大久保利世

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大久保 利世
時代 江戸時代末期
生誕 寛政6年11月19日1794年12月11日
死没 文久3年5月19日1863年7月4日
改名 隠居後:冠雪
別名 通称:次右衛門、:子老
戒名 熹直軒子老冠雪居士
幕府 江戸幕府
薩摩藩
氏族 藤原氏
父母 父:大久保利敬、養父:大久保利建
兄弟 利建治良介利世
皆吉鳳徳の娘・福(ふく)
ナカ、利通、キチ、スマ、ミネ、他
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大久保 利世(おおくぼ としよ)は、江戸時代後期の薩摩藩士。大久保利通の父。家格は小姓与。

来歴[編集]

大久保利敬の三男として薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。文政4年(1821年)、兄の大久保利建の養子として家督を継ぐ。

文政10年(1827年)5月、沖永良部島代官付役を務め、沖永良部島に赴任。同12年(1829年)4月17日、任期満了につき帰鹿。天保8年(1837年)4月26日、再び沖永良部代官付役を務め、沖永良部島に来島。天保13年(1842年)、この年までは高麗町に住んでいたことが、『鹿児島城下絵図散歩』で判る。後に琉球館付役に就任したので、琉球館内の屋敷に引っ越す。この頃、幼い長男の利通のみを下加治屋町の義姉(亡兄・利建の妻)のところに預けている。唯一の男子であり、女ばかりの家庭では郷中教育も困難と判断したのではないかと見られる。

嘉永2年(1849年)、当時琉球館附役を務めていたがお由羅騒動(高崎崩れ)に連座し翌年喜界島に流された。なお、20歳の利通も失職となる。収入を絶たれた大久保家は貧窮のどん底に陥り、残された家族は親類や近隣から借金をしてしのぐ事になる。利世は5年もの間島流しの身となり、安政元年(1854年)7月罪を許され、翌年(1855年)2月に鹿児島に戻った時には髪は真っ白になり、身体も老いしぼんで埠頭に迎えに来た利通ら家族が絶句するほどであった。

文久3年(1863年)、70歳で没した。

親族[編集]

宅地[編集]

『鹿児島城下絵図散歩』では、天保13年の大久保次右衛門の宅地が、現在の鹿児島市高麗町7番地東(一部道路になっている。、番地は平成15年現在)にあり、広さは150。なお、同年の加治屋町の西郷竜右衛門(西郷隆盛の祖父、西郷隆充)宅地は259坪、東郷吉左衛門(東郷平八郎の父、東郷実友)宅地は267坪。

人物[編集]

  • 大久保利世の体格について『大久保利通伝 上』では次のように言っている。「體軀長大ならざれども、頗る肥満して色白く、実に厳然たる違丈夫なりき」
  • 大久保利世は神仏を信じること厚く、常に気節の士と交わり、陽明学禅学に通じていたらしい。また、相撲好きだったという。
  • 利世は放任主義者で子供を叱責することがなかったという。ただ、「男児の乱暴なるは深く咎むること要しないが、卑劣なる行為に至っては一歩も之を仮借してはならない」といっていたらしい。
  • 2回にわたる沖永良部島代官付役在任中、沖永良部島のチカヒルヤ(屋号)の筆との間にタケとマツの2女をもうける。藩法により、島妻と子ども達は連れ帰れなかったため、3人を残して鹿児島に戻る。なお、マツは土持政照の妻になる。
  • 利世が喜界島流刑時に、少しも臆することなく、護送していた役人に冗談で「足下等よ、われは間隙に乗じて逃走せんも測り難い、油断し給うな。」といったという。

脚注[編集]

  1. ^ 『大正過去帳 : 物故人名辞典』(東京美術、1973年)p.57
  2. ^ 植村花菜のルーツは大久保利通!祖母の故郷で知る:スポニチ(2011年3月10日)

参考文献[編集]

  • 勝田孫弥『大久保利通伝 上』(臨川書店)
  • 勝田孫弥『甲東逸話』
  • 塩満郁夫、友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2007年12月1日初版
  • 友野春久『池上四郎貞固系譜』(『敬天愛人』別刷 西郷南州顕彰会)
  • 『奄美資料集成』
  • 『和泊町誌 歴史編』
  • 『大久保利通文書』

登場作品[編集]

テレビドラマ