)
比例東北ブロック→)
秋田3区
当選回数 5回
在任期間 1980年6月23日 - 2000年6月2日
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笹山 登生(ささやま たつお、1941年(昭和16年)2月8日 - )は、日本政治家NPO法人日本エコツーリズム協会アドバイザー。

衆議院議員(当選5回)を務めた。

概要[編集]

埼玉県浦和市生まれ。当時、父茂太郎は農林省から埼玉県庁に経済部長として出向中だった。

父の熊本営林局への転勤(軍部の里山伐採・平地林伐採運動に山林局長として反対したことによる左遷)の為、1944年熊本市へ移住。太平洋戦争終結直前、疎開のため、父の郷里、秋田県横手市に移住、そこで小・中学校時代を過ごす。当時は、現代日本文学全集(改造社)に読み耽り、地元ミニコミ「たいまつ」「羽後公論」に作品を投稿したりしていた。その後、文京区立第一中学校へ転校し、成城学園高等学校(同期に 石井紘基元衆議院議員)へ。慶應義塾大学経済学部に進み、大島通義ゼミで、財政学・公共投資論を学ぶ。(卒業論文「投資基準理論の側面からの公共投資分析」) 1964年卒業後、農林中央金庫に就職し、岡山支所・大阪支所・本所で調査役。農林漁業政策融資・関連企業融資審査、システム開発等を担当。1977年退職。その後、衆議院議員秘書を務めた後、父・笹山茂太郎の地盤を継いで1979年第35回衆議院議員総選挙に秋田2区より自由民主党公認で出馬するも落選。その後、衆議院議員伊東正義の秘書をつとめる。翌1980年第36回衆議院議員総選挙で初当選し、自民党内では宏池会(鈴木派、後に宮沢派)に属する。

その後、1986年第38回衆議院議員総選挙まで3回連続当選する。1988年12月、竹下改造内閣で農林水産政務次官を務める。1990年第39回衆議院議員総選挙で落選。1993年小沢一郎羽田孜らが自民党を割って結成した新生党に合流し、同党公認で7月18日第40回衆議院議員総選挙に秋田2区より出馬、返り咲きを果たす。1994年6月、裁判官弾劾裁判所裁判長職務代行。1994年12月の新進党結党に参加。1995年1月、衆議院労働委員会委員長就任。1996年第41回衆議院議員総選挙では同党公認で東北ブロックより比例単独出馬、5回目の当選。1997年9月、沖縄及び北方問題に関する特別委員会特別委員長就任。

新進党が1997年12月に解党した後は、一たん保守系無所属となり、その後、1999年1月、自・自連立を機に、同じく新進党解党後は無所属だった海部俊樹とともに自由党に所属し同党秋田県連代表となる。2000年4月の自由党分裂後も同党に留まったが、6月の第42回衆議院議員総選挙秋田3区より出馬するも落選、自由党の体質に異質を感じ離党。以後、無所属に。

2011年6月18日、旭日重光章受章。

人物[編集]

主として農業・環境政策に取り組み、これまでに、諫早湾干拓問題、水俣病問題、ミティゲーション・バンク構想、クラインガルテン構想、農家のダイバーシフィケーション構想、ビオトープ問題、CSA(地域支援型農業)構想、憲法における環境権問題、などについて、積極的な提言を行ってきたほか、現在もBSE問題、鳥インフルエンザ問題、アフリカ豚コレラ問題,福島放射性物質汚染問題、レコード輸入権等著作権問題、PSE問題などの分野で積極的に発言を行っている。

また、シカゴ・オプションの日本への普及に熱心で、研究会を主宰し、取引マニュアルも、作成している。

2007年10月から2017年10月にかけ10年間、明治大学 「学部間共通総合講座」で「環境と政治」と題し、講義を行う。

経歴[編集]

著書[編集]

家族[編集]

  • 父 - 笹山茂太郎(衆議院議員)
  • 母 - 笹山君子(塚田要蔵(元東武鉄道株式会社取締役支配人 在任 T9-S9)次女)
  • (長)兄 - 笹山晴生東京大学名誉教授・文学博士)
  • (次)兄 - 笹山隆生(元日立製作所・日立研究所主任研究員・工学博士)

脚注[編集]


外部リンク[編集]