竹田の子守唄

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竹田の子守唄
赤い鳥シングル
B面翼をください
リリース
規格 シングルレコード
ジャンル 民謡
フォークソング
レーベル リバティ(東芝音楽工業
作詞・作曲日本民謡
チャート最高順位
赤い鳥 シングル 年表
誰のために
1970年
竹田の子守唄
1971年
美しい朝
(1971年)
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みんなのうた
竹田の子守唄
歌手 ペドロ&カプリシャス
作詞者 京都竹田地方の子守唄
作曲者 同上
編曲者 ヘンリー広瀬
映像 実写
初放送月 1974年12月-1975年1月
再放送月 2015年10月-11月(ラジオのみ)
その他 1981年9月23日の『みんなのうた20年』で放送(4番は除く)。
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竹田の子守唄(たけだのこもりうた)とは、京都府民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽歌曲である。赤い鳥をはじめ、日本フォークロック歌手たちによって数多く演奏されている。

複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われている[1]

明治時代中期の発祥とされるが、題名にある京都市伏見区竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代までであった[2]

唄が広まる経緯[編集]

1964年12月[3][4](または1965年1月)、東京芸術座が公演した労演主催の舞台作品である住井すゑ原作の『橋のない川』で、尾上和彦が多泉和人(おおいずみ かずと)のペンネームで音楽を手掛けることになり、主題に即した曲を使おうとしたが[5]、尾上は部落問題を肌で感じることができておらず、実感を得るため、別の仕事で訪れたことのあった被差別部落の一つの京都市伏見区竹田地区にある部落解放同盟の合唱団「はだしの子」メンバーの1人の母親から、情緒たっぷりどころかカラっと明るく唄って教えてもらった民謡を編曲して使ったものである[6][7]

尾上が採集したのがたまたま竹田地区であったため『竹田の子守唄』とされたが、それ以前は題名が付いていなかった[8]。きちんとした楽譜もなく、1番と2番でテンポも違った唄は、子守り奉公で苦労する中にも強く暖かい人間性を内在させ、『赤いサラファン』に共通する部分も感じられ、聞かせてもらった女性の唄を尾上が解体してつくったのが今日に知られる旋律である[9]。唄の後半に『ロンドンデリーの歌』のような、非常に豊かな音の広がりも加えた4分の2拍子で書き上げたが、発表後に複数の関西の研究者が「この唄は自分で採譜した」と主張、これについて尾上は、唄を聞かせた女性はその後は人前で披露することはなく、彼女の唄は発表されたものよりテンポが速い16分音符でなければならないと否定している[10]

それが合唱団のレパートリーとなったことで、当時のフォークソングの歌手たちにも広まり、その一人が後の赤い鳥の後藤悦治郎であった[11]。後藤は、関西フォークの定例コンサート「大阪労音例会」で、大塚孝彦高田恭子のデュエットが歌唱しているのを聴き、本作を初めて知って感銘を受ける[12]

後藤はフーツエミールというグループのリーダーだったが、レパートリーが英語の歌ばかりなことに不満を抱いており、後藤はこの曲に触れたことでフーツエミールを解散し[12]、赤い鳥を新結成するに至る[13]。赤い鳥の結成時は持ち歌が他に『カム・アンド・ゴー・ウィズ・ミー』しかなかったが、後藤は本作の練習には力を入れるほど心から惚れ込み、デビュー作としてシングルレコードを発売、結成7か月後の1969年11月の第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストで本作を歌唱してグランプリを飾った[13]

フォークシンガーたちに広まる前に歌唱していた合唱団「麦」では、唄が被差別部落のものであると紹介していたが、フォーク界に広まるにつれて「竹田」の正しい読み方や唄の出所はわからなくなっていった[14]。赤い鳥も当初は唄の由来や意味も理解しておらず、題名の地名も大分県竹田市のことだと思っていた[15]

替え歌『人生』[編集]

