由比忠之進

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由比 忠之進(ゆい ちゅうのしん、1894年(明治27年)10月11日 - 1967年(昭和42年)11月12日)は、日本弁理士日本エスペラント学会会員のエスペランティスト福岡県前原町(現在の糸島市)生まれ。

人物[編集]

当時蔵前にあった東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を卒業し電線会社やラジオ局など種々の職につく。1921年(大正10年)頃からエスペラント語を学び始めた。1932年(昭和7年)頃には名古屋に住み、名古屋エスペラント会の創立に参加している。 太平洋戦争中は満州の製糸会社に勤務。1945年(昭和20年)の終戦後も中国に徴用され、1949年(昭和24年)に帰国。戦後は名古屋で特許事務所を開いた。

戦後は原水爆禁止運動にかかわり、被爆者の体験記をエスペラント語に翻訳、海外に紹介した。1960年代には、ベトナム戦争の激化を受けてベトナムのエスペランティストと文通で交流、本多勝一の「戦場の村」のエスペラント語訳などに取り組んだ(自殺のため未完)。しかし、政治党派に所属したことはなく、エスペラントの仲間や子どもからは政治的な人物とは見なされていなかったという。

1967年(昭和42年)11月11日、世界に先駆けてアメリカの北爆支持を表明した佐藤栄作首相の訪米への抗議行動として、[1]首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺を図る。その際に携えていた佐藤栄作宛の抗議書には、「ベトナム民衆の困窮を救う道は、北爆を米国がまず無条件に停止するほかはない。ジョンソン大統領と米国に圧力をかける力を持っているのはアジアでは日本だけなのに、圧力をかけるどころか北爆を支持する首相に深い憤りを覚える。私は本日、公邸前で焼身、死をもって抗議する。戦争当事者、すなわちベトナム、米国人でもない私が焼身することは物笑いの種かもしれないが、真の世界平和とベトナム問題の早期解決を念願する人々が私の死を無駄にしないことを確信する」と結ばれていた。[2][3] 救急搬送されたが翌12日に気道熱傷のため死亡した。佐藤訪米阻止闘争のデモが激しく行われた当日、デモの解散後に単独で決行された抗議行動であった。北爆を支持する日本政府に一般市民が自らの死をもって抗議した行為は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。

脚注[編集]

  1. ^ AHR Forum, Japan 1968: The Performance of Violence and the Theater of Protest, p. 110ウィリアム・マロッティ著(アメリカ歴史学会機関紙)
  2. ^ 「自殺の思想」朝倉喬司 p.350、太田出版 2005年
  3. ^ 「われ炎となりてあるエスペランテストの抗議」(岩垂弘)ベトナム問題に関して国連総会でのスウェーデン、オランダ、カナダの反対意見にも拘わらず、あえて南ベトナム訪問を強行し、オーストラリアで北爆支持を世界に公言した首相への抗議と米軍によるダムダム弾を上回る兵器の使用の残虐性についても言及する抗議文が紹介されている

参考文献[編集]

  • 明日への葬列—60年代反権力闘争に斃れた10人の遺志 - 高橋和巳 編集、合同出版 1970年。
  • 暗殺の哲学 - 高橋和巳 、高橋和巳作品集6 に採録 河出書房新社 1969年。
  • 我が身は炎となりて―佐藤首相に焼身抗議した由比忠之進とその時代 - 比嘉康文、新星出版 2011年。

関連項目[編集]