石川理紀之助

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石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ、1845年4月1日弘化2年2月25日) - 1915年(大正4年)9月8日)は秋田県生まれの老農(篤農家)。明治から大正期の国内有数の農業指導者。秋田県種苗交換会の先覚者。秋田の二宮翁と称せられ、その生涯を農村の更生、農家の救済、農業の振興のために捧げつくした功績は全国に知られ、【老農、農聖、聖農】と敬称されている。【老農】とは、幕末から明治期にかけて在来農法の有効性を主張し農業技術を改善した農民たちの尊称、【農業の賢人】のこと。和歌を詠むことを日課とし、各地の歌人と交流を持つ一流の文化人であった。【寝ていて人を起こすことなかれ】は、石川理紀之助翁の遺訓として有名である。著書は871冊。生涯の詠歌数は25万から30万首で、真率な詠歌は人の心を打つ。

来歴・業績[編集]

羽後国秋田郡小泉村(現・秋田県秋田市金足小泉)の奈良周喜冶の三男。旧姓は奈良、初名は力之助、歌号は貞直。奈良家の宗家は金足村の豪農で、旧奈良家邸宅は現在秋田県立博物館の付属施設として現存し、1965年に国の重要文化財に指定されている。奈良家には江戸時代の文化人である菅江真澄が逗留している。石川理紀之助も菅江真澄が残した文章を収集していた。理紀之助は、1898年に自らの蔵書を焼失したことから、郷土の古書を活字にして残そうと出版を計画。理紀之助が編輯して発行した『秋田のむかし 巻一 1898年』には菅江真澄が書き写した『房住山昔物語』が転載されている。真澄による書写本とはいえ、真澄の著作が活字になったのは、これが最初である。

1849年、5歳の頃、祖父喜一郎(号は甦堂、両湖)より文字を習う。1853年、9歳、手習師匠の神谷与市左衛門(一説に、神谷与左衛門、神谷市左衛門)に就き、習字を学ぶ。発句の会で「硯にも酒を飲まする寒さかな 力之助」という句を作って一座の人を驚かしたという逸話が残っている。この発句は、寒中の硯水が凍るのを防ぐため、祖父が硯に酒を混ぜて墨をするのを知っていたからである。1854年、10歳、隣村高岡村の奈良三治の寺子屋に通った。

1855年、11歳、奈良家宗家に2回ばかり来ている菅江真澄の墓を秋田郡寺内村(現 秋田市寺内)に詣でて発見。詣でた日がちょうど真澄の27回忌の命日あたる7月19日で、その偶然に感激して、嬉しさのあまり、思わず「なき人を 慕う心や かよいけん 思わず今日の 時にあうとは」の和歌を吟じている。この和歌が理紀之助の詠歌の最初である。

1858年、14歳、同村の奈良家宗家主人の奈良喜兵衞に若勢奉公する。 (「やがて年少なれど若勢20余人の若勢頭となる」との従来の説は、奈良家宗家の田地規模約百町歩(10万刈)のうち手作りは2町歩であることから、若勢2~3人の若勢頭であったと見直されている。)

