竹島問題外交交渉史
竹島問題外交交渉史(たけしまもんだいがいこうこうしょうし)は、現在、韓国が支配下に置き、日本が領有権を主張している日本名:竹島、韓国名:独島、英名:リアンクール岩礁(当項目では以下「竹島」を使用)に関する日本・韓国・連合国(主としてアメリカ合衆国)の3国間で交わされた外交交渉を一次一級史料(当時の公的機関が発行した文書で、原本が現在でも確認できるもの)を基にまとめたものである。なお、史料については、明らかに現在の竹島を指し示していると断定できるもの、第三者が検証可能なものを中心に一覧にし、領有権問題についての歴史的考察は当項目では扱っていない。
史料一覧[編集]
| 西暦 | 月 日 | 史料名(訳文) | 史料原文(Wikisource) | 保管場所 |
|---|---|---|---|---|
| 1905年 | 1月28日 | 竹島閣議決定 | 竹島告示史料 | 国立国会図書館 |
| 2月22日 | 島根県告示第四十号 | 竹島告示史料 | 同上 | |
| 1945年 | 8月15日 | ポツダム宣言受諾(日本の降伏) | ポツダム宣言 | 同上 |
| 1946年 | 1月29日 | SCAPIN677 | SCAPIN677 | 米国立公文書館 |
| 6月22日 | SCAPIN1033 | SCAPIN1033 | 同上 | |
| 1947年 | 3月19日 | SF[1]草案47/03/19 | 草案47/03/19 | 同上 |
| 8月5日 | SF草案47/08/05 | 草案47/08/05 | 同上 | |
| 9月16日 | SCAPIN1778 | SCAPIN1778 | 同上 | |
| 1948年 | 1月8日 | SF草案48/01/08 | 草案48/01/08 | 同上 |
| 1949年 | 9月7日 | SF草案49/09/07 | 草案49/09/07 | 同上 |
| 11月2日 | SF草案49/11/02 | 草案49/11/02 | 同上 | |
| 12月29日 | SF草案49/12/29 | 草案49/12/29 | 同上 | |
| 12月29日 | SF草案49/12/29に関するメモ | 竹島に関するメモ草案49/12/29に添付 | 同上 | |
| 1950年 | 7月 | SF草案49/12/29に関する国務省解説 | 竹島に関するアメリカ国務省内メモ | 同上 |
| 8月7日 | SF草案50/08/07 | 草案50/08/07 | 同上 | |
| 8月 | SF草案50/08/07に関する米国国務省による解説 | 竹島に関するメモ | 同上 | |
| 1951年 | 4月7日 | SFイギリス草案51/04/07 | 草案イギリス版51/04/07 | 英国立公文書館 |
| 5月2日 | 条約についての米英会議覚書 | 米英ミーティングメモ | 同上 | |
| 5月3日 | SF草案51/05/03 | アメリカ・イギリス合同草案51/05/03 | 米国立公文書館 | |
| 5月9日 | 韓国からの要望に対する米国側検討意見書 | 韓国からの要望に対する米国側検討意見書 | 同上 | |
| 6月14日 | SF草案51/06/14 | 草案51/06/14 | 同上 | |
| 7月9日 | エモンズによる会談覚書 | 1951年7月9日付エモンズによる会談覚書 | 同上 | |
| 7月19日 | 韓国からSF草案に関する要望1951/07/19 | 韓国からアメリカへの要望1951/07/19 | 同上 | |
| 7月19日 | エモンズによる会談覚書 | 7月19日付会談覚書 | 同上 | |
| 7月31日 | 竹島に関するボッグス調査メモ | 竹島に関する調査メモ | 同上 | |
| 8月2日 | 韓国からSF草案に関する要望1951/08/02 | 韓国からアメリカへの要望1951/08/02 | 同上 | |
| 8月3日 | ボッグスメモ | 韓国の要望に対するメモ | 同上 | |
| 8月10日 | ラスク書簡 | 韓国の要望に対する回答書 | 同上 | |
| 9月8日 | SF最終版(サンフランシスコ平和条約調印) | SFファイナル版 | 同上 | |
| 9月21日 | 韓国からSCAPIN677に基づく竹島領有権主張外交文書 (1951/9/21) | 駐韓アメリカ大使に対する外交文書 | 同上 | |
| 10月3日 | 韓国からSCAPIN677に基づく竹島領有権主張外交文書 (1951/10/3) | 駐韓アメリカ大使に対する外交文書 | 同上 | |
| 1952年 | 11月14日 | K・ヤング発ライトナー宛書簡 | Information about Liancourt Rocks | 同上 |
| 11月27日 | 極東司令官のSCAPINに対する認識 | 極東司令官からの手紙 | 同上 | |
| 12月4日 | 韓国外務部への口上書(第187号文書) | 口上書(第187号文書) | 同上 | |
