矢田挿雲

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矢田 挿雲(やだ そううん、1882年明治15年)2月9日 - 1961年昭和36年)12月13日)は、石川県金沢市出身の小説家俳人。本名は義勝[1][2]。矢田插雲とも。

代表作である全12巻からなる時代劇太閤記[3]』は1925年大正14年)から1934年昭和9年)にかけて著され[4]1936年(昭和11年)にはサイレント映画太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻』として映画化された。なお、1970年(昭和45年)には日本テレビ系列にて『青春太閤記 いまにみておれ!』として放送された。

また、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)にかけて『報知新聞』で連載された全12巻からなる歴史小説江戸から東京へ』は、都市化が進む東京の町を散策する内容で、地誌読み物の草分けとして名高い[4][5]

生涯[編集]

1882年(明治15年)2月9日に、石川県金沢市に生まれる。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした[4]

中学時代から俳句に親しむようになり[1]宮城県仙台第一高等学校を卒業後に上京し、東京専門学校(現:早稲田大学)に進学する。また、この頃より俳人の正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、早稲田大学を中退した[1][2]

1908年(明治41年)以降、各地を転々として『九州日報』や『芸備日日新聞』にて新聞記者として勤めた。その後、1915年(大正4年)から新聞統制により読売新聞社と合併する1942年(昭和17年)まで『報知新聞』の社会部記者に留まった[1][6]

1919年(大正8年)ないし1920年(大正9年)頃より執筆活動を始める。

1920年(大正9年)から1923年(大正12年)にかけて、当時報知新聞社社会部の部長を務めていた作家の野村胡堂に勧められて、全12巻からなる歴史読み物『江戸から東京へ』を『報知新聞』で連載するようになる[6]

『江戸から東京へ』の他にも『報知新聞』に1923年(大正14年)から1924年(大正15年)にかけて歌舞伎役者を描いた小説『沢村田之助』を連載し、豊臣秀吉を描いた全12巻からなる『太閤記』を連載したが、特に読者に好評だった作品は『江戸から東京へ』であった[6]

1925年(大正14年)に小説家の白井喬二大衆文学作家の親睦団体である「二十一日会」を結成する。翌1926年(大正15年)秋には白井と共に『大衆文藝』を発刊して[2]挿雲は同人となり[6]、大衆文学興隆の基礎作りに貢献した。

また、「大日本俳交会」を結成したり、『俳句と添削』を主宰、戦後には句誌『挿雲』を主宰した。

千葉県市川市北方に「北方庵」を構え、晩年まで居住した。

1961年(昭和36年)12月13日に死去。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 万有百科大事典 1973, p. 660.
  2. ^ a b c 大日本百科事典 1967, p. 605.
  3. ^ 挿雲の『太閤記』は、他の作品と区別して『挿雲太閤記』と称される。
  4. ^ a b c グランド現代百科事典 1983, p. 29.
  5. ^ 江戸から東京へとは - コトバンク、2013年11月21日閲覧。
  6. ^ a b c d 矢田挿雲とは - コトバンク、2013年11月21日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]