盆燈籠

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盆燈籠

盆燈籠(ぼんとうろう、ぼんどうろう)とは、日本お盆の時期に、に供える燈籠型の飾り。「盆灯ろう」「盆灯篭」などとも表記する。特に安芸地方広島県西部)に特徴的な風習であるが、香川県中西部でも行われる。

概要[編集]

浄土真宗本願寺派安芸門徒の信徒が広めた風習とされる。城下町広島では江戸時代以来庶民に定着してきたため、広島市周辺では他の宗派でも盆燈籠を認めている寺院もあるが、日蓮宗などのようにほとんど認めていない寺院もある。

機能としては卒塔婆に相当するもので、盆の時期に墓参りを行う者がその墓の周囲に立てる。親族がそれぞれ持ち寄るため、1基の墓の周囲に何本も立てられることも多いので、燈籠の1面に「上 ○○」のように寄進者の名を記すことも一般的である(「上」は「献上する」の意)。盆の時期が過ぎると寺院側で撤去され、焼却される。

構造[編集]

六角形アサガオ型に組んだ物に、赤・青・黄などの色紙を貼って作る。表面に金粉などをつけることもある。風や雨水を通すために、1面は上辺だけ貼っておいて下部を空けてある。さらに、六角形の頂点から金紙などの飾りをつける。装飾化・形式化した「燈籠」であり、実際に火を灯す用には適さない。ただ昔はろうそくを点すために茄子の切り端に芯を挿した物を側に置いたり、固定のためにを少量入れることも行われていた。

なお初盆(新盆)の霊には色紙や装飾は用いず、白い紙のみの盆燈籠を供える。

いずれも高価なものではなく、1本600から1000円程度である。

歴史[編集]

由来[編集]

由来は明確ではない。「江戸時代、広島城下・紙屋町の紙屋の夫婦が、娘が亡くなったのを悲しんで墓に手作りの燈籠(または花)を供えた。」とする古い言い伝えが残っている。

なお、浄土真宗本願寺派安芸教区教務所発行の「仏事あれこれ小百科」では、「江戸時代の広島城下、娘を亡くした父親の話に由来するようです。亡くなった娘のために石灯籠を立ててやりたいと思っても、そのお金がなく、それで竹をそいで紙を貼り、それを灯籠として供えたことにはじまり、今では安芸地方の夏の風物詩となっています。」とされている。

広島地方における変遷[編集]

江戸時代後期から明治期にかけて、広島市街の寺院を中心にかなり広く定着した。広島市内では、大正時代になると夜店で燈籠を売るようになった。盆燈籠売りは普段はそれぞれの商売をしていて、盆前になると盆燈籠売りに変わったと言われている。当時の盆燈籠は、没年に関わらず白いものが一般的であった。上記のように白い燈籠が初盆のために用いられるようになるのは昭和40年代以降のことである。

第二次世界大戦中は、防空上の理由や紙不足などもあって全面的に自粛されたが、終戦後すぐに復活し、1960年頃からは高度経済成長とともに盛大になっていった。8月になると地域のニュースや中国新聞などで「盆灯ろう作り最盛期」といった季節ネタが報じられ、スーパーや花屋などで簡単に購入できるようになると、宗派を超えた「広島の夏の習俗」として広く認知されていく。真言宗法華宗の寺など、全く盆燈籠とは関係のない宗派であったにもかかわらず、参拝者が当然のように燈籠を持って押しかけるので、事後承諾的に盆燈籠を認めるようになった寺も多い。

1970年代半ば頃から、一部行きすぎた華美な燈籠が現れたり、放火や失火による火災が相次いだりして、盆燈籠を認めない寺院が現れ始めた。そうした事実がなくとも、膨大な量の燈籠の管理や火災防止、後片付けは寺院にとって大きな負担であり、またエコキャンペーンの視点から「数日立てただけで捨ててしまうのは資源の無駄」という意見もあり、特に都市部で盆燈籠を認めない寺院が増えつつある。郊外では現在も色とりどりの盆燈籠が多く見られる。 盆燈籠を認めない(または「ご遠慮ください」とする立場の)寺院では、代わりに板塔婆を供えられるようにしてある所もある。

分布[編集]

広島市中心部を核として同心円状に分布する。 はっきり定着しているといえる地域としては、東は呉市東広島市周辺まで、北は広島市安佐北区北広島町周辺まで、西は廿日市市大竹市まで、南は広島湾に浮かぶ江田島市安芸灘の島々までが挙げられる。

ただしその外周地域でもこの風習は知名度が高く、県東部(備後国)の三原市尾道市福山市でも寺院や地域によって行っているところもかなりある。県北の三次市庄原市、さらに島根県内でも同様である。一方で山口県には浸透しておらず、広島都市圏に含まれる山口県東端の岩国市の一部で行われる程度である。広島とつながりの深い愛媛県でも同様に行われていない。

香川県では坂出市など中西部で盆燈籠の風習がある。讃岐の盆燈籠は構造が複雑で、1本1万数千円~と高価である。