相馬野馬追

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
相馬野馬追
神旗争奪戦。上空に打ち上げられた神旗(2005年)
神旗争奪戦。上空に打ち上げられた神旗(2005年)
イベントの種類 祭り
開催時期 7月
会場 福島県相馬市

相馬野馬追(そうまのまおい)は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社相馬太田神社相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である。

概要[編集]

馬を追う野馬懸南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からなる。これらの神事に関しては1952年、国の重要無形民俗文化財に指定されている[1]

東北地方夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの1つとして紹介される場合もある。

2010年までは、毎年7月23日から25日までの3日間の日程で神事と祭りが一体となって開催されていたが、2011年からは祭りと神事は日程が分離され、祭りを7月最終週の土曜日開幕、神事を24日・25日に日程を固定して実施することが決まった[2]。2011年以後の詳細は東日本大震災福島原発事故により不明な点が多いため、以下には2010年までの日程等に基づいて記載する。

歴史[編集]

起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門[3]が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている[1]鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練が一切取り締まられたが、この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた。

1868年戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して消滅すると、1872年に旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り、1878年には内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である。

相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した。[4]これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷[5](現在の千葉県流山市)に因んでいる。

戊辰戦争後の祭りおよび神事の初日は、1872年(当初は太田神社のみの小規模な祭礼)以降、旧暦5月の申日に合わせて7月1日1904年以降、天候不順を回避するために7月11日1960年以降、さらに梅雨期そのものを避けるために7月17日と変遷してきたが、1966年からは小学校の夏休み開始に合わせて7月23日となっていた[6][2]2011年から神事と祭りは日程が分離されることになり、神事は24日25日に日にち固定で実施し、祭りは7月最終週の土曜日に開幕することになった[2]。ただし、7月最終週の土曜日に開幕すると8月上旬にまで日程が及ぶ場合は、祭りを前週に繰り上げて開催する[2]

500余騎を集める行事は2012年現在、国内では唯一である。は一部の旧中村藩士族の農家、相馬中村神社や野馬追参加者により飼育されてはおるものの、多くは関東圏からのレンタルによって集められている。

なお、2011年に開始された「東北六魂祭」では、この相馬野馬追の紹介は被災地の伝統行事であるにもかかわらずまだ行われていない。

開催地と三軍[編集]

浜通り夜ノ森以北のうち、戦国時代から江戸時代にかけて相馬氏・中村藩(藩主:相馬氏)の領地に入っていた市町村で開催される。浜通り最北端にある新地町伊達氏仙台藩(藩主:伊達氏)の領地に、浜通り夜ノ森以南は岩城氏磐城平藩(藩主:内藤氏安藤氏など)の領地に入っていたため、相馬野馬追に与らない。

各郷ごとに騎馬隊が編成され、さらにそれらが神社ごとに三軍に編成される。中村城跡と相馬中村神社が所在する相馬市中村地区で編成される宇多郷勢の長は、中村藩主にならって全三軍を率いる総大将となる。祭りのハイライトの甲冑競馬や神旗争奪戦は、南相馬市原町区の雲雀ヶ原(ひばりがはら)にある相馬野馬追祭場地(地図)で開催される。

現在の行政区域 旧郷名 所属神社 主な行事
7月23日 7月24日 7月25日
相馬市 宇多郷 相馬中村神社地図 総大将出陣式
南相馬市 鹿島区 北郷 総大将御迎
原町区 中の郷 相馬太田神社地図 宵乗り競馬 お行列
甲冑競馬
神旗争奪戦
小高区 小高郷 相馬小高神社地図 野馬懸
双葉郡 浪江町 標葉郷
双葉町
大熊町

妙見三社の神事ならびに君主の行列のため、上から見下ろすのはいけないことだとされている。そのため、出陣式の時に通る中村第一小学校前の歩道橋は封鎖され、一部のカメラマン等を除いて上ることは出来ない。また、付近の民家でも2階から見物することは自粛するのが通常。移動などの為騎馬行列を横切ることもしてはいけない。なお、行列の前に警察、市役所等により行列の横断を行わないように注意がなされているがこのような注意を無視し横断をする観客、報道関係者も多く見られる。

行事[編集]

7月23日 宵祭り[編集]