赤い鳥のメジャーデビュー曲『人生』(山上路夫作詞、大野雄二編曲、アルバム版では『JINSEI』)は『竹田の子守唄』の替え歌であった[16]。旋律や新居潤子の声もよくコーラスも素朴だったが、元唄の歌詞では時代に関係なく意味がわかりにくいという判断から、山上に作詞を依頼して替え歌とされた[17]

後藤は『人生』の歌詞で歌うことに拒否感があった上、結局それで発売したもののヒットしなかったため「自分のやりたいことをやらせてほしい」と強く要望し、シングル『竹田の子守唄』と『翼をください』を制作した[18]東芝レコードのディレクター新田和長の判断で、元唄の歌詞のまま発売したところヒットした[19]

藤田正は「『人生』の歌詞は、私には人生の見方が多少わかっているという驕りを後半に漂わせ、当時のフォークシンガーたちの青臭さや説教臭さを見抜いて批判した、山上によるフォークパロディだが[17]、『人生』にはオーラがなく『竹田の子守唄』は歌詞の意味はわからなくても圧倒的迫力があるのは明白で、旋律と歌詞は切っても切り離せない関係の唄だ」と指摘している[20]

1997年発売のCD再発版には『人生』は「制作上の都合」とあるだけで理由不明のまま未収録となった[21]。オリジナル版の制作に携わった村井邦彦は「1997年版の制作に関わっていないため事情は知らないが、過去にも複数回収録していて抗議を受けたことはない」と話した[21]

唄を取り巻く状況[編集]

『人生』をJASRACに登録する際には、作者不詳として申請するように言われたが、すでに他の人も唄っているのに無視することはできず、後藤は「作者がいるはずだ」と、高校時代のクラスメイトの橋本正樹とともに唄の「起源」を探ることにした[18]

赤い鳥が本作を唄うたびに「竹田」とはどこかと尋ねられても濁していたこともあり、後藤と橋本は1971年4月から唄の発祥を探し始めた[22]。歌詞に「雪」があるため大分県竹田市ではなく、「よう泣く」の「よう」があるのは関西ではないかと考え、伏見か兵庫県氷上郡市島町の竹田かもしれないと見当をつけた[22]。探し続けて2か月が経った後、ある女性から歌詞の「在所」は京都では未解放部落を指すと教えられ、橋本は「大きな楔を打ち込まれたように言動が止まった」と感じ、それから1970年出版の『京都の民謡』(音楽之友社)に本作が京都市伏見区竹田の唄だと明記されていることを知って確信した[23]

橋本が探し当てた事実を知らされた後藤は、今まで知らなかった「久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし またも竹田のもんば飯」の歌詞を入れて唄うことを決意し、最初に歌唱したのは1971年9月の毎日放送の深夜番組だった[24]。1971年12月発売のアルバム『スタジオ・ライブ』で「久世の大根めし…」の歌詞を入れた本作を赤い鳥としては初めて収録した[25]

1971年2月5日にシングル・カット、A面に本作、B面に『翼をください』を収録し、3年間でミリオンセラーとなったが、歌詞の「在所」が被差別部落を意味し、それ絡みの楽曲と知った放送局は慌てて自主規制をかけた[26][27][28]。人気だった赤い鳥に対し、放送局から理由を告げずに「歌唱曲から外してほしい」と複数回の要請がなされた[29]。またレコード会社も動揺し、採譜者が編曲著作権を主張したこともあってレコーディングが避けられるようになり、長い間いわゆる「放送禁止歌」として聴く機会が減少した[30]

背景には1970年の映画『橋のない川』第二部上映をめぐる騒動や[31]、1974年の八鹿高校事件[32]などもあり、1975年5月開催の「用語と差別を考えるシンポジウム」では、マスコミだけでなくドラマや落語などで「これでは物が言えなくなる」と指摘されるようになった[33]。同年11月には部落地名総鑑事件が発生し、被差別部落の地名がどのような理由で使われようとも、部落解放同盟朝田派が差別だと言えばそう断定される状況が生まれたとして、本作にも部落の地名や「在所」の語があることから放送禁止になったことは否定できず、こうした出来事が同和タブーを形成した社会構造を浮かび上がらせるものであろうと、全国地域人権運動総連合竹田深草支部執行委員は批判している[33]