1859年、この頃より早起きの習慣を養い、生涯午前2時前後の起床をなす。1860年秋田三歌聖の一人、秋田城下西善寺の蓮阿上人に就き、和歌を学ぶ。1年半の間に約1万5千首の和歌の添削を受け、進境を示す。1861年、17歳、蓮阿上人から貞直の歌号を授けられる。娘の婿にと見込んでいた宗家主人の奈良喜兵衞は、力之助の歌詠みや学問をやめさせようとして、留守中に歌稿と書物の一切を焼き捨てる。 1863年、19歳、自分の意思なく奈良家宗家の娘の婿として結婚させられる。一説に宗家の長男岩治の養弟となる。しかしながら、奈良家の分家法に従って42歳まで働いて、後に12~13町歩(一説に1万刈)の田地を貰った分家ではたいしたたことはない。好きな学問を修め、歌道を究めたいと考え、江戸への遊学を願ったが許されなかった。理紀之助はこのままの人生を送るにはとりかえしのつかないものになってしまうことを感じ、僅少の小遣い銭を持ち、宗家を脱し江戸を目指して家出した。途中、蓮阿上人に相談し、励まされた。しかしながら、旅費が乏しく、平鹿郡十文字町に到った時に懐中無一文となり、雄勝郡川連村(現 湯沢市川連町)の高橋利兵衛に奉公する。高橋家は、漆器の製造販売、染屋、蚕糸の製造業、酒屋、木綿商を営み、使用人が100人もいる豪商の大家であった。理紀之助は裏地の蔬菜畑や養鶏などの世話をし、極めて寛大な待遇を受けていた。高橋利兵衛は、理紀之助の読書、詠歌の勉学に感心。ある日、野村という所に後藤逸女という和歌の大家がいるから訪ねてみよと語った。後藤逸女は、秋田藩の江戸藩邸に出仕するも、父の発病で一切の名利栄達を捨てて帰秋し、翌年父を亡くし、母を養い、夫に仕え、病身の子供の看病にその一生をささげ、そこに自分の生きる喜びを見い出して生活をしている人生の達人であった。理紀之助は、後藤逸女が有名な歌人であることを知っていたが、もはや故人になったことと思っていた。存命中と聞いて、飛び立つばかりに喜び早速野村の逸女を訪ね、来意を述べた。理紀之助は、歌道や和学の話を聴き、その蘊蓄の深さに敬服した。逸女は当時49歳、孝子として、貞女として、歌人として、すこぶる孝徳の老婦人であった。理紀之助は、逸女が悟りの生活に徹し、誠なるものを求めてせまらない姿を見て感動した。古い農民生活、ただ働きそして虫けらのように死んでいくはかない運命にあきたらなく、自分の人生を求めてここに逃れて来た理紀之助である。貧しい老婆がこの天地の間に実に大きく悠然として息づいている素晴らしい現実に驚いた。理紀之助はここで後藤逸女とめぐりあい、自らの生きる方向をはっきりとつかむことになる。理紀之助は、川連村滞在中の1ヶ年、暇ある毎に逸女を訪れ、歌道に精進する。そして和歌や和学の話を聴いて、自らの生きる理想を確かなものとして育てていった。かくして、理紀之助は、後には思うこと、言うことが直に和歌になった。

歌人を志して家出した理紀之助は、後藤逸女の紹介で、61歳の高橋正作に会い、自らの人生の方向を決める。高橋正作は、肝煎(村長)で、私財を投じて天保の大飢饉から農民を救い、地元の院内銀山を日本一の銀山に復活させた人物である。「自分は、窮民を命がけで救済する正作翁のような農業指導者、そして実践の教えを和歌で示す歌人にもなる。窮民を救い、教えを書で示す生涯こそがもっとも尊い」との志を抱いた。

1864年、父の召しに応じ、遊学を断念し帰る。7月宗家より離縁となり、復籍。生家で父の農耕を助け、家業に励んだ。1865年、21歳、下虻川の肝煎の口ききで、隣村である山田村(潟上市豊川山田)の肝煎 石川長十郎の娘 志和子(シワ、スワ)と結婚し、婿となる。石川家の借金を5年で返済する。1866年、22歳、この頃、小作米取立法を定める。また、雑木林、貯水池の紛争を解決する。

1873年から10年間、秋田県庁の勧業課に出仕する。その間、秋田県に現在まで残るイベントである種苗交換会を開設した。また、1880年歴観農話会を組織して、秋田県の農業の土台を作った。貧農を救済したいという思いから、秋田県庁を辞職。辞職してからは生涯を農家経営の指導や、農村経済の確立に尽くした。当時は高利で借りた借金から、自作農が減少し、夜逃げする農民が頻発するようになっていた。理紀之助は「農民全てが豊かになり、みんなが自作農にならないかぎり、この指導は成功しないのではないだろうか。」と思っていた。

