石川豊人

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石川豊人
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 延暦9年5月3日790年6月19日)または延暦10年5月4日791年6月10日
官位 従四位上大蔵卿
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 蘇我氏石川氏
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石川 豊人(いしかわ の とよひと)は、奈良時代貴族官位従四位上大蔵卿

経歴[編集]

春宮大進中務大丞を経て、聖武朝末の天平20年(748年従五位下叙爵し、翌天平勝宝元年(749年孝謙天皇即位後まもなく少納言に任ぜられる。その後、孝謙朝では主税頭越中守淳仁朝では造宮少輔・大輔称徳朝では刑部少輔を歴任する。この間に発生した多くの政変には巻き込まれずに済んだ一方で、春宮大進として仕えた阿倍内親王(孝謙天皇・称徳天皇)の治世が相当期間あったにもかかわらず豊人の昇進は滞り、天平宝字8年(764年)の従五位上への昇叙に留まっている。

宝亀元年(770年光仁天皇即位後間もなく右少弁に任ぜられると、宝亀5年(774年正五位下、宝亀7年(776年)正五位上次いで従四位下と、光仁朝では弁官を務めながら順調に昇進する。光仁朝末の宝亀9年(778年大和守に任ぜられ、地方官に転じる。

天応元年(781年桓武天皇が即位すると出雲守に遷される。しかし、延暦4年(784年)になると従四位上・右京大夫に叙任されて京官に復し、のち中宮大夫大蔵卿武蔵守を歴任した。

延暦9年(790年)5月3日または延暦10年(791年)5月4日卒去[1]。最終官位は大蔵卿従四位上。

東京都世田谷区大蔵は、晩年、豊人が大蔵卿と武蔵守を兼任していた頃、居住していたことに由来すると伝えられる(『江戸名所図会』)。

官歴[編集]

続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』の延暦9年5月3日条と延暦10年5月4日条の両方に卒去の記載がある。
  2. ^ 『大日本古文書(編年文書)』2巻422頁
  3. ^ 『大日本古文書(編年文書)』9巻139頁

参考文献[編集]