睦進恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
睦進恭
各種表記
ハングル 목진공
漢字 睦進恭
発音: チンゴン
日本語読み: ぼく しんきょう
MR式
2000年式
Mok Chin'gong
Mok Jin'gong
テンプレートを表示

睦 進恭(ぼく しんきょう、목진공; モ チンゴン、? - 1426年)は、 朝鮮の文臣である。本貫は泗川である。

生涯[編集]

高麗の郎将同正睦孝基: 목효기)の7世孫である。

太宗朝で、大護軍、義興府鎮撫、判典祀寺事、右副代言などを歴任し(1409年 - 1417年)[1]1417年(太宗17年)、京畿道観察使となって、表裏[注釈 1]を下賜された[3]

1421年世宗3年)、江原道都観察使を務め[4]1422年戸曹参判に昇って[5]から、1426年、卒すると、世宗が香典を遣わせた[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ : 표리(ピョリ):着物の表地と裏地[2]、すなわち布地。

出典[編集]

  1. ^ 인물정보 : "목진공(睦進恭)"” [人物情報 : "睦進恭"] (朝鮮語). 朝鮮王朝実録. 国史編纂委員会. 2019年9月12日閲覧。
  2. ^ 小学館・金星出版社 編『朝鮮語辞典』(初版第16刷)小学館、2005年。ISBN 4095157011 
  3. ^ 태종실록 34권, 태종 17년 10월 1일 계미 1번째기사” [太宗実録34巻、太宗17年10月1日癸未1番目記事] (朝鮮語). 朝鮮王朝実録. 国史編纂委員会. 2019年9月8日閲覧。
  4. ^ 세종실록 11권, 세종 3년 2월 27일 경신 1번째기사” [世宗実録11巻、世宗3年2月27日庚申1番目記事] (朝鮮語). 朝鮮王朝実録. 国史編纂委員会. 2019年9月8日閲覧。
  5. ^ 세종실록 15권, 세종 4년 2월 16일 계묘 2번째기사” [世宗実録15巻、世宗4年2月16日癸卯2番目記事] (朝鮮語). 朝鮮王朝実録. 国史編纂委員会. 2019年9月8日閲覧。
  6. ^ 세종실록 31권, 세종 8년 2월 27일 신묘 4번째기사” [世宗実録31巻、世宗8年2月27日辛卯4番目記事] (朝鮮語). 朝鮮王朝実録. 国史編纂委員会. 2019年9月8日閲覧。