理紀之助はまず山田村の借金を返す計画を建てた。堆肥を2倍にしたり、生活費をきりつめたり、藁製品や蚕、果物を販売しそれをもとに借金を7年で返済することを計画した。 山田村経済会を組織して、借金の有無にかかわらず村人が一致団結して事業に取り組むことを誓った。村人に朝仕事を励行させるため、石川は午前3時に板を打った。それから、一軒一軒まわって歩き、村人を励ました。石川は人間の弱い心を配慮して、まだ寝ている家も無闇に叱咤することは無かった。収入が殆どない貧農の小作農の気持ちや実態に合った指導ではないという批判に対して石川は草木谷で実際に貧農の生活を経験し、自らの主張する方法が貧農救済に役立つということを身をもって示した。

1880年には県会議員に当選している。当時の選挙法は立候補を必要としていなかった。驚いた石川は直ぐに辞職をしている。

1888年、44歳、井上馨農商大臣の招きで妻と上京。農商務省で、山田経済界の実績を発表した。その際に披歴した信条の一つが14ヶ条の【経済の言葉】である。【寝ていて人を起こすことなかれ】の有名な訓言は、この時に発表されたものである。この訓言は、実践躬行、率先垂範を意味し、理紀之助の深いあたたかな人間愛から生まれてきた格言である。これらの講話の一切が『農商工公報』第46号附録となって刊行され、全国の関係官庁や有志に頒布される。帰途、山梨県知事の前田正名に招かれて甲府にて講話し、身延山に参詣。また、千葉県を視察、講話をした。

1889年、45歳、山田村経済会の借金返済計画は見事にみのり、計画の7年より2年短い5年で借金の全額を返済した。世人は目をみはって奇跡に近いこの成功の秘策を尋ね、その実績と過程についての発表を求めた。世論の反論を素直に受け、自ら貧農生活実践のため草木谷の山居生活に入る。草木谷は、自宅から1.2km離れた谷の名称。理紀之助は、この谷間に独居して7反歩位の耕地の小作人となって貧農生活を始める。

1890年、政府は予算で650万円削減したが、国庫の収入の増額を地租の増収とした。650万円は国費総額の5分の1にあたる。理紀之助はこの時、6500字の意見書を書き、具体的数値をあげ統計を引用し、古今、東西の事例と比較して理路整然と地租増収の反対を論述している。1891年、理紀之助は地価修正反対委員として沢木晨吉、目黒貞治と上京。当時の秋田県の国会議員五氏(二田是儀、成田直衞、佐藤敏郎、斎藤勘七、武石敬治)を応援し、政府に意見書として発表し、天下の公平な判断を仰いだ。反対委員は、実地調査意見書の理紀之助、運動者は嵯峨重郎と目黒貞治、会計は沢木晨吉と北島孫吉であった。地価修正案は、3月14日の衆議院議会で、18票差で否決された。

1894年9月1日の第4回衆議院議員選挙に、秋田県第1区から立候補し、落選。得票数は、目黒貞治が632票(当選)、大久保鉄作が531票、理紀之助は2票。石川理紀之助は、記録上では、この選挙に立候補したことになっている。しかしながら、理紀之助は選挙に関わらないことを家訓にしており、理紀之助の史料に立候補した記録も残っていない。従って、理紀之助本人の意思による立候補であったかは、今後の研究課題である。

