竹内家
竹内家 | |
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本姓 | 清和源氏義光流平賀庶流 |
家祖 | 竹内氏治 |
種別 |
公家(半家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京府 |
著名な人物 |
竹内季治 竹内惟庸 |
支流、分家 | 垪和竹内氏(武家・士族) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
竹内家(たけのうちけ)は公家のひとつ。本姓は源氏。いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。
概要[編集]
大内惟信の系統である竹内信治(左近将監)・氏治(竹内大夫)父子が竹内を称したのに始まる。
久我家の諸大夫だった氏治の子孫の正三位大膳大夫・竹内季治(1518年 – 1571年)の時代、将軍・足利義輝の執奏によって竹内家は堂上家に加えられた。しかし、季治は織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したために信長の逆鱗に触れ、元亀2年(1571年)9月18日に近江永原で斬首された[1]。
竹内惟庸は冷泉派の歌人で歌道の名人として知られた。その継嗣・惟永以後は冷泉家一門の藤谷家からの養子が続き、冷泉派の和歌の家となった。
極位極官は正三位非参議だったが、孝治(惟庸の祖父)、惟庸、惟永は特に従二位に叙されている。
江戸時代の家禄は187石。明治維新後に華族として治則が子爵に叙せられた。
系図[編集]
竹内家
幕末の領地[編集]
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の竹内家領は以下の通り。(7村・187石9斗8升7合)
- 山城国葛野郡梅小路村のうち - 72石6升
- 山城国乙訓郡樋爪村のうち - 11石2升7合
- 山城国乙訓郡大山崎庄のうち - 11石8斗
- 山城国乙訓郡石見上里村のうち - 45石8斗
- 山城国乙訓郡大原野村のうち - 10石2斗4升
- 山城国紀伊郡吉祥院村のうち - 9石4斗6升
- 山城国綴喜郡八幡庄 - 27石6斗
脚注[編集]
参考文献[編集]