| 1953年 | 7月22日 | レノア・バーマスター発竹島問題あり得るべき解決策 | Methods of Resolving Liancourt Rocks | 同上 |
| 1954年 | 8月15日 | ヴァン・フリート特命報告書 | ヴァン・フリート特命報告書 | 同上 |
| 1960年 | 4月27日 | マッカーサーからの電報 | Telegram 3470 to the Department of State | 同上 |
第二次世界大戦前[編集]
1905年、日本は国会で竹島を島根県隠岐島庁へ編入する閣議決定の上、内務大臣芳川顕正が「内務大臣訓令」として告示を発布した。現在の竹島だと断定できる一次一級史料は、これが最古である。(北緯37度9分30秒、東経131度55分にある無人島と位置が特定され、竹島を指していると断定できる)
また、当時の島根県知事松永武吉はこれを受けて同年2月22日「島根県庶十一号」を発し、県に編入した。[2]島根県制定の「竹島の日」はこの「島根県庶十一号」を発した日にちなんでいる。
連合国占領時代[編集]
1945年8月、ポツダム宣言受諾とともに、日本は連合国の占領下におかれた。
また、占領時には日本の統治は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による訓令の形で行われ、その訓令をSCAPINと呼んだ。
日本の領土は暫定的にポツダム宣言第8条に定められた通り北海道・本州・四国・九州のほか連合国が定める諸小島に限定されることとなり、最終決定はSF条約[1]にて取り決めることとなった。
日本の漁獲水域[編集]
1946年1月29日、GHQはSCAPIN677号を発令した。この訓令では第3項で日本の漁獲水域の範囲から、鬱陵島、済州島とともに竹島を外した。しかし、第6項では
この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。
とされている。
同年6月22日にはSCAPIN1033号が「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」として発令され、竹島の12海里内に近づいてはならない、と訓令された。この海域の区分けはSCAPINを発した連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥にちなんでマッカーサー・ラインと呼ばれた。 後に李承晩大統領はSF条約発効に伴うマッカーサーラインの廃止直前にこれに代わる李承晩ラインを一方的に宣言し竹島を取り込んだ。この宣言は米国はじめとした各国から非難を浴びた。
サンフランシスコ平和条約の起草[編集]
1947年からサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)(SF条約)の起草が始まる。
1947年3月19日の版では、第4条で、日本は韓国および韓国沿岸部の島々の主権を放棄し韓国に移譲することになっているが、その島々に竹島も含まれる、と起草されている。1949年までに起草された条約案は全て[3]そのように記載されている。
しかし、その後日本より竹島の領有権について再考を求めるべく抗議を行った。日本の抗議を受けてシーボルト駐日政治顧問は竹島領有再考をバターワース国務次官補に勧告した[4]。
以降、条約草案[5]では対馬、隠岐島と並んで竹島が日本の領土と明記されるようになった。(SF草案1949/12/29)。
対馬、竹島、波浪島(実在しない)の領有権と韓国政府を第二次大戦の戦勝国の一国と認め、SF条約の署名に参加させることを要求していた韓国へは、米国側検討意見書として1951年5月9日に要求への回答が示された。韓国の梁裕燦大使は、1951年7月9日に米国ダレス国務長官顧問に呼ばれ、再度、韓国は戦勝国とは認められないと回答された。
1951年7月19日韓国からの要望[編集]
李承晩政権は米国の意向に対して、さらに同年7月19日に梁裕燦大使の名で、ダレス国務長官顧問に要望書を提出し会談を行った。この会談では韓国が戦勝国として調印したいという要望はなくなったが、以下の3点の要望が行われた。
会談の内容は、当時国務省北東アジア部朝鮮課長で会談に同席したアメリカの外交官アーサー・B・エモンズ3世の纏めたメモ「エモンズによる会談覚書」にあるとおりである。
その会談の中でダレスから「対馬の記載がなくなっているが」と尋ねられた梁大使は「書き忘れた」と答えており、また波浪島の位置を尋ねられると答えることが出来なかった(実際に存在していない)。これらのことより、韓国側の領有権の主張には特に根拠のあるものではなく、日本と韓国の境界線を引くうえで少しでも韓国側が多く獲りたい、という貪欲さからの要望であったことが推認できる。ダレスはこの要望に対して「それらの島が併合前に韓国の領土であったならば問題ない」と回答している。また、漁業協定(マッカーサー・ラインの効力)に対する要望は日本・韓国の二国間で交渉すべきもの、とした。