相馬市中村相馬中村神社では宇多郷勢が、南相馬市原町区相馬太田神社では中の郷勢が、同市小高区相馬小高神社では小高郷・標葉郷勢が各々出陣式を行う。全三軍の指揮を執る総大将(中村藩公)の出陣式が行われる相馬中村神社では最も厳粛に行われ、相馬流れ山を斉唱する。この後、各神社の神輿は御旅所へ、中の郷勢と小高郷・標葉郷勢の計二軍はそのまま原町の雲雀ヶ原にある祭場地へ向かう。
  • 総大将御迎(南相馬市鹿島区) 12:00 -
総大将直属の宇多郷勢と、同隊が雲雀ヶ原へ向かう道中にいる北郷勢で行われる行事。総大将を迎え入れたことで、宇多郷・北郷勢という騎馬軍を編成し、原町区の雲雀ヶ原にある祭場地へ向かう。
  • 宵乗り競馬(南相馬市原町区) 14:00 -
雲雀ヶ原の相馬野馬追祭場地に三軍が集結し、古式競馬を行う。
  • 軍者会

7月24日 本祭り[編集]

  • お行列(南相馬市原町区) 9:30 -
開催地の原町区にある相馬太田神社(中の郷勢)を先頭に、相馬小高神社(小高郷・標葉郷勢)、総大将がいる相馬中村神社(宇多郷・北郷勢)の順に総勢500余騎で、御本陣・雲雀ヶ原の相馬野馬追祭場地まで約3kmを行軍する。
  • 甲冑競馬(南相馬市原町区) 12:00 -
騎馬隊が祭場地に到着し、山上の御本陣に神輿を安置した後に行う。それまで被っていたを脱いで、鉢巻をしめた甲冑姿の若武者の騎馬が、10頭立てで1周1000mの速さを競う。10回開催。
  • 神旗争奪戦(南相馬市原町区) 13:00 -
打ち上げられた花火の中からゆっくり落ちてくる御神旗を騎馬武者たちが争奪する行事。雲雀ヶ原の祭場地に隣接する本陣山から陣螺が鳴り響くと、雲雀ヶ原一面に500余騎が広がり、花火1発ごとに2本の御神旗が舞い降りる。御神旗を勝ち取った騎馬武者は高々と御神旗を掲げ、羊腸の坂を本陣山(地図)山頂に向けて一気に駆け上がる。旗は敵の首になぞらえてあるため、御本陣では旗軍者に審査される。その後、騎馬武者は妙見神社から御札と副賞を受けて山を下りる。この一連の流れが間を置いて行われ、花火は計20発(御神旗が計40本)が打ち上げられる。なお、御神旗は、相馬中村神社が、相馬太田神社が、相馬小高神社が黄色となっている。
  • 帰り馬(原町区以外)
原町区の中の郷勢以外の4隊は、騎馬行進を行いながら地元に戻る。

7月25日 野馬懸[編集]

  • 野馬懸(南相馬市小高区) 9:00 -
小高区の相馬小高神社で、裸馬を騎馬武者が小高区大井字岩迫から小高神社境内に設けられた竹矢来に追い込む。本来は野馬道(雲雀が原〜小高神社までの道路)を用いた(野馬懸)。追い込み終了後、御小人なる者が素手で捕え、小高神社に奉納する。この一連の行事が絵馬のルーツとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されるきっかけとなる。奉納された以外の馬は、博労(馬喰、ばくろう)によりセリが行われる。

一連の神事は以上の3日間に渡るが、小高以外の地域では野馬追は2日間の祭事と思う人がいる。その一例として、近年まで相馬太田神社の看板には野馬追祭事の日が7月23日、24日と書かれていた。

舞台となった作品[編集]

※発表順

映画
小説
テレビドラマ

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 相馬野馬追:「甲冑競馬」旗指し物なびかせ馬場”. 毎日新聞 (2010年7月24日). 2011年4月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 相馬野馬追 来年から週末開催 45年ぶりに日程変更河北新報 2010年12月26日
  3. ^ 江戸時代初期には将門の子孫が相馬氏であるという伝承が確かに存在している。徳川幕府に仕えて旗本となった惣領家(本家)の下総相馬氏・政胤の代の『御家伝書』を1622年秋、相馬則胤が書写したものにある(岡田清一:著)。
  4. ^ 妙見大菩薩は神仏習合で天之御中主神と同一視された為、神仏分離が明治時代に行われてからは妙見大菩薩ではなく天之御中主神に奉納している。
  5. ^ 中世には相馬御厨という荘園に属した。
  6. ^ 相馬の野馬追 p24 相馬野馬追保存会(1985年発行)
  7. ^ 「プロダクションノート」 (パンフレット) 、『戦国自衛隊』、角川春樹事務所、1979年12月15日、 26 - 27頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]