苅萱

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苅萱(かるかや)とは、出家した武士、苅萱道心とその息子石道丸[1]にまつわる物語。説経節浄瑠璃歌舞伎読本などで作品化されている。説教節では「五説教」のひとつであり、代表的な演目のひとつとして扱われてきた。近年では教育まんがなどでも作品化が試みられている。主人公の名を付し、石童丸(いしどうまる)と称されることがある[注釈 1]

あらすじ[編集]

説経節『苅萱(かるかや)』(寛永8年(1631年)、しやうるりや喜衛門板)
妻子を捨てて家を出る苅萱道心(加藤繁氏)

加藤左衛門尉繁氏は、の醜い嫉妬心(上辺は親し気に振る舞いながら髪の毛がと化して絡み合う様子)を見て世の無常を感じ、領地と家族を捨てて出家し、寂昭坊等阿法師、苅萱道心(かるかやどうしん)と号して、源空上人(法然)のもとで修行し、高野山に登った。

その息子である石童丸は、母とともに父親探しの旅にでる。旅の途中に出会った僧侶から父親らしい僧が高野山に居ると聞く。高野山は女人禁制 母を麓の宿において一人で山に登り、偶然父親である等阿法師に出会うが、父親である等阿法師ははるばる尋ねてきた息子に、棄恩入無為の誓のために、自分があなたの父親ですと名乗ることはせずに、あなたが尋ねる人はすでに死んだのですと偽りを言い、実の父親に会いながらそれと知らずに戻った。石童丸が高野山から戻ると母親は長旅の疲れが原因ですでに他界していた。頼る身内を失った石童丸はふたたび高野山に登り、父親である等阿法師の弟子となり、互いに親子の名乗りをすることなく仏に仕えたという哀話。

成立[編集]

苅萱物語は高野山萱堂を中心とする萱堂聖と呼ばれる集団によって生み出され、伝承されてきたと言われる[2]。その原型となる遁世説話が中世にはいくつかあり、『西行物語』序盤の西行が出家に至るくだりや、『平家物語』の斎藤時頼出家の逸話も、そのひとつに挙げられる。室町時代に入り、それらの原型となる説話から謡曲、説教の『苅萱』が作られた[3]

江戸時代中期に説教を元に、浄瑠璃『石童丸』、『苅萱道心物語』が作られ、歌舞伎『苅萱桑門筑紫いえづと』(1735年)へと発展した。また、日本各地の苅萱伝説を集成した勧化本『苅萱道心行状記』(1749年)が作られ、以来、妻と妾の争いなど従来にないエピソードの追加や、二人の出家後の房号法名など新たな設定が盛り込まれるなど、物語が整えられていった[3]

伝説[編集]

  • 崇徳天皇の頃、博多守護職だった苅萱道心の父、加藤繁昌は子宝に恵まれず、香椎宮に祈願したところ「石堂口付近に玉のような温石があり、それを妻に与えると男子が出生する」とお告げがあり、探してみたところ古い地蔵尊の左手に卵のような形の光を放つ石をみつけた。やがて妻は懐胎し、生まれた子供に石堂丸と名付けた[4]。温石のあった石堂地蔵は博多にあった七堂のひとつであり、刈萱地蔵、子授け地蔵と呼ばれている。成長した石堂丸は加藤左衛門尉繁氏として父の守護職を継ぎ、太宰府の刈萱の関の関守となった。太宰府市坂本には刈萱の関跡の標柱があり、伝説のゆかりの地とされている[5]
  • 高野山に去った繁氏を追った妻の千里は播磨国太山寺で石童丸を出産したと伝えられ、神戸市西区には石童丸産湯の井戸がある[3]
  • 高野山北麓の参詣口にあたる学文路に至った石童丸母子は玉屋という宿屋に逗留したが、千里はこの地で亡くなったという。橋本市学文路の苅萱堂仁徳寺には、苅萱親子を祀る親子地蔵と千里の墓がある[3]

芸能・文学上の「苅萱」[編集]

中世に起源をもつ「苅萱」の物語は当時を生きる人の胸をうち、以来、多くの芸能文学で扱われる重要なテーマとなってきた。以下にその代表例を掲げる。

  • 『苅萱』(説教節、謡曲
  • 『苅萱道心行状記』(勧化本
  • 『苅萱道心物語』(浄瑠璃)
  • 『石童丸苅萱物語』(読本滝沢馬琴1806年
  • 『苅萱道心』(歌舞伎)
  • 『苅萱絵詞伝』(絵解き
  • 『苅萱親子一代記』(勧化本)
  • 『石童丸』(浄瑠璃)
  • 『石童丸のお話』(絵解き)

関連項目[編集]

  • 西光寺 - 石童丸の父親である刈萱上人が開いたと伝わる寺院。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 苅萱物語は出典によって「石塔丸」「石道丸」「石堂丸」「加藤重氏」「刈萱」など表記ゆれがみられる。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 久野俊彦 『絵解きと縁起のフォークロア』 森話社、2009年ISBN 9784864050012 
  • 劉寒吉; 角田嘉久 『福岡の伝説』 角川書店〈日本の伝説〉、1979年 

外部リンク[編集]