登利可汗

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登利可汗(とうりかがん、拼音:Dēnglìkĕhàn、? - 741年)は、東突厥第二可汗国期の可汗毘伽可汗の次子で、伊然可汗の弟。姓は阿史那氏、名は不明。登利可汗というのはから授かった可汗号で、テングリ・カガン(Täŋri Qaγan)[1]を漢字表記したもの。初めは苾伽骨咄禄可汗(ビルゲ・クトゥルグ・カガン)[2]と号した。

生涯[編集]

開元22年(734年)、毘伽可汗が大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒殺されたので、国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。しかし、彼もまもなく病死したので[3]、その弟を立てて苾伽骨咄禄可汗(ビルゲ・クトゥルグ・カガン)とした。

苾伽骨咄禄可汗は若くして即位したため、その母すなわち暾欲谷(トニュクク)の娘(骨咄禄婆匐可敦)が小臣の飫斯達干(よしタルカン)[4]と姦通し、彼女らに国政を預けたため、民衆に心服されることはなかった。また、苾伽骨咄禄可汗の従叔父2人は東西に分かれて兵馬を掌握し、東に在る者は左殺(左シャド)[5]と号し、西に在る者は右殺(右シャド)と号し、東突厥の精鋭は皆分かれて両殺の下にあった。

開元28年(740年)、玄宗は右金吾将軍の李質を遣わして璽書を齎(もたら)し、苾伽骨咄禄可汗を冊立して登利可汗(テングリ・カガン)とした。

開元29年(741年)1月、登利可汗は遣使の伊難如を唐に入朝させ、方物を献上した。7月、登利可汗は母(骨咄禄婆匐可敦)と西殺(右殺)を誘って斬殺し、その衆を自分の衆に組み込んだ。懼れた左殺(判闕特勤[6])は登利可汗を攻め殺し、骨咄葉護(クトゥ・ヤブグ)[7]は自ら立って可汗となった。

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  • 余燭公主

脚注[編集]

  1. ^ 「天なる可汗」の意。
  2. ^ ビルゲ・クトゥルグ・カガン(Bilgä qutluγ qaγan)すなわち、「賢明で幸を得たる可汗」の意。苾伽可汗との表記されることもある
  3. ^ 『旧唐書』では「まもなく病死した」とあるが、『新唐書』では「即位8年で骨咄葉護に殺された」とある。
  4. ^ 達干(タルカン、Tarqan)とは、突厥回鶻における官職の一つ。
  5. ^ 殺(シャド、Šad、察)とは、突厥や回鶻における官職の一つ。阿史那默啜以降、東西2人のシャドが置かれるようになった。
  6. ^ 烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)の父。
  7. ^ 葉護(ヤブグ、Yabγu)とは突厥可汗国内で可汗に次ぐ大臣クラスの地位。

参考資料[編集]

  • 旧唐書』(本紀第九 玄宗下、列伝第一百四十四上 突厥上)
  • 新唐書』(列伝第一百四十下 突厥下)
  • 佐口・山田・護訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年平凡社