要注意歌謡曲指定制度には指定されてはいなかったとされ[34]、2002年に大阪で開催された人権集会ではNHKの人権問題に熱心なベテラン局員は、過去に同局で放送禁止に指定されたことはなく、後藤もNHKからそういった扱いは受けなかったとしている[35]森達也が入手した1986年のフジテレビ番組考査部の議事録とみられる文書には「部落解放同盟の見解として『唄が作られ唄われた理由や背景をよく理解してくれるなら放送可能』とされたが、実際に理解することは不可能なので現実的には放送できない」旨が書かれており[36]、放送禁止歌であるとの認識を既成事実としたメディアもあった[37]。森は「唄の意味を理解することはそう難しくないはずだが、あっさりと不可能と結論付け、理解することとは何なのかすら思考していないことが文からは汲み取れ、『理解する』の主語を視聴者に置き換えても結論としてはあまりにも早計だ」と批判した[38]

また森は、かつて教科書に本作を掲載していた複数の出版社に取材したところ、各社とも対応は慎重で匿名を条件に取材に応じ「部落問題も理由の一つだが、他にも掲載されなくなった作品は多数あるため、断定するのは差別をまた生み出してしまう」「とにかく非常にナイーブな問題だ」と捉えていることが共通しており、旋律のみを掲載している一社からは、歌詞がない理由を何度尋ねても「旋律だけでも十分に素晴らしい曲だと判断した」と要領を得ない答えしか返ってこなかったという[39]

「部落解放同盟から抗議があったため放送しなくなった」とも噂されたがそのような事実はなく、部落解放同盟京都府連や竹田地区の解放同盟の者は、長らく放送禁止になったことすら知らず、中には竹田地区の唄であることさえ知らない者もいた[40]。だが、元の旋律と歌詞とは大きく違う唄として広まったことに竹田地区の住民はかなり困惑し、赤い鳥のメンバーもヒットしてから被差別部落の唄という事実を知ったことで動揺した[27]

元唄には「もんば飯」という歌詞があり、もんばはおから、飯は精米の際に出る破片をかき集めた小米で、それを部落内で食べていることを意味する歌詞であり、尾上の前で唄った女性は鹿の子絞り仲間から「寝た子を起こすようなことをして」と責められ、女性は「竹田の恥をさらした」と後悔していた[41][42]

1972年1月に京都勤労会館で開催したフォークコンサートに赤い鳥が出演した際、橋本は先述の『京都の民謡』を編纂した日本音楽研究会メンバーでもあった尾上と知り合い、彼に唄を教えた女性を息子経由で連れてきてもらった[43]。しかし彼女からは「久世の大根めし…」の箇所は唄わないでほしいと懇願され、周りで「あの唄は誰が教えたのか」と言う人がいることや、「昔もいつもそういう食事をしていたわけではない。どうして今になって部落の食生活を唄う必要があるのか。歌詞で竹田だけでなく他の部落の場所もわかってしまう」と、唄ったことを後悔していると告げ、自分の生まれを晒すことをはばかる世代の人間であった[43]。後藤は唄を伝承している女性の名前でJASRACに登録したかったが、それも断られた[43]

女性の言葉により腰が引けた他の赤い鳥メンバーから後藤は非難され、女性を苦しめるわけにはいかず、彼女の息子たちと話し合った結果「勇気をもって唄っていってほしい。自分も応援する」と言われたため今後も唄い続けることにしたものの、「若さゆえに突っ張って生きていたことで人を苦しめてしまった」と後藤は半分後悔した[44]。尾上も問題とされた箇所の歌詞の削除を求められたことがあり、また元唄と旋律が違うとしてJASRACに本作の補作者として登録してもらおうと申請したが却下された[45]。当時のJASRACは民謡を十把一絡げにしており、著作者として登録する考えがまだなかった[45]