また、会談の中でダレスは以下のように述べている。
韓国大使(梁裕燦)が7月18日の評論声明で使用した、「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と口にした警告の強い言葉に国務省は驚き大いに動転している
会談の中でも「朝鮮人は日本人による差別に大いに苦しんだ」という表現を梁大使は使い、朝鮮は日本による被害を受けた被害者である、という立場を強調しているが、上記声明は逆に日本人を差別するような内容であり、米国としては「驚き大いに動転している」と異例とも言える表明をしている。
1951年8月2日韓国からの要望[編集]
7月19日に米国との会談で譲歩が得られなかった韓国は同年8月2日に再度要望書をディーン・アチソン米国国務長官に提示した。 今回の要望は7月19日付要望と同様に、
- 日本が朝鮮半島に残した財産をすべて韓国に移管する事
- マッカーサー・ラインを今後も有効とする事
- SF条約で戦勝国が受けられる権益を韓国も受けられるようにする事(日本との二国間協議では韓国は戦勝国側の立場をとる事、および、日本が負う戦時賠償義務を韓国に対しても認める事)
当然のことながら米国は一貫して「韓国が戦勝国の立場をとる」ことは一蹴している。しかし、竹島・波浪島の要望については米国内で再度確認を行い(「ワシントン中全ての資料をあたった」[6])、また、駐米韓国大使館まで調査を行った[7]が、韓国の主張は確認できなかった、とロバート・アップルトン・フィアリーによって報告されている(ワシントンで韓国の主張を精査し「韓国の主張は確認できない」と判断した地理学者サミュエル・ホイットモア・ボッグスの名前を取って「ボッグスメモ」と呼ばれる)。
ラスク書簡(米国からの最終回答)[編集]
上記のように数回の会談、調査を経てアメリカ合衆国は最終的な米国の見解を国務次官補ディーン・ラスクが1951年8月10日に書簡にて竹島は日本の領土であると回答した。 ラスク国務次官補が回答した翌月の9月8日に、正式に日本国との平和条約が調印された。
サンフランシスコ平和条約調印後[編集]
1951年9月8日にSF条約が調印された。 日韓間の領土については
となっている。
韓国による竹島の占拠[編集]
韓国はマッカーサー・ラインが廃止されることに満足せず、1952年1月18日いわゆる李承晩ラインを宣言する。マッカーサー・ラインそのものは基になったSCAPIN677および1033に記載されている通り、漁獲水域を限定しており、領土の主権には影響しないものとされているにも関わらず、李承晩ラインは事実上領土主権のおよぶ範囲を規定したものであり、これに基づいて韓国は武力を持って日本漁船の拿捕捕獲を始めるようになる。
日米両国による抗議[編集]
韓国による李承晩ラインの宣言に対し、日本はその10日後の1月28日韓国に対して抗議を行い、米国政府も2月11日抗議を表明した[8]が、韓国政府はこれを無視した。なお、当時は、SF条約に調印はしていたが、施行はしていなかったため、日本は事実上主権を有していない。そのため日本から韓国へ直接抗議を行うほかに事実上占領していた米国に対して抗議を行い、米国からも抗議声明を出す形[9]となった。
サンフランシスコ平和条約発効後[編集]
前年調印されたSF条約は1952年4月28日から発効し、この時点をもって連合国による日本占領が解除され日本の主権は回復された。
竹島周辺はGHQによる占領当時から当時米軍の爆撃演習・訓練水域であった。SF条約施行後の1952年7月米国より引き続き竹島周辺を爆撃演習地として使いたい旨の打診を受けた日本政府はそれを了承した。[10]
ヤング書簡[編集]
ケネス・ヤングによるラスク書簡の再通知[編集]
上記日本政府との合意に従って米軍は竹島周辺で訓練を行っていたが、韓国は釜山米国公使ライトナーに「韓国領土に対する爆撃をやめる」ように抗議を行う。
ライトナー経由で韓国に抗議を受けた当時の米国国務省北東アジア部長ケネス・ヤングは1952年11月14日付で、竹島を爆撃演習区域から除外するよう回答すると共に、ラスク書簡の再通知(1952年11月14日付ヤング発ライトナー宛の書簡)
を行う。このヤング書簡の中で米国国務省は明確に
竹島に対する韓国の主張は米国は受け入れられない。従って、SF条約第2条(a)には竹島に言及していない
と述べている。
口上書(No.187文書)[編集]
ヤング書簡の内容は韓国政府外務部に対しても同年12月4日に口上書(No.187文書)として正式に申し入れを行っている。しかし、韓国政府はこれを無視した。
第一大邦丸事件[編集]
竹島周辺はあわびやわかめの豊饒な漁場であり、地元漁民の嘆願により日本政府は1953年3月から同地域を爆撃訓練区域から排除した[10]。これを受けて同区域で漁を営んでいた日本の漁船第一大邦丸が、1953年2月4日に韓国軍によって銃撃され、死傷者が出る事態に陥った(第一大邦丸事件)。この時期、公海上で多くの日本漁船が武力により拿捕されている。