1894年11月、50歳、同志3名(森川源三郎、伊藤福治、佐藤政治)を伴い、東京にて雄勝郡の中島太治兵衛も一行に加わり、東京芝公園の弥生館で開催された第1回農事大会に出席。総裁の北白川宮殿下から日本一の老農として大日本農会紅白綬有功章を受け、閉会式に全会員を代表して答辞を述べた。前田正名の企画で、北白川宮殿下の台命によって農事奨励のため九州各地の巡回講演を委嘱される。途中、広島大本営に天機を奉伺し、質素なる明治天皇の日常を拝見し感激を新たにする。翌年5月まで、熊本県1市8郡の9ヶ所、宮崎県7郡の8ヶ所、鹿児島県1市7郡の9ヶ所、長崎県1市5郡の11ヶ所、福岡県15郡21ヶ所、大分県の九州6県(佐賀県除く)の73ヶ所で延べ1.5万人を前に山田村救済と草木谷の貧農生活を講演した。 1895年、51歳、町村農会設立のため奔走し、南秋田郡農会長となる。さらに、県農会を設立し、初代会長となる。理紀之助と森川源三郎の努力によって秋田果実組合が設立される。9月、山形市で開催された奥羽農事大会で講演。12月、四国各県、千葉県を巡回講演した。

1896年、秋田県農会の委嘱を受け、県内7郡48町村の適産調を開始する。理紀之助の肩から下げた袋の中には、どこで倒れてもよいように、顔を覆う白布、葬儀料、届けのための戸籍謄本が入っていた。適産調は、現代風に言えば、地域農業の関係者が協力し、農地、施設、労働力などの農業資源の分析や営農計画の策定、その具体的活動計画の推進の基礎を担ったものと考えられる。理紀之助は、最終日には徳行者と功労者を表彰し、感謝状を贈った。適産調の目的は、農業の衰退を回復し、将来の維持方法を設け、かつその実行の順序を確定するための資料を作成し、農家の本分を尽くして公共心を養い、町村経済の基礎を強固にするためである。適産調の調査内容は、土地によって気候や土質などの環境が異なるため、農村戸数、人口、土壌、気候、租税負担、土地所有、経済状況、生産状況、労働の仕方、生活習慣、農業団体、副業、村の歴史などである。南秋田郡は35町村のうち、16町村は適産調、19町村は土壌調査のみ実施した。1902年まで7カ年の歳月を費やして、秋田県と福島県三代村の2県8郡49町村を調査し、731冊の本にまとめた。

1897年から2年間、県内の凶作のため県内58ヶ所を巡回し救荒策を実施。1898年5月23日草木谷山居が焼失し、日誌、詠草、著書70余巻、蔵書二千余巻をことごとく失う。1899年、55歳、国法による農会法が設けられ、従来の県農会、郡農会廃止と共に会長を辞す。1901年、57歳、賞勲局から農業功労者として緑綬褒賞に銀杯を併せて下賜される。1901年、57歳、農商務次官で大日本農事幹事長であった前田正名から、桜島の噴火で宮崎県中霧島村谷頭地区に避難した農民の立て直しを依頼される。

1902年58歳の時、森川源三郎、佐藤政治、伊藤甚一、伊藤与助、田仲源治、伊藤永助、佐藤市太郎の同志7名と自費で宮崎県へ行き、農民を救う。一行8人は、前田正名の事業に協力して、宮崎県中霧島村谷頭地区(現 都城市山田町地区)の村づくり指導で、6ヶ月間滞在した。理紀之助らは、日中は地区内を巡回して農業を指導し、夜は宿所兼夜学校で、礼儀作法、算術、読書、作文、竹細工などを指導した。わずか半年間の夜学会ではあったが、理紀之助らの懇切丁寧な指導は地区民の信望を集めた。また、先祖の苦労を忘れないために、祈念碑【しまうつりの碑】を建立した。