しかし一方で、1971年の赤い鳥の京都公演で本作の歌唱を聴いたその伝承者の女性は「ええかったがナァ」と感想を述べている[42]

1974年に赤い鳥は解散するが、本作だけが理由でないにしろ、若いメンバーたちに「歌うとは何か」という大きな問題を突きつけた[29]。その後、放送局やレコード会社による自主規制は1990年代に緩和され、多くの歌手によってカバーされている[30]

伏見区で定期的に開催されている「ふしみ人権の集い」で、2001年に竹田地区の住民が本作を初めて歌唱し、以降も集いでは唄われている[46]。これが報道されることに対し、「現代ではほぼ解決状態の部落問題を、今も残る深刻な差別としてマスメディアで宣伝し[47]、唄を政治的に利用している」という批判も上がっている[48]

旋律[編集]

通常、日本の民謡のほとんどは旋律の頂点が前半にあり、子守唄は子供を寝かせるために大半が前半に頂点が存在する[49]。本作の元唄も同じだが、尾上による旋律は後半頂点型であるため、子供は興奮して寝ることができない[49]。尾上は自らの辛さを心に押し止めておかず、外に向けて主張できるように前向きなものを音として上げ、歌唱した若者たちの中にも同じ主張があったろうとしている[42]

尾上による旋律は、元唄の四度音程が有する力強さを意識し、後半部の処理にも「ソ・レ」という四度上昇が使われた結果、低い方の旋律から「ラ・レ・ソ」の完全四度を二重にした核音配置になっている[50]。それに対して主に京都のフォークグループは、耳から聴いた赤い鳥のような変唱のように歌唱したことで、四度音程が短三度に短縮されたり半拍遅れたことで力強さはなくなったが滑らかな旋律になり、より関西民謡らしくなったと右田伊佐雄は指摘した[50]。フォークグループでは無意識にそう唄ったとされるが、右田は聴いた四度音程をアウトプットした際に自然と短三度にならざるを得なかったのは、強調された四度の上昇下降は関西民謡では少なく、元唄は数少ない四度飛躍の一作で、関西出身の尾上は希少価値を評したが、同じ関西出身でも他のフォークループはよくある関西民謡に近付けてしまったためとしている[51]

歌詞[編集]

各地に様々な歌詞が伝わるが、大きく分けて、広く唄われる歌詞と、元唄の歌詞がある。広く知られた歌詞の「盆がきたとて なにうれしかろ 帷子はなし 帯はなし」は愛知県の子守唄からとられ、高石ともやが『日本の子守唄』(松永伍一紀伊國屋書店)で見つけた歌詞を入れて唄ったものである[52][53]。藤田正は、愛知県の歌詞を入れたことで本作の特異性は際立ったが、唄の多様性を見えにくくしてしまった面もあると指摘している[54]

解釈[編集]

「はよもいきたや この在所越えて むこうに見えるは 親のうち」の歌詞は、少女が早く「在所」を越えて、向こうに見える親の家に帰りたいという意味になり、つまり一般地区に少女の自宅があり、一般民である彼女が部落内で子守の奉公をしているという、時代背景的に不自然な歌詞に見える[55]。他地域の部落にも同様の歌詞が伝わっているが、「在所」は一般地区を指すこともあり意味が逆転するという説[35][56]、部落内の富裕層が貧しい家に守り子を頼む習慣があり、そういった少女が赤子をあやしながら部落外に出て振り返ったときの心情とする説もあるが[57]、それでは唄の持つ広がりや望郷の思いが狭まる上、元唄にある病に臥せった父親を案じるニュアンスも変わってしまう[58]。それに対し、歌詞の整合性を気にすることに大きな意味はなく、それよりも浮かんでくる情景にそれぞれの心情風景を重ねることで十分だとする意見もある[59]

