真弓山城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
真弓山城
愛知県
真弓山城(足助城)本丸 (2009年(平成21年)9月)
真弓山城(足助城)本丸
2009年平成21年)9月)
別名 足助城
城郭構造 山城
築城主 鈴木氏?
築城年 不明
主な城主 足助鈴木家
廃城年 1590年天正18年)
遺構 曲輪跡など
再建造物 高櫓・物見櫓・厨など
位置 北緯35度8分3.56秒 東経137度19分29.79秒 / 北緯35.1343222度 東経137.3249417度 / 35.1343222; 137.3249417座標: 北緯35度8分3.56秒 東経137度19分29.79秒 / 北緯35.1343222度 東経137.3249417度 / 35.1343222; 137.3249417
地図
真弓山城 (足助城)の位置(愛知県内)
真弓山城 (足助城)
真弓山城
(足助城)
真弓山城 (足助城)の位置(豊田市(地区別)内)
真弓山城 (足助城)
真弓山城
(足助城)
テンプレートを表示

真弓山城(まゆみやまじょう)は、三河国加茂郡足助庄(現・愛知県豊田市足助町)の真弓山(標高301メートル)にあった日本の城。現在では「城跡公園足助城」として整備・公開されている。

概要[編集]

「足助城」「松山城」「足助松山の城」などとも呼ばれる。

周辺には関連する多くの山城があり、真弓山城(足助城)は足助氏が支配した鎌倉時代の「足助七屋敷」、鈴木氏が支配した戦国時代の「足助七城」の双方に数えられている[1]。ただ、後述の発掘調査では足助氏の時代の遺構は検出されず、戦国時代にこの地を治めた足助鈴木家の本城のみが確認されている。築城時期は不明。

1525年大永5年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹・[注釈 1]を2代鈴木重政の嫡子・重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っている。その後は離反帰服を経て、1564年永禄7年)に松平家康に攻められたのちは完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦った。

1585年(天正13年)、豊臣秀吉の三河侵攻で、豊臣方の森一重に攻められるが、撃退した。

1590年天正18年)、家康の関東入国に従って鈴木氏も足助を離れ、真弓山城は廃城となった。

城跡公園足助城[編集]

1989年平成元年)に愛知県が開始した「愛知のふるさとづくり事業」と国のふるさと創生基金を合わせて城の復元を行なうことが計画されたが、飯盛山は県の史跡指定がなされていることや、時代が古いために櫓など小規模な復元にとどまることなどから、戦国時代の城である真弓山城を復元することが決定され、1990年(平成2年)から1992年(平成4年)にかけて発掘調査と復元が行なわれた[注釈 2]

事業にあたっては幾つかのコンセプトが定められた。

  1. 戦国時代の鈴木氏の城を復元する。
  2. 事前に発掘調査を行い、建物跡を検出できた場合は、それに基づいて復元をする。そして、遺跡保存の観点から、盛り土等で遺構面の保護をする。
  3. 建物跡を検出できない場合は、絵図等が残されていないので、想定で復元する。ただし、石積みの白亜の天守閣はつくらない。
  4. 城館の復元だけでなく、戦国時代の生活を浮かび上がらせる工夫を行なう。

発掘調査ののち、本丸には高櫓と長屋、西の丸に物見矢倉、南の丸にも物見台や厨、また各所に板塀などが復元され、1993年(平成5年)5月に「城跡公園足助城」として開城した。

復元後の問題[編集]

城の存在自体が観光客には周知されておらず、香嵐渓を訪れる観光客が入城者に繋がっていない[注釈 3]ことも問題とされている。

  1. 1997年(平成9年)以降、4年連続で法面の崩壊が発生し、2000年(平成12年)の東海豪雨では大規模な被害を受けている。
  2. 掘立柱建物という構造上(防腐処理は行なわれているものの)柱の腐朽損傷が進み、既に交換が行なわれたものもある。
  3. 建物ごとに屋根の葺き方が違っており、葺き替え材料・職人の手配が困難で経費がかかっている。
  4. 城には出土品を展示するスペースがほとんどない(ほとんどが足助資料館に展示されている)。

利用案内[編集]

  • 開園時間:9時〜16時30分
  • 休園日:年末年始(12月25日〜1月5日)
  • 入園料:大人300円、高校生以下100円(20人以上の団体は1割引)

参考画像[編集]

アクセス[編集]

自家用車[編集]

  • 足助町内・国道153号飯田街道)から西町交差点を国道420号側へ入り約500メートル、落部駐車場の手前を左折して約1キロメートル。
    • 足助までの所要時間などは香嵐渓を参照。

公共交通機関[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 姉という説もある。
  2. ^ 当初は2年計画だったが、規模が大きかったため単独町費で1年間延長された。
  3. ^ 開城年は37,000人が訪れたが、近年では年に1万人を割り込んでいる。

出典[編集]

  1. ^ 城山城跡 遺跡現地説明会資料”. 愛知県埋蔵文化財センター. 2023年10月16日閲覧。

参考文献[編集]

  • 愛知県史跡整備市町村協議会『愛知県史跡等整備事例集』、2009年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]