秋山皐二郎

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秋山 皐二郎(あきやま こうじろう、1910年明治43年)2月22日 - 2007年平成19年)9月28日)は、青森県政治家。第13〜17代八戸市長。

来歴・人物[編集]

1952年(昭和27年)に八戸市議会議員に当選し、さらに青森県議会議員を3期務めた。1969年(昭和44年)に中村拓道を破って八戸市長に当選し、5期務めて史上最長任期となった。

政策[編集]

秋山は市長就任後、以下の3つの政策方針をあげて市政に取り組んだ。

  • 市民所得を全国並みに引き上げること
  • 生活関連の環境整備
  • 教育施設の整備充実

その後東北新幹線の太平洋回りルート獲得に向けて尽力した。また八戸大橋やJR八戸線の高架化、八戸市公会堂の建設に取り組んだ。

教育・文化[編集]

三条中学校轟木小学校多賀台小学校下長小学校を防音校舎化し、建替え後の廃材を地元の集会所建設に活用した。

また、1970年昭和45年)6月に八戸市民大学講座をスタートさせた。市民大学講座の講師に来ていた女優の杉村春子に「八戸市での『女の一生』公演時に会場での雨音が大きくて舞台が台無しになった」と秋山に話したことがきっかけとなり、八戸市公会堂の建設へとつながる。このほか、八戸市民大学講座では石森延男三浦哲郎・小林茂・高坂正堯松下正寿・小井田幸哉が講師になっている[1]

夢の大橋建設[編集]

岩岡徳兵衛市長時代からの懸案であったが、新産業都市の港湾道路の建設と位置づけ、八戸大橋八太郎大橋の建設費を国が負担することとし、八戸市の負担金をゼロにすることにこぎつけた。

東北新幹線太平洋回りルート獲得[編集]

1971年昭和46年)頃から盛岡以北の東北新幹線のルートをめぐり、誘致合戦が活発化した。当時秋山は「万が一、太平洋回りが実現しなかったら市長は辞任する」と公言していた。当時の首相である田中角栄の自宅にも何度も陳情に訪れるなど、様々な誘致活動を行った。

こうした誘致活動が実を結び、1973年昭和48年)に国鉄と鉄道建設公団が太平洋回りルートの優位性を認め、誘致合戦に事実上の決着がついた。

関連人物[編集]

  • 巻石蔵(かつて海軍大尉を務め、復員後改めて東京大学を卒業し八戸市助役として秋山本人から絶大なる信頼を寄せられていたが、後継市長に就任する旨の要請は固辞した)
  • 正部家種康

脚注[編集]

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  1. ^ 新編八戸市史通史編Ⅲ近現代(八戸市)

参考文献[編集]

  • 「雨洗風磨 秋山皐二郎回顧録」1990年、東奥日報社

外部リンク[編集]