田岡嘉寿彦

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田岡 嘉寿彦
たおか かずひこ
人物情報
