石田アヤ

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石田 アヤ(いしだ アヤ、1908年9月10日 - 1988年2月18日)は昭和の教育者。 文化学院の創立者、西村伊作の長女。 英文学を専攻し、1931年に母校文化学院の教授となり、1963年から父の後を継ぎ、校長になる。

経歴・人物[編集]

和歌山県新宮市出身。父・西村伊作、母・光恵のあいだに長女として誕生。 十二歳のとき、父が訳し聞かせた『ピノキオ』を文章化、挿絵を描いて大正9年(1920年)キンノツノ社から出版する。 大正10年(1921年)に父がアヤのために設立し校長を務める文化学院に入学。やがて文化学院を卒業すると、追加創設された本科(大学部)に進学する。 昭和3年(1928年)文学科を終えると卒業式をまたず渡米し、アメリカマウントホリヨーク大学に入学する。 昭和6年1931年にアメリカでの三年の留学、その後パリにまわり見聞を広めた後、日本に帰国し母校である文化学院英文科で教える。 やがて当時の青年の文化運動として盛り上がっていた日米学生会議の準備に参加。動物学者・石田周三と結婚。 1946年文化学院に新しく三科(美術科、日曜美術科、英語科)が創設され、彼女は学監(英語科科長兼任)に就任する。 1963年に父・伊作の没後、校長に就任。1988年に亡くなるまで校長を務める。娘は文化学院副院長を務めた立花利根[1]

著書[編集]

  • 『私たちのエチケット』雄鶏新書 1948
  • 『吉野屋のみっちゃん』鎌倉書房 1980

翻訳[編集]

脚注[編集]

  1. ^ [1]

関連項目[編集]