1903年、59歳、和歌の師 中島歌子の葬儀に参列。同年、後継者の次男 老之助が病没 享年34。1905年、61歳、自ら棺及び墓碑を用意しつつ、世のために奔走。1907年、63歳、御歌所長高崎正風の古希寿宴に地方三歌人として招かれる。1908年、64歳、東宮殿下秋田行啓に際し令旨及び御菓子を賜る。1908年と1911年には、東北歌道大会を秋田で開催。当時の御歌所長の高崎正風を2回までも招待して、歌道の普及に尽力される。地方人にして詠進し、御下賜品をいただいたのは、異数の光栄であった。1908年有栖川宮家10代威仁親王妃 慰子様より理紀之助に詠進の内命があったので、「山賊(やまがつ)が 市にひさげる 炭俵 口ばかりこそ よき世なりけれ」の和歌一首を奉る。1911年、妃殿下は、手箱と菊紋形短冊箱の御下賜品に添えて、「世の中の 人のねぶりも さますべし 天(あめ)にちかひて つくかねの音(ね)は」の和歌一首を贈られた。

1910年、66歳、山田部落民、理紀之助を神として神社に合祀。同年、秋田県米穀検査所生産米検査部長を拝命。 1912年、秦豊助秋田県知事から懇望されて秋田県仙北郡西仙北町強首村九升田の農民を救済・更生指導した。 同年、森正隆新潟県知事(前秋田県知事)に招かれて、新潟県で講話。1913年、森正隆宮城県知事に招かれて、宮城県で講話。1914年、福島県、宮城県、岩手県に、出張講話する。7月17日、妻 志和子病没。墓表は前田正名の書で「石川理紀之助宝 志和子之墓」。同年、平鹿郡角間川町木内布晒地区の救済事業に着手。

1915年、北秋田郡阿仁合町の菊池長三郎が、「石川理紀之助百歌集(原本の外題は石川理記之助百歌集)」を装丁する。同年、強首村九升田指導第一期完了。同年8月17日、この日から床に伏す。辞世の和歌は「何をいわん 妻さえ子さえ わが身さえ生きて心に まかせざる世に」、「歌袋 ひとつたずさえ いでたたん 玉もこがねも 身にもたずして」。1915年9月8日永眠、享年71。法名は天聖院殿実禅密行大居士。農事改良の功労者として従七位追贈。

1918年9月8日、秋田市八橋の日吉八幡神社に【石川翁碑】が建立される。碑文は前田正名の撰並書。三浦亀朋刻。1921年8月28日、石川翁の7回忌を記念すべく、尚庵歌会の発起の下に広く歌友の出捐を得て歌碑「み可くそ能 力耳よ里亭 瓦とも 玉ともなる盤 故々ろなり介利」が建立される。三浦亀朋刻。1936年、南秋田郡教育会と南秋田郡小学校長会により、理紀之助の業績を讃える記念碑【石川翁山居之跡碑】の除幕式が南秋田郡豊川村(現 潟上市昭和)山田草木谷で盛大に開催された。表碑題額の【石川翁山居之跡碑】は内務大臣後藤文夫の書。その下に理紀之助の格言【寝帝居帝人をおこ春事勿連(寝ていて人を起こすことなかれ) 草木谷】が刻されている。裏側の1935年10月13日の碑文は山口蘭溪の書。三浦亀朋刻。

1937年初秋、「石川理紀之助百歌集」が隣県から秋田県立図書館にもたらされ、譲渡の交渉が始まる。1938年4月、前秋田県農会長で仙北郡内小友村長でもあった佐藤維一郎氏によって「石川理紀之助百歌集】が秋田県立図書館に寄贈された。1945年6月27日、「石川理紀之助百歌集」は第二次世界大戦の空襲による焼失を防ぐため、南秋田郡豊川村大字山田の石川文庫への疎開が行われた。1964年、石川理紀之助翁50年祭が昭和町で開催された。

1996年12月8日、宮崎県都城市民は、理紀之助の功績を讃えるため、JR九州吉都線谷頭駅前に、理紀之助の胸像を建立する。 2004年5月1日、石川翁顕彰会が『石川翁顕彰会会報復刻版 第39号~創刊号 (平成16年~平成2)』を発行する。 2004年10月13日、石川翁顕彰会が『歌集「歌ぶくろ」 石川翁顕彰短歌大会十周年記念誌』を発行する。

