瞽女
瞽女(ごぜ)は、日本の女性の盲人芸能者[1]を意味する歴史的名称。その名は「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する[1]。
近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である[注 2]。女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある[2]。時にやむなく売春をおこなうこともあった[3][4]。
歴史[編集]
近世以前[編集]
瞽女の起源は不詳であるが、室町時代後期に書かれた『文明本節用集』には「御前コゼ 女盲目(ごぜん こぜ おんなめくら)」と記され、『七十一番職人歌合』にもその姿が描かれている[2]。近世では三味線や箏を弾くのが普通となった[1]。瞽女の演目(瞽女唄)のひとつに「クドキ(口説節)」があり、これは浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている[5]。江戸時代の瞽女は越後国高田(上越市)や長岡(長岡市)、駿河国駿府(静岡市)では屋敷を与えられ、一箇所に集まって生活しているケースがあり、これを「瞽女屋敷」と称した[6]。全国組織はなく、師匠となる瞽女のもとに弟子入りして音曲や技法を伝授されるという形態をとった[6]。親方となる楽人(師匠)は弟子と起居をともにして組をつくり、数組により座を組織した[6]。説経節の『小栗判官』や「くどき」などを数人で門付演奏することが多く、娯楽の少ない当時の農村部にあっては、瞽女の巡業は少なからず歓迎された[6][注 3]。また、江戸時代中期・後期の瀬戸内地方にいた瞽女の多くは広島藩、長州藩あるいは四国地方の多くの藩から視覚障害者のための「扶持」を受けたといわれる。
近代以降[編集]
越後(新潟県)には長岡瞽女(ながおか ごぜ)と高田瞽女(たかだ ごぜ)の2派が大きくその組織を形成していた。また、山梨県には甲府の横近習町・飯田新町の総数200人を超える大きな組も存在した。長野県では飯田、松本、松代など、岐阜県では高山など、静岡県では駿府、沼津、三島など、愛知県、千葉県、埼玉県、群馬県、福岡県などに多数の小さな組合があった。
生活手段として三味線を片手に各地を巡り、『葛の葉子別れ』等の説話やその土地の風俗や出来事などを弾き語りしたり、独特の節回しを持つ「瞽女唄(ごぜうた)」にして唄い語るもので、まだテレビやラジオが普及していなかった時代、新潟県内だけでなく、群馬県や東北地方など、主に豪雪地帯の村落などで農閑期に現われる娯楽の一端であった[注 5]。
明治時代から昭和の初期には多数の瞽女が新潟県を中心に活躍していた。この頃の代表的な瞽女に伊平タケがいる。伊平タケは開局間もないNHKに出演し、SPレコードの吹込みを行なった。第二次世界大戦後、ほとんどの瞽女は廃業後に転職したために、その数は急速に減少していった。小林ハルはその中で最後まで活躍した長岡瞽女であった。後年、小林ハルは唯一の長岡瞽女唄伝承者として、その継承と保存に尽力した(数少ない音源の多くも彼女のものである)。またハルの故郷である新潟県三条市には保存会も存在し、日本の伝統芸能の一つである「長岡瞽女唄」を後世に伝承すべく、精力的に活動を続けている。
高田瞽女は旧・高田市(現・上越市の旧・高田市域)を中心として活動を行ってきた。高田瞽女は、親方(師匠)が家を構え、弟子を養女にして自分の家で養っていった。親方はヤモチ(屋持)と呼ばれ、明治の末に17軒、昭和の初期に15軒となり、これらの親方が座をつくり、いちばん修業年数の多い親方が「座元」となり、高田瞽女たちを統率していった。
昭和30年代、高度経済成長を続ける日本で、瞽女とその芸能は衰退していった。そんな中、杉本キクイ(別名:杉本ハル)は、杉本シズ、難波コトミの2人の弟子を抱えて、それでも昔の唄を聞いてやろうという村々を頼りに細々と旅を続けていった。キクイは、若い頃から下の者の面倒をよくみて慕われ、組の親方達にも信頼される聡明なしっかりした人柄で、たくさんの瞽女唄を記憶している優れた瞽女であった。1970年(昭和45年)、杉本キクイは、国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財「瞽女唄」の保持者に認定されている。
現在は、高田系瞽女では小竹勇生山(こたけ ゆうざん)・小竹栄子・月岡祐紀子(つきおか ゆきこ)らが、長岡系瞽女では竹下玲子・萱森直子(かやもり なおこ)らが、その芸を継承し、後世に伝えるべく活動している。
著名な人物[編集]
関連文献・解題[編集]
- 橋本照嵩 大崎紀夫編『瞽女―橋本照嵩写真集』、のら社、1974年
- 1972年3月より約1年間、長岡瞽女(金子セキ・中静ミサオ・手引きの関谷ハナ)の旅に同行した写真記録。門付けの具体的風景がよくわかる。日本写真協会新人賞受賞。
- 佐久間惇一『瞽女の民俗』、岩崎美術社<民俗民芸叢書>、1983年
- 鈴木昭英『瞽女 - 信仰と芸能』、高志書院、1996年
- 民俗学による越後瞽女の研究。
- 宮成照子編『瞽女の記憶』、桂書房、1998年
- 桐生清次編著『最後の瞽女 小林ハル』、文芸社、2000年
- 聞き書きによる小林ハルの伝記。三味線、胡弓の名手として知られた佐藤千代の生涯を綴っている。
- ジェラルド・グローマー『瞽女と瞽女唄の研究』(研究篇・史料篇)、名古屋大学出版会、2007年
- ジェラルド・グローマー『瞽女うた』岩波新書、2014年
- 橋本照嵩『瞽女―アサヒグラフ復刻版』、Zen Foto Gallery、2019年
