竹腰徳蔵

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2代 竹腰 徳蔵(たけこし とくぞう、1891年7月10日 - 1956年7月24日)は、日本政治家群馬県会議員(6期)、参議院議員(1期)。

来歴[編集]

1891年、群馬県群馬郡箕輪町(後の箕郷町、現高崎市)に造り酒屋「十一屋」の長男として生まれる[1]。竹腰家は徳蔵の先々代のときに新潟から移住して酒屋を始めて銘酒「友鶴」を醸造し、広大な山林田畑を持つ資産家だった[1]旧制群馬県立高崎中学校市立大阪高等商業学校を卒業し[1]早稲田大学政治経済学部に入学するも1909年に中退し、東京滝野川の醸造試験所へ入った[1]。それから家業の酒造業と農業に専念[1]。一族は馬など動物に親しみがあり牧場を所有して旗競馬の馬を持っていた[1]

その流れで畜産に興味を抱き家畜の堆肥を農業に使って家の米麦作の収穫量は高かった[1]。1917年箕輪白川に隣接して畑三町歩を開墾、このことで水利事業がいると感じて灌漑のため難事業といわれた鳴沢貯水池を手がけた[1]。1921年には冷害で不作により地主組合と小作組合が対立、事態の収拾にあたり翌1922年に2団体を解散させて一本化、農事改良組合を結成した[1]。1923年に農会初代会長になり、それを母体として群馬県議会議員に推挙される[1]。2代竹腰徳蔵を襲名し[2]、初めての選挙では箕輪町での投票者全員が徳蔵に入れ、32歳で政界入り、以後県議を6期務める[1]

1929年群馬県畜産組合連合会副会長(畜連)に就任、県畜産界の筆頭となる[1]。1924年に高崎競馬倶楽部を創設していたが、想定以上の収益により複数箇所で競走は行われ畜連は技術職員強化、畜産改良、増産奨励、種馬購入など事業拡大、収益向上するうちに馬産農家からそれを馬に使うべきだといわれるようになったが徳蔵は牛、豚、綿羊、鶏の改良や増産奨励に使った[1]

群馬の養豚は昭和になると大きく成長し、1933年には日本有数の養豚県となった[1]。だが、養豚の相場変動が大きく農家の利益はほとんどなかった[1]。この状況を打破すべく1935年、群馬郡農会長兼群馬郡畜産組合長の徳蔵は郡農会で緊急役員会を開き、同会で精肉業ができないかと提案した[1]。1938年、群馬畜産加工組合が高崎ハムとして農家による食肉加工が始まった[1]。ハム、ソーセージ、ベーコンが生産され、ハム製造責任者に静岡の御殿場農民福音学校の勝俣喜六を招聘、経営では徳蔵ともに事業推進の中核を担った郡農会副会長兼畜連副会長大山福次を起用して製造技術や販売の問題を打開した[1]。この背景には当時不況だった農村改善のため農業多角化が奨励されていたこともあった[1]。徳蔵は構想、企画をするがそれが軌道に乗ると身を引くのが早く「終生陰の立役者」と呼ばれた[1]。高崎ハムも大山に後を任せた[1]

1947年、第1回参議院議員通常選挙群馬県選挙区から立候補し、農民の支持が高くトップ当選したが、3か月後に公職追放を受け失職した[1]。公職追放解除後の1952年、群馬県知事選挙に立候補し、激戦の末、次点で敗れる[1]。それから畜産の中で最後尾だった綿羊の増産、加工に重きを置き、1954年に畜産界への振興貢献功労により藍綬褒章受章[1]

1956年、再び群馬県知事選挙に立候補し、序盤から優位に選挙戦を進め、当選は確実であると見られていたが、投票日の3日前に急死、65歳[1]。竹腰陣営は実弟で県教育委員だった竹腰俊蔵を担ぎ補充立候補させ、当選した[1]

死没日をもって勲六等瑞宝章追贈、従五位に叙される[3]

前橋市の群馬県農協ビル前には分部順治による徳蔵の農業発展功績称えて顕彰のための彼の胸像が設置されている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa “近代高崎150年の精神 高崎人物風土記”. 高崎新聞. (n.d.). http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/24.html 2023年1月9日閲覧。 
  2. ^ "竹腰徳蔵(2代)". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年1月9日閲覧
  3. ^ 『官報』第8894号411頁 昭和31年8月20日号