なお、今井正版の映画『橋のない川』(1969年公開) では「穢多とちがう在所者」という台詞があり、明治天皇崩御の時期の奈良県の小森部落での用法という前提ではあるが、明確に被差別部落に対置する「良民」の居住地区として「在所」の語を用いている。

先述のように、被差別部落を意味する言葉があるため放送されなくなったものの、森達也はそれだけでも短絡的で論外であり、在所が部落でも部落外を意味していてもかまわないが、仮に部落外を指すなら放送禁止の根拠の論外さすら意味を失うとして、文法的矛盾に気付くことは誰でも可能で難しい理屈でもなく、誰も考察したり見つめ直すこともなく、メディアも何をやってきたのかと批判している[60]

藤田正は「(唄が)愛情をもって温かく検証されることなくメディアから締め出された」と言い[61]、1970年代に毎日放送ラジオの若手ディレクターで後に同局幹部となった社員は「個人的には大好きな唄だった。あのとき情報を鵜呑みにしないでちゃんと検証していれば、教科書に載るような名曲として今も歌い継がれていただろう」と後悔の発言をしている[62]

元唄で繰り返しある「どうしたいこりゃ、きこえたか」は竹田でしか見られない言葉遣いで、暑さ寒さ関係なく子の世話をしなくてはならない守り子たちの、社会や親に対する批判を表すとされる[63]

広く唄われているもの[編集]

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

盆がきたとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら

はよもいきたや この在所越えて
むこうに見えるは 親のうち

1番
子守も自分が子供の頃は、楽しいお盆休みがあったけど、それもない。
お盆が過ぎると秋が深まり、雪がちらつき寒くなって、子供が泣きます。

2番
子供の頃楽しかったお盆休みが来ても、何もうれしくはない。
きれいに着飾る服もない。

3番
この子はよく泣いて、子守の私をいじめます。
奉公先の親から叱られないかと心配で、やせる思いです。

4番
早く奉公の期間を終えて、奉公しているこの場所から、親の住む家に帰りたい。
向こうに見えるのは親の家なのに、こんなに近くても帰れない。

元唄[編集]

出典は森達也『放送禁止歌』光文社知恵の森文庫、2003年 198-199頁

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
どしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ 背中の上で
守りも楽なし 子も楽な
どうしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ おやすみなされ
親の御飯が すむまでは
どうしたいこりゃ きこえたか

ないてくれよな 背中の上で
守りがどんなと 思われる
どうしたいこりゃ きこえたか

この子ようなく 守りしょというたか
泣かぬ子でさえ 守りやいやや
どうしたいこりゃ きこえたか

寺の坊さん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる
どうしたいこりゃ きこえたか

守りが憎いとて 破れ傘きせて
かわいがる子に 雨やかかる
どうしたいこりゃ きこえたか

来いよ来いよと こま物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこりゃ きこえたか

久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし
またも竹田の もんば飯
どうしたいこりゃ きこえたか

足が冷たい 足袋買うておくれ
お父さん帰ったら 買うてはかす
どうしたいこりゃ きこえたか

カラス鳴く声 わしゃ気にかかる
お父さん病気で 寝てござる
どうしたいこりゃ きこえたか

盆が来たかて 正月が来たて
難儀な親もちゃ うれしない
どうしたいこりゃ きこえたか

見ても見飽きぬ お月とお日と
立てた鏡と わが親と
どうしたいこりゃ きこえたか

早よもいにたい あの在所こえて
向こうに見えるは 親のうち
どうしたいこりゃ きこえたか

中華圏における替え歌[編集]

中華圏ではこの曲に、世界の平和を願う内容の歌詞がつけられ『祈祷』というタイトルで歌われている[64]。全く異なる歌詞が付けられているため、元の歌が日本の子守唄であることすら知られていない[64]

