神林浩
神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月14日[1][2][注 1] - 1966年(昭和41年)4月12日[1][2][注 2])は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。旧姓・小岩井。
略歴
[編集]長野県出身[1][3][4]。小岩井永次郎の二男として生まれ、神林玄進の養子となる[1]。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1917年(大正6年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第56連隊付となる[1]。1918年(大正7年)6月、久留米衛戍病院付となる[1]。1920年(大正9年)8月、陸軍軍医学校に専攻学生として入学[1]。1921年(大正10年)4月、一等軍医に昇進[1]。その後、東京陸軍幼年学校付、陸軍省医務局課員を務め、1925年(大正14年)3月、医学博士の学位を受けた[1]。
1926年(大正15年)3月、三等軍医正に進級し竜山衛戍病院付となる[1]。1927年(昭和2年)7月、医務局課員に就任し、兼軍医学校教官を務め、1930年(昭和5年)8月、二等軍医正に昇進[1]。1935年(昭和10年)3月、東京第二衛戍病院(現国立成育医療研究センター)長に就任し、同年8月、一等軍医正に進んだ[1][4]。
1937年(昭和12年)3月、医務局衛生課長に転じた[4]。小泉親彦医務局長を補佐して厚生省の設立に尽力した[2]。1938年(昭和13年)12月、軍医少将に進級し軍医学校幹事兼教官となる[1][3][4]。1941年(昭和16年)3月、北支那方面軍軍医部長に発令され日中戦争に出征[1][3][4]。同年11月、軍医中将に進んだ[1][3][4]。同年12月、支那派遣軍軍医部長に転じ、1943年(昭和18年)3月、陸軍省医務局長に発令されて帰国し終戦を迎えた[1][3][4]。1945年(昭和20年)11月に復員した[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
その後、開業医となった[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章