白井河原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
白井河原の戦い
Shiraiw3.jpg
白井河原合戦推定地(現在の茨木川
戦争:渡河戦
年月日元亀2年(1571年)8月28日
場所:白井河原周辺
結果荒木村重中川清秀連合軍の勝利
交戦勢力
荒木村重Gyoyō Botan inverted.png
中川清秀Japense crest Nakagawake kurusu.svg
茨木重朝
和田惟政
指導者・指揮官
荒木村重Gyoyō Botan inverted.png
中川清秀Japense crest Nakagawake kurusu.svg
茨木重朝 
和田惟政 
郡正信 
戦力
馬廻り2500以上
伏兵2000
(内鉄砲衆300)
馬廻り500以上
損害
不明 ほぼ全滅

白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)は、元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。

開戦までの経緯[編集]

永禄12年(1569年)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛し摂津に入国、芥川山城主の三好長逸阿波国に逃走し、松永久秀が織田軍に与すると、久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津三守護に新たに抜擢された幕臣和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。

戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津は常に戦乱の地であり、信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ1つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦い茨木重朝伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化した。荒木村重は元亀元年(1571年)7月に阿波から再上陸した三好長逸の支援を受けており(野田城・福島城の戦い)、この対立は三好氏と幕府軍の勢力争いでもあった。

元亀2年(1571年)5月、三好義継と松永久秀が畠山昭高交野城を攻める。足利義昭の下で義継・久秀・昭高は身分上は幕臣扱いとなっており、幕臣同士の紛争に反発した義昭が和田惟政に昭高救援を命じると共に、これまで対立関係にあった筒井順慶と和睦をして久秀を牽制しようとした。これを知った義継と久秀は義昭に反旗を翻すと共に、長く対立関係にあった三好三人衆や阿波三好勢力(三好長治篠原長房ら)とも和睦をして、三好長慶の没後分裂状態であった三好勢力が再結集されることになる[1]

元亀2年(1571年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木・和田連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚(幣久良山)に陣どり、一方の荒木・中川連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。

戦いの情況[編集]

和田惟政の五輪塔
火縄式鉄砲

未だ陣形が整わない茨木・和田連合軍から、郡山城郡正信が単身で荒木・中川連合軍の陣取る馬塚に出向き、時間稼ぎをしようとした。惟政の息子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。

この時郡正信は惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである(『陰徳太平記』)。しかし惟政はこの申し出を全く聞き入れず、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである(『日本史』)。また、進言を聞き入れてもらえなかった正信は、名馬「金屋黒」に乗り戦闘に参加したが、荒木・中川連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった(『陰徳太平記』)。

村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台を与える」という陣礼を出し、清秀が惟政の首を取った[2]。この呉羽台というのは現在の池田市旭丘2丁目周辺ではなかったかとされる[3]。この呉羽台の石高は300石-500石程度で、この土地が恩賞として与えられたと考えられている。また茨木市南耳原2丁目周辺には、和田惟政の墓と伝わる五輪塔がある。

一方、清秀と惟政が激突している中、茨木軍は手薄となった村重の本陣に突進してきた。しかし、山陰に隠れていた2000兵が茨木軍を囲い込み、鉄砲衆300兵を駆使して落としいれた(『日本史』)。それでも茨木軍は奮闘し、最後には重朝自身が村重に傷を負わせたが、村重自身に討ち取られたとされる。この時、将軍義昭の家臣となっていた長井道利も討死を遂げている。

司令官を2人とも失った茨木・和田連合軍の残兵は玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。この時の様子は「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記されている(『陰徳太平記』)。

後続する和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照・右近父子との守りを固めた。

戦後の影響[編集]

茨木城の石碑
高槻城の石碑

荒木・中川連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も攻略すると、高槻城を攻囲した。松永久秀・久通父子と阿波三好家の重臣篠原長房も攻囲軍に加わり、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる(『日本史』)。

当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏高山氏の庇護を受けていた。フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。

自分の知らないところで戦が行われていたことを知った信長は、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した(『尋憲記』)。しかし両軍は動かず、同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出した(『言継卿記』)。ここに至って村重も撤兵を決意したものと考えられている。

その後、村重は池田城に、清秀は茨木城に入った。また、三好勢は高槻を越えて京に迫り、翌元亀3年(1572年)12月に三好康長篠原自遁篠原長重山城国大山崎の離宮八幡宮にそれぞれ禁制を発給している(『離宮八幡宮文書』)。一方の和田惟長は高槻城主となったが高山友照父子と対立。元亀4年(1573年)3月、村重と通じた高山父子によって高槻城から追放された。

補説[編集]

供養地蔵
  • どのような経緯を経て8月28日に白井河原で両軍が対峙したかは、未だ解明されていない。しかし、茨木・和田連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、荒木・中川連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木・中川連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。
  • この戦いを境に、信長によって任命された摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、荒木村重、中川清秀、高山友照・右近父子など、以後摂津で活躍する武将が登場してくる。戦国時代から安土桃山時代初期への世代交代の戦いとも考えられている。
  • 新屋坐天照御魂神社には、清秀が惟政の首を取ったと伝わる短刀が奉納されている。それには「長サ一尺五寸、幅一寸三分、太刀作名、奉謝、中川瀬兵衛、作平増盛」と記載されている。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」『戦国史研究』第74号(2017年)/久野『織田信長政権の権力構造』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-326-8 2019年、P185-188.
  2. ^ 『中川史料集』
  3. ^ 『茨木市史』

参考文献[編集]

  • 茨木市史編纂委員会『茨木市史』 茨木市役所、1969年6月、207頁-212頁。
  • 『わがまち茨木(城郭編)』 茨木市教育委員会、1987年3月、9頁-11頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]