2008年1月18日、福田康夫首相は、施政方針演説の結びで、理紀之助の言葉「井戸を掘るなら、水が湧くまで掘れ」を引用し、自身の決意を表明した。

2009年、明治35年の理紀之助一行8人の宮崎県中霧島村谷頭地区の村づくり様子の理紀之助の伝記(絵本)が出版される。『秋田からの爽風 石川理紀之助翁物語 瀬之口ヤス子・文 藤村理・絵』は、半年という短い期間で、理紀之助が村人に農業だけでなく、節約し貯金すること、規則正しい生活習慣を身につけること、勉強や仕事に精だすことなどを教え、村の発展に尽力した姿が描かれている。 2011年、都城市民40名が【山田のかかし笑劇団】を結成。理紀之助が身をもって示した勤労や倹約の姿勢、ボランティア精神を伝えている。 2014年、潟上市と宮崎県都城市山田町地区の住民や教育関係者でつくる山田地域づくり推進協議会が、教育交流事業を始める。 2015年6月、都城市の【山田のかかし笑劇団】が来秋。【山田のかかし笑劇団】は、潟上市大豊小学校、秋田県立博物館、秋田グリーサムの杜で、都城市の農民を救った演劇【石川理紀之助翁物語】を映像も交えて公演した。

石川理紀之助の遺跡[編集]

秋田県潟上市には、晩年の住居であった尚庵を中心に備荒倉、梅廼舎、三井文庫、石川会館や、また東1.2kmの山合いに翁の山居跡「草木谷」が残されている。これらは、秋田県指定史跡として指定されている。また、資料館として潟上市郷土文化保存伝習館が建てられている。

秋田市金足の「旧奈良家住宅」(秋田県立博物館の分館扱い)前の道路際に、生誕の地を示す大きな石碑が建っている。

著書[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

舞台
  • 『リキノスケ、走る!』(わらび座小劇場) - 2014年1月17日は子供たちの貸切講演、1月18日~3月20日 わらび座63年の歴史の中で小劇場最高の入場者数(8,150名)を達成した。

参考文献[編集]

  • 石川理紀之助『草木谷叢書 秋田乃む可し 巻一』
  • 児玉庄太郎『偉人石川翁の事業と言行』平凡社
  • 児玉庄太郎『農聖石川翁の傳記と歌集』内外書房
  • 石川太朗『石川翁農道要典』財団法人三井報恩会
  • 『ふるさとのひと 秋田に生まれた先覚者たち』秋田県警察本部教養課
  • 『秋田県立秋田図書館沿革誌 昭和36年度版』秋田県立秋田図書館
  • 川上富三『石川理紀之助』石川翁遺跡保存会
  • 『秋田の先覚1 近代秋田をつちかった人びと』秋田県
  • 川上富三『日向の国の六ケ月 石川理紀之助一行の谷頭指導』
  • 『秋田県農業協同組合中央会三十年史』秋田県農業協同組合中央会
  • 『石川理紀之助翁生誕150年記念誌』同記念事業実行委員会
  • 『100年のあゆみ 秋田県立図書館創立100周年記念誌』秋田県立図書館
  • 川上富三『板木のひびき 石川理紀之助翁伝』潟上市教育委員会
  • 『秋田県の農業の基礎をつくった 石川理紀之助』潟上市教育委員会
  • 渡辺英夫『秋田の近世近代(伊藤寛崇 秋田県下の第三回総選挙)』高志書院
  • 小林忠通『秋田県立図書館所蔵 日本人の心 定本 石川理紀之助百歌集』秋田県茶道文化研究会
  • 武石薫・大谷順子『「改革者たちの軌跡」 チーム「石川理紀之助」が現代に遺したもの』NPO法人秋田グリーンサム倶楽部