- 週刊グラフ誌『アサヒグラフ』より、橋本照嵩が撮影した瞽女の掲載ページを抜粋した復刻版。1970年5月8日号掲載「盲目の歌女・瞽女」と、1973年10月26日号、同11月2日号、同9日号、同16日号連載「瞽女の四季」の計5号分。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 「障(めくら)」はともかく、どういうわけか、「肉障」と書いて「あきめくら」と振り仮名が添えてある。「肉」に見えるのは「開」の異体字かも知れないが、確認できない。
- ^ 幕藩体制時代には大名御抱え(おかかえ)の瞽女もいたが、多くは放浪の旅芸人であった[1]。
- ^ 男性盲人には三都を中心に当道座という大きな自治的組織があり、検校、勾当、座頭等の官位を授与していた。検校には優れた音楽家として活躍した者が多いほか、鍼灸や按摩も独占職種として幕府に公認されていた。学者や棋士として名を馳せた者もいる。また当道座以外にも盲僧座があった。
- ^ 彼女の活動歴と同誌の速報性に鑑みて。
- ^ 山を越えた群馬県沼田市や福島県会津地方に巡業があった記録がある[7][8]。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 辞事典
- 朝尾直弘ほか 編 『日本歴史大事典 1 あ~け』小学館〈日本歴史大事典〉、2000年6月1日。ISBN 4095230010、ISBN 978-4095230016、OCLC 1020900564。
- 川嶋將生「女盲目」
- ブリタニカ・ジャパン『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “瞽女”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 小学館『デジタル大辞泉』. “瞽女”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 平凡社『百科事典マイペディア』. “瞽女”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版. “瞽女”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “瞽女”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “瞽女・御前”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “盲瞽女・盲御前”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “瞽女節・御前節”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- ブリタニカ・ジャパン『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “ごぜ唄”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版. “瞽女屋敷”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版. “高田瞽女”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』. “伊平タケ”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』、ほか. “杉本 キクイ”. コトバンク. 2021年3月25日閲覧。
- 書籍、ムック
- 明田鉄男 『日本花街史』雄山閣出版、1990年12月19日。ISBN 4-639-01002-8、ISBN 978-4-639-01002-9、OCLC 417101028。
- 東雅夫 編 『幻想文学講義─「幻想文学」インタビュー集成』国書刊行会、2012年8月24日 。ISBN 4-336-05520-3、ISBN 978-4-336-05520-0、OCLC 809004736。
- 山川出版社マルチメディア研究会 監修 編「瞽女唄」 『CD 音の日本史』NHKサービスセンター、山川出版社〈NHK CD〉、1999年3月。ISBN 4-634-98690-6、ISBN 978-4-634-98690-9、OCLC 1183299787。
- 山川直治 編 『日本音楽の流れ』音楽之友社〈日本音楽叢書 9〉、1990年7月。ISBN 4-276-13439-0、ISBN 978-4-276-13439-3、OCLC 22850858。
- 吉川英史「語りもの」
- 雑誌、広報、論文、ほか
- 原田信一「近世における瞥女の生活論序説」『駒澤社会学研究』第30巻、駒沢大学文学部社会学科、1998年3月、75-100頁。
関連項目[編集]
登場。
外部リンク[編集]
- “小林ハル 盲目の旅人”. 求龍堂 (2001年). 2007年3月時点のオリジナルよりアーカイブ。2002年10月閲覧。
- “1月28日放送 盲目の旅人…最後の瞽女 小林ハル”. 知ってるつもり?!. 日本テレビ放送網株式会社. 2016年3月時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月閲覧。
- “瞽女資料館”. 瞽女資料館. 2020年3月時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月閲覧。
- “越後瞽女唄と津軽三味線 萱森直子”. 2021年3月28日閲覧。
- “活動の概要”. 2021年3月28日閲覧。
- “瞽女ミュージアム高田”. 瞽女ミュージアム高田. 2021年3月28日閲覧。
- “沿革”. 2021年3月28日閲覧。
- 「“瞽女”について所蔵資料から紹介してほしい。特に“高田の瞽女”について探している。」(高崎市立中央図書館) - レファレンス協同データベース