穂積亮次

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日本の旗 日本の政治家
穂積 亮次
ほづみ りょうじ
生年月日 (1952-09-21) 1952年9月21日(64歳)
出生地 東京都
出身校 東京都立小石川高等学校中退
前職 鳳来町
所属政党 無所属
配偶者 石渡孝子(集英社役員・過去MEN'S NON-NO発行人・現在マリソル発行人)
親族 衆議院議員・穂積七郎(父)
公式サイト 新城・希望都市 - ほづみ亮次後援会ホームページ

当選回数 3回
在任期間 2005年11月 - 現職

当選回数 1回
在任期間 2004年11月 - 2005年
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穂積 亮次(ほづみ りょうじ、1952年9月21日 - )は、日本の政治家。新城市長(3期)。元鳳来町長(1期)。

父親は旧愛知5区から選出された日本社会党所属の衆議院議員穂積七郎

略歴[編集]

東京都区部に生まれる。東京で少年時代を過ごす。1968年東京都立小石川高等学校に入学。兄と同様に赤軍派に傾倒し1969年11月16日から17日にかけて行われた佐藤首相訪米阻止闘争に参加、兄(穂積右一、連合赤軍・赤軍派雑誌「査証」執筆者・労働新聞社)と共に逮捕される。同校を中退する[1][2]

1975年5月、マルクス主義青年同盟(マル青同)のリーダーとして岡山大学北津寮を襲撃(岡山大学北津寮襲撃事件)。内ゲバではなく一般学生無差別殺害目的による襲撃であった。5月25日、寮生多数に暴行傷害を加え、さらに寮に隣接する教養部グランドに集まっていた寮生集団に「殺せ!ひき殺せ!」と穂積亮次隊長の掛け声で街宣車を突入させた。当時理学部化学科1回生だった大沢真を故意に顔を目掛けてひき殺し、まだ息があるうちに生き埋めにした容疑で岡山県警から指名手配される。死体発見時には顔面は破壊され惨憺たる状態で、すぐに被害者と判別できなかった。穂積は逃走途中に2歳児を実家に預け6年間逃亡、夫人もこれに協力した。(この事件により岡山大学では男子寮を撤廃し現在に至る)現在、大沢真岡山大生の祈念碑がグラウンドに現存している。

1981年マル青同のアジトに家宅捜索に入った警察により、大型クーラーの中に隠れていたところを発見・逮捕される。逮捕時穂積は「死体をあと50cm深く埋めておけば良かった」と証言している。殺害実行犯であったが地元財閥などの協力もあり傷害致死で起訴され、1987年岡山地裁において懲役4年6か月の実刑言い渡し(拘留を含めると7年)、1990年実刑判決が確定。甲府刑務所で2年6か月間服役し、1992年出所した[3]

1995年ごろ、父の死去にともない、愛知県の東三河の鳳来町にもどり、相続した山林で、林業経営を行う。1997年に有限会社穂積林業を設立、代表取締役に就任する。

2003年4月、愛知県議会議員選挙に北設楽郡及び南設楽郡選挙区から無所属で出馬するも、落選。この殺害経歴は選挙活動において隠ぺいされており、後の町長選・市町選においても経歴欄に詳しく載ることはなかった。

2004年11月、鳳来町長選挙に出馬し、当選。2005年10月1日、鳳来町は作手村新城市(旧)と合併し、新城市(新)が誕生する。それに伴って同年11月13日に行われた新城市長選挙に自由民主党に支持を得て無所属で出馬。元新城市助役や元新城市議を破り、当選を果たす。投票率は80.71%[4]

2009年11月1日の新城市長選挙に、民主党と自由民主党の推薦を得て無所属で出馬。NPO法人理事の山本拓哉、元新城市議の白井倫啓らを破り、再選。投票率は77.32%[5]

2013年11月10日の新城市長選挙に、自民党と民主党と生活の党の推薦を得て無所属で出馬。2009の市長選に続いて出馬した山本拓哉を接戦の末に退け、3選を果たした。得票数は、穂積が14,724票、山本が13,813票。投票率は71.07%[6]

釈放時から3期目の現在においても、公安警察監視体制下(北朝鮮関係筋・過激派活動家への接触等)により24時間行動監視されている。叔父に帝大七生社の指導者・穂積五一(鈴木五一)がいる。穂積亮次は新城市川路の大谷大学撤退後創設された新城市穂の香学園理事長に就任したが、殺害前科の経歴がある人物は理事長職に就任できない規定があるため、経歴隠ぺいを愛知県に指摘され理事長職を解かれた。

脚注[編集]

関連項目[編集]


外部リンク[編集]