秋葉敬三
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1946年11月11日(77歳) |
身長 体重 |
172 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1968年 ドラフト11位 |
初出場 | 1969年9月9日 |
最終出場 | 1971年4月21日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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秋葉 敬三(あきば けいぞう、1946年11月11日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]鹿児島商業高校では1年生の時、1962年夏の甲子園に控え投手として出場。準々決勝に進出するが、林俊彦、木俣達彦のバッテリーを擁する中京商に敗退[1]。この試合でエース浜崎正人をリリーフし甲子園初登板を果たす。チームメートに中原勝利、下須崎詔一がいた。
高校卒業後は、社会人野球のリッカーミシンに入団。その後、鹿児島鉄道管理局に移籍し1965年からエースとなる。1966年の都市対抗では1回戦で先発したが1失点で2回途中降板。1967年の全国鉄大会で、高崎鉄道管理局を相手に完全試合を達成し脚光を浴びた。同年の都市対抗には日本鉱業佐賀関の補強選手として出場。1回戦で池田重喜を好リリーフ、電電東北を降すが、2回戦は池田が完投するも日本コロムビアに敗退、翌年の都市対抗は電電九州の補強選手として1回を投げた[2]。
1968年のプロ野球ドラフト会議で西鉄ライオンズから11位指名を受け、翌1969年のシーズン途中に入団[3]。
入団当初はシュートを武器にしていたが、1969年の秋の練習でスライダーを取得。1970年には主に中継ぎとして22試合に起用されたが、その後は登板機会に恵まれず、1972年限りで引退。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1969 | 西鉄 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | -- | .000 | 62 | 13.2 | 19 | 2 | 4 | 0 | 2 | 5 | 1 | 0 | 9 | 7 | 4.50 | 1.68 |
1970 | 22 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | -- | -- | .000 | 175 | 39.1 | 45 | 6 | 14 | 0 | 1 | 20 | 0 | 0 | 22 | 19 | 4.38 | 1.50 | |
1971 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 8 | 2.0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.50 | |
通算:3年 | 29 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | -- | -- | .000 | 245 | 55.0 | 67 | 8 | 18 | 0 | 3 | 25 | 1 | 0 | 31 | 26 | 4.25 | 1.55 |
記録
[編集]- 初登板:1969年9月9日、対阪急ブレーブス22回戦(北九州市営小倉球場)、6回表に3番手で救援登板・完了、4回2失点で敗戦投手
- 初先発登板:1969年9月14日、対近鉄バファローズ22回戦(平和台球場)、3回1失点で勝敗つかず
背番号
[編集]- 14 (1969年 - 1970年)
- 37 (1971年 - 1972年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 秋葉敬三 - NPB.jp 日本野球機構