福井義男

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福井 義男
生誕 1913年4月10日
日本の旗 日本 香川県
死没 (1989-06-30) 1989年6月30日(76歳没)
日本の旗 日本 香川県
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1931年 - 1945年
最終階級 海軍大尉
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福井 義男(ふくい よしお、1913年4月10日 - 1989年6月30日)は、大日本帝国海軍の軍人。操練26期。最終階級は海軍大尉日中戦争及び太平洋戦争海軍航空隊員として従軍し、11機(不確実4)[1]もの敵機を撃墜したエース・パイロットとして知られる。

経歴[編集]

1913年4月10日香川県に生まれる。1931年、佐世保海兵団に入団、整備兵となるも、1934年(昭和9年)9月、操縦練習生となり翌1935年(昭和10年)3月修了。同期生に松場秋夫(18機撃墜)、佐藤仁志(8機撃墜)、大平寺飛行場に強行着陸した大石英男ら。大村海軍航空隊鹿屋海軍航空隊を経て、空母「龍驤」飛行隊。

1937年(昭和12年)8月22日宝山方面にて兼子正中尉指揮の95式艦戦4機編隊の2番機として哨戒行動中、カーチス・ホークⅢ英語版及びボーイング281戦闘機など敵18機編隊と遭遇、交戦の末、30分間足らずで単独3機、部隊で6機撃墜の戦果を挙げる[1][2]。9月21日、広東攻撃で2機を撃墜。12月、横須賀海軍航空隊に転じ内地に帰還[1]

1937年(昭和12年)4月、空母「加賀」飛行隊に転じ、再び南支作戦に従事。9月13日、柳州攻撃でカーチス・ホークを1機撃墜、反復して対地攻撃を行う。12月、空母「赤城」飛行隊に転じる。谷田部、鹿屋、百里原大分海軍航空隊教員。1941年(昭和16年)4月、空曹長昇進[1]

1943年(昭和18年)6月、「瑞鳳」飛行隊(長:佐藤正夫大尉、海兵63期、11月11日戦死)に転属。11月1日、ラバウル基地に進出。翌2日11時40分、P-38 80機とB-25 75機の空襲を受け[3]、B-25 1機を撃墜するも、P-38編隊に撃墜され、右足にやけどを負ったが、3日後に復帰し、数次の空戦に参加のちトラック島に復帰した[1]

1944年2月、新設の601空入佐俊家中佐)に転属。「瑞鶴」に乗組み、あ号作戦に参加。6月19日、第一次攻撃隊制空隊小隊長として出撃、1機を撃墜(不確実)。翌20日夕、母艦直衛任務をつとめ、米攻撃機と交戦。7月、653空戦闘第165飛行隊に転じ、再び瑞鶴乗組として10月24日に比島沖海戦に参加。機動部隊攻撃に参加後、母艦に帰還したが、撃沈され駆逐艦に救助された。11月、戦闘第304飛行隊に転じ、陸路でパレンバン基地に向かう。翌年1月、本土に帰還し、302空附となりそのまま終戦を迎えた[1]

1989年6月30日に香川県で死去。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 秦郁彦伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4-499-23045-2 
  • 零戦搭乗員会 編『海軍戦闘機隊史』原書房、1987年。