ジュディ・オングの父親が、自身の50歳の誕生日に中国語詞をつけて娘に贈ったのが最初で、1975年に作られたとされる[64]。後に王傑卓依婷台湾人歌手によってカバーされ、広く普及した[64]

録音した歌手、音楽家[編集]

1974年12月 - 1975年1月には、NHKの『みんなのうた』でペドロ&カプリシャスによって唄われたこともある(編曲はヘンリー広瀬[65]。唄は大幅にアレンジされ、2番の歌詞とコーダ部分が省略された。同時期放送の『北風小僧の寒太郎』が何度も再放送され、また他の楽曲[注釈 1]も再放送されたが、本曲の再放送は1981年9月23日にNHK総合テレビで放送された特別番組『みんなのうた20年』で放送された(4番以外)のみで、定時番組での放送は長期にわたって行われなかったものの、2015年10月-11月にラジオのみで41年振りに再放送された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『みんなのマーチ』『鳩笛』『なかよしファミリー』。なお同時期の『みんなのうた』は、「本放送4曲・再放送3曲」構成だったが、この時は特別に「本放送5曲・再放送2曲」だった。

出典[編集]

  1. ^ 森 2003, p. 196.
  2. ^ 森 2003, p. 197.
  3. ^ 右田 1978, p. 225.
  4. ^ 人権と部落問題 2010, p. 27.
  5. ^ 藤田 2003, pp. 7、9.
  6. ^ 藤田 2003, p. 12.
  7. ^ 藤田正 (2000-05-10). “竹田の子守唄 被差別部落の伝承歌とヒット・ソングの間”. 部落解放 469号 (解放出版社): p.99. 
  8. ^ 森 2003, pp. 200–201.
  9. ^ 藤田 2003, pp. 14–15.
  10. ^ 藤田 2003, pp. 15–16.
  11. ^ 森 2003, p. 184.
  12. ^ a b 藤田 2003, pp. 19–20.
  13. ^ a b 藤田 2003, p. 21.
  14. ^ 藤田 2003, p. 29.
  15. ^ 森 2003, p. 178.
  16. ^ 藤田 2003, pp. 24–25.
  17. ^ a b 藤田 2003, p. 26
  18. ^ a b 藤田 2003, p. 28
  19. ^ 富澤一誠 (2007). フォーク名曲事典300曲〜「バラが咲いた」から「悪女」まで誕生秘話〜. ヤマハミュージックメディア. pp. 118-119. ISBN 978-4-636-82548-0 
  20. ^ 藤田 2003, p. 27.
  21. ^ a b 藤田 2003, pp. 53–54
  22. ^ a b 藤田 2003, pp. 30–31.
  23. ^ 藤田 2003, pp. 32–33.
  24. ^ 藤田 2003, p. 35.
  25. ^ 藤田 2003, p. 37.
  26. ^ “放送「封印」の背景探る なぜ消えた?名曲「竹田の子守唄」”. 朝日新聞・大阪朝刊: p. 25. (2003年3月4日)  - 聞蔵iiビジュアルにて閲覧
  27. ^ a b 森 2003, pp. 187–188
  28. ^ 森 2003, p. 190.
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  32. ^ 人権と部落問題 2010, p. 30.
  33. ^ a b 人権と部落問題 2010, pp. 30–31.
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  35. ^ a b 藤田 2003, p. 49
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  38. ^ 森 2003, p. 121.
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  80. ^ DISCOGRAPHY”. 一青窈オフィシャルサイト (n.d.). 2019年9月3日閲覧。
  81. ^ 民謡ガールズ”. 長良グループ (n.d.). 2019年9月3日閲覧。
  82. ^ Discography”. 五十嵐はるみ Web Site (n.d.). 2019年9月3日閲覧。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 橋本正樹『竹田の子守唄』1973年 - 後藤悦治郎の友人である著者が唄の起源を探した出来事をまとめたもの。

関連項目[編集]

  • 五木の子守唄 - 被差別部落の唄ではないが、同様の扱いで放送禁止とされていた。