田辺伯孫

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田辺 伯孫 (たなべ の はくそん、生没年不詳)は『日本書紀』等に伝わる古代日本豪族

経歴[編集]

田辺史氏は、河内国安宿郷の田辺の地(現在の大阪府柏原市国分町)を本拠地とする百済系の渡来氏族である。

日本書紀』巻第十四には、雄略天皇時代の話として、誉田山古墳応神天皇陵)にまつわる以下の物語があげられている。

河内国飛鳥戸部(あすかべのこおり、現在の柏原市南東部)の住人であった田辺史伯孫は、初秋の一日、古市郡の書首加竜(ふみ の おびと かりょう)に嫁ぎ、出産した娘の祝賀のために聟の家へ行ってきた。月夜であったその帰路、蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵(ほんだのみささぎ)の下に赤い駿馬にまたがった騎士に出会った。異彩をはなったみなりで、常とは異なる優れた姿の馬だった。伯孫はその馬を見て欲しくなり、乗っていたみだらおの馬(栗毛の馬)に鞭をうち轡を並べようとしたが、赤馬の方が先に行ってしまい、埃や塵のようになり、消え去っていた。だが、その時、駿馬に乗っていた人物は伯孫の願いに気づき、馬を交換して、挨拶をして別れていった。伯孫は疾き馬を得て歓喜し、厩に入れ、餌を与えて寝たが、翌朝、赤馬は土の馬、すなわち埴輪に転じていた。伯孫は不思議に思い、誉田陵にもどって目を細めて遠くの方まで見まわして捜すと、元のみだらおの馬が土馬の中に立っているのを見つけた。そこで、かわりに土馬と取り替えておいた、という[1]。同じ物語は『新撰姓氏録』「左京皇別」にも現れている。

考証[編集]

上記の文章は、『文選』の「赭白馬賦」(しゃはくばふ)に見える文句を転置して修飾された文章でもあり、また、宋書の「五行志」の、牛禍条(ぎゅうか)に見える桓玄の伝説と同じ骨組みであるが、

  1. 河内郡飛鳥戸郡の田辺史氏の本拠地は、現在の柏原市田辺一丁目あたりで、この地には田辺廃寺跡があった。ここから伯孫が聟の家のある古市郡へ向かうには、誉田陵の東側を北東から北西に進む東高野街道という道を経由せねばならず、必ず誉田陵を望むことになるため、この陵墓が応神天皇陵である根拠の一つになってもいる。ただし、『書紀』や『新撰姓氏録』編纂の時代には、既に応神天皇の治政から数百年が経過していることも考慮しなければならない、と佐伯有清は述べている。
  2. 雄略天皇の時代には、応神陵・仁徳陵のような巨大な古墳を築造する習慣が失われつつある時代で、田辺史氏は帰化人(渡来人)であるため、余計にその神秘性と奇異さを感じ取ったであろう、と北野耕平は述べている。
  3. 応神陵には埴輪の馬が飾られていたことが分かり、垂仁天皇時代の野見宿禰の話とともに、埴輪の縁起譚になっている。実は応神陵自体からは馬形埴輪は出土しておらず、出土と伝えられる破片が見つかっているのみである。ところが、応神天皇には馬にまつわる逸話が伝えられており、『古事記』には、
亦(また)百済の国主(こにきし)照古王(せうこわう=近肖古王)牡馬(をま)壱疋(ひとつ)、牝馬(めま)壱疋を阿知吉師(あちきし)に付けて貢上(たてまつ)りき。[2]

という記述が見られる。『日本書紀』巻第十にも

百済の主、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して。良馬(よきうま)二匹(ふたつぎ)を貢上(たてまつ)る。即ち軽(かる)の坂上(さかのうへ)の廐(うまや)に養(か)はしむ。因りて阿直岐を以て掌り飼はしむ。故(かれ)、其の馬養(か)はしむ処(ところ)を号(なづ)けて、廐坂(うまやさか)と曰ふ。[3]

とあり、これと同じ情景を描写しているものと推定されている。 高句麗好太王碑文の

十年庚子(400年)、歩騎五万を遣はして、往きて新羅を救は教(し)む。男居城従(よ)り、新羅城に至るまで倭、其の中に満つ。官兵、方(まさ)に至り、倭賊、退く。倭満ち、倭潰(つい)ゆ。[4]

という記述にもあるように、当時の日本(倭)には騎馬兵が存在せず、その後北上して帯方郡に侵入したのは水軍によるものであったと『同碑文』にもあることから、『記紀』の記録は、百済が日本の援助を求めるべく、日本にはない馬を献上したことを示しているのではないか、と井上薫は述べている。

なお、乗馬の風習を示す最古の遺物は、5世紀中葉の誉田丸山古墳出土の金銅製竜文透彫り鞍金具(こんどうせい りゅうもん すかしぼり くらかなぐ)である。これは金メッキをほどこした馬具で、この古墳は応神陵の陪塚(ばいちょう)に当る。さらに、藤井寺市長持山古墳出土の、木心鉄板張のなども当てはまり、これらは古新羅の遺物と同じ様式に属するものである。

一番合理的な解釈は、祝い酒に酔った伯孫の失態ではないか、と辻葩学は述べている。

脚注[編集]

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  1. ^ 『日本書紀』巻雄略天皇9年7月1日条
  2. ^ 『古事記』中巻、応神天皇条
  3. ^ 『日本書紀』応神天皇15年8月6日条
  4. ^ 広開土王碑文十年庚子条

参考文献[編集]

  • 『日本書紀』(二)・(三)、岩波文庫、1994年
  • 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p787(三省堂、1993年)
  • 『日本の歴史1 神話から歴史へ』、井上光貞:著、中央公論社、1965年
  • 歴史読本特別増刊事典シリーズ『「天皇陵」総覧』、新人物往来社、1993年より、「誉田陵と田辺史氏の伝承」文:佐伯有清、第十五代「応神天皇陵」文:辻葩学(つじはな まなぶ)
  • 『毎日グラフ別冊 古代史を歩く7河内』、毎日新聞社、1987年より、「古墳を歩く」文:北野耕平、「古代河内通史」文:井上薫
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年

関連項目[編集]