竹島問題のあり得るべき解決策[編集]
第一大邦丸事件以降、竹島問題は日韓の紛争の種になっており、その解決に向けて1953年7月22日米国国務省のレノア・バーマスターは「日本と大韓民国の間のリアンクール岩礁紛争を解決する可能性のある方法」と題するメモランダムを北東アジア部副部長ロバート・マクラーキンに向けて発した。 その中でバーマスターはラスク書簡およびNo.187文書を根拠に米国は竹島の領有権は日本にある、と述べている。同時に米国は日本からの要求がない限り、できるだけ中立の立場をとるべきとも述べている。
ヴァン・フリート特命報告書[編集]
朝鮮戦争が休戦したあと、ドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領の特命を受けてジェームズ・ヴァン・フリート特命大使が極東アジアを歴訪し米国がとるべき行動を進言した。この報告書の中で、竹島は日本の主権下に残すことを米国は決定しており、もし不服があるなら国際司法裁判所(ICJ)に付託するべき、と韓国側に進言したことを報告している。
日本政府の対応[編集]
日本国内においては、日本共産党が竹島の武力奪還を主張したものの、政府は一貫して平和主義路線を採用し、1954年9月25日、韓国政府に対し、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することを提案したが、韓国側はこれを拒否した。
マッカーサーからの電報[編集]
軍事占領主義的色彩の強かった李承晩体制が続く間、竹島問題は解決の糸口がつかめなかったが、1960年に李承晩が失脚した。当時駐日アメリカ合衆国大使であったダグラス・マッカーサー2世は、李承晩失脚時を韓国が正常な民主主義国家に戻る絶好のチャンスととらえ、本国に「アメリカ政府は新しい韓国政府に圧力を加え、正常な状態に戻すべき」と強く進言する電文を発した。[11]
この中でマッカーサー大使は李承晩政権が武力を行使して日本の漁船、漁民を拿捕し人質としていることを強く非難し「野蛮な人質外交」と表現している。また、日本人は8年間の李承晩政権の擁護できない占領主義手法で苦しんできたとも指摘している。その上で、日本と韓国が正常な関係に戻るためには
- 李承晩の残酷で野蛮な弾圧行為を受け苦しんだ全ての日本人全員の人質(まだ刑が確定していない人質も含む) を解放する事
- 日本の漁船を公海上で拿捕する習慣をやめさせる事
- 常に日本の領土とみなされている竹島を力づくで占拠しているが、この島を日本に返させなくてはならない。
が必要だと進言している。特に竹島については悩みの種で、この島が日本に返還されるまで日本と韓国の間に恒久的な平和が築かれることはないだろう、と指摘している。
ただし、この進言を受けて米国政府がどのような対応を取ったのかは、現在のところ不明である。
関連項目[編集]
参照リンク[編集]
- Review of Island Studies (英文) The Treaty of Peace with Japan and Takeshima’s Legal Status
- Review of Island Studies (英文) International Symposium in Korea on the Takeshima Dispute
- Review of Island Studies (英文) The Debate on Island Issues at International Conferences
脚注[編集]
- ^ a b c 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)
- ^ 外務省竹島問題HP「4.竹島の島根県編入」
- ^ SF草案49/11/02まで
- ^ FRUS "The acting political adviser in Japan (Sebald) to the Secretary of States, November 14, 1949"
- ^ SF草案49/12/29から
- ^ tried all resources in Washington
- ^ 塚本孝 「平和条約と竹島(再論)」、『レファレンス』第518号、国立国会図書館調査及び立法考査局、1994年3月、 pp. 64.。
- ^ 「平和線宣布と関連する諸問題 1953-55」(日韓会談韓国側文書)
- ^ 山崎佳子「韓国政府による竹島領有根拠の創作」、『第2期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書(平成24年3月)』、島根県竹島問題研究会 [1]、2012年3月、 pp. 70.。
- ^ a b 外務省竹島問題HP「7.米軍爆撃訓練区域としての竹島」
- ^ テキサス親父日本事務局「マッカーサー電文[3カ国語訳版]」 [信頼性要検証]