相引川
相引川 | |
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相引川(学校橋で西方を臨む) | |
水系 | 二級水系 相引川 |
種別 | 二級河川 |
延長 | 5.01 km |
流域面積 | 11.6 km² |
水源 | なし |
水源の標高 | 0.0 m |
河口・合流先 | 新川・牟礼川~瀬戸内海 |
流域 | 香川県 |
相引川(あいびきがわ)は、香川県高松市の東部を流れる相引川水系の本流。延長5.01km・流域面積11.6㎢の二級河川である[1][2][3]。
概要
[編集]屋島の南を巡り、河道の両端に河口を持つ特異な河川である。西は新川の河口、東は牟礼川の河口で合流し、瀬戸内海に注ぐ[2]。
相引川は、四国本土と屋島を分離する河川である。本土側とは大小13本の橋で結ばれている。
相引川の北に位置する屋島は、字義どおり「島」である[注 1][4]。しかし、現在の法定区分は、高松市を形成する四国本土の扱いである。
相引川の両岸は、江戸時代に開発された塩田と干拓された水田であったが、後の時代の埋立にともない陸続きのようになる。埋立地は住宅地や市街地に改変され、多くの人々が集住する[5]。
国指定の史跡および天然記念物「屋島」の指定範囲は、相引川以北の全域と、その地先100メートルの海面区域と定められている[6][7]。しかし、屋島地区の屋島西町の一部が南岸(四国本土側)に入りこみ、古高松地区の高松町の一部が北岸(屋島側)に入りこんだ状態である[5]。
江戸時代初めの縁起物の『源平屋島檀浦合戦縁起』には、「・・・義経、赤牛が屋島に渡るのを見て浅瀬のあることを知る。」と記述され、その地は赤牛崎(あかばざき)とされている。源氏50余騎が渡海したとされる北岸の赤牛崎には、案内板が設置されている[5]。
成り立ち
[編集]源平合戦(1185年)の時代には屋島と四国本土はかなり離れていた。江戸前期までは海であり、満潮時には海水が東西から満ち、干潮時には東西に分かれたことから「相引の瀬」と呼ばれたという[8]。生駒氏統治時代(1600年 - 1640年)の寛永14年(1637年)、生駒高俊が堤防を築かせ、屋島と四国本土は陸続きになったが[9]、松平氏統治時代(1642年 - 1871年)になって、古来の名跡を惜しんだ初代藩主松平頼重の命によって1647年(正保4年)に水路が復元され、現在の相引川の形が完成した[3]。
鎌倉前期の軍記物語の『平家物語』には、「・・・潮の引いています時には、陸と島との間は馬の腹もつかりません。」と記述され、浅い海であったとされている。また、1633年(寛永10年)の『讃岐国絵図』[注 2]は、屋島は海を挟んで島として描かれている。そして、1789年頃(寛政頃)の『讃岐一円図』[注 2]は、屋島は川で隔てられた島であり、1808年(文化5年)に測量された『伊能大図』は、現在と同様に相引川を挟んで島となっている[5]。
名称の由来
[編集]川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説がある[3]。また、東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある[10]。
現在の相引川は東西の自動防潮水門により海水と遮られ、完全に淡水化している。相引川と言うより、相引池と言うのが実態に近い。この中では、コイやフナ、ナマズ、ウナギ、雷魚等とカメが生息している。干潮時にはこの水門を通じて、相引川から海側への排水が行われ、毎日2回観測できる。
橋梁
[編集]橋梁名 | 北岸 | 南岸 | 道路名 |
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高橋 | 屋島東町字高橋 | 牟礼町牟礼字浜 | 市道高橋線 |
明神橋 | 高松町字横山 | 高松町字明神 | 県道150号屋島停車場屋島公園線 |
永代橋 | 高松町字横山 | 高松町字明神 | 市道角屋5号線 |
通路橋 | 屋島東町字相引 | 高松町字角屋 | |
赤牛橋 | 屋島東町字西の谷 | 高松町字帰来 | 市道高松町6号線 |
あわじや橋 | 屋島東町字三ツ池 | 高松町字帰来 | 市道開成久線 |
東照宮橋 | 屋島中町字馬場東 | 高松町字帰来 | 市道屋島古高松線 |
和里橋 | 屋島中町字浜畑 | 屋島西町字百石 | 市道屋島西町68号線 |
学校橋 | 屋島中町字新開 | 屋島西町字百石 | 市道百石線 |
源平橋 | 屋島中町字下畑 | 屋島西町字百石 | 県道14号屋島公園線 |
大橋 | 屋島西町字宮西・字成久 | 屋島西町字百石 | 県道150号屋島停車場屋島公園線 |
屋島新橋 | 屋島西町字子の浜 | 春日町字片田 | 市道屋島東山崎線 |
屋島大橋 | 屋島西町字新浜 | 木太町(5区)字西浜 | 市道高松海岸2号線 |
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大橋で西方を臨む
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大橋で東方を臨む
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源平橋で西方を臨む
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源平橋で東方を臨む
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学校橋で東方を臨む
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東照宮橋で西方を臨む
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東照宮橋で東方を臨む
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赤牛橋で西方を臨む
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明神橋で南西を臨む
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明神橋で東北東を臨む
排水施設
[編集]- 排水施設 - 供用開始年月、所在地、雨天時最大排水量(毎分)[12]
1976年(昭和51年)9月の台風17号による大雨で川の水が溢れ、相引川両岸、高松町帰来地区と屋島南部一帯が水没したため、市と県は相引川流域に3つのポンプ場を相次いで設置した。以後、大きな水害は起っていない[13]。
- 高松市山下川雨水ポンプ施設 - 昭和52年9月、屋島西町字百石、105.00m3
- 高松市相引東ポンプ場 - 昭和54年10月、高松町字角屋2284番地2、485.00m3
- 香川県相引川排水機場、同水門 - 昭和56年、屋島西町 排水量は不明
- 高松市百石ポンプ場 - 平成6年4月、屋島西町字百石1872番地1地先、532.00m3
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 電子国土基本図(地図情報)ー国土地理院
- ^ a b 四国新聞社出版委員会 編『香川県大百科事典』四国新聞社、1984年4月10日、45頁。NDLJP:12193119/29。
- ^ a b c 『角川日本地名大辞典37 香川県』角川書店、1985年、66頁頁。ISBN 978-4-04-001370-1。
- ^ しまっぷー第六管区海上保安本部
- ^ a b c d 『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年、10-20・57・63・100・128-129頁。
- ^ 『高松市史跡天然記念物屋島保存整備等基本構想』、高松市、1995年、9-10頁。
- ^ 屋島 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 平凡社日本歴史地名大系オンライン版「古高松村」。「讃州府志」によるという。
- ^ 平凡社日本歴史地名大系オンライン版。「讃岐国大日記」によるという。
- ^ “屋島源平合戦 史跡ガイドマップ on the WEB 18.相引川”. 高松市観光振興課. 2011年7月16日閲覧。
- ^ 『文化屋島』 第50号、屋島文化協会、2010年、2頁。
- ^ “浸水対策(中心市街地浸水対策計画)”. 高松市下水道整備課. 2011年7月16日閲覧。
- ^ シリーズ追跡/ 検証・高松市水没。 四国新聞、1998年10月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 高松市歴史資料館 編 『屋島 ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』(史跡・天然記念物屋島指定80周年記念企画展)、高松市、2014年。
- 屋島風土記編纂委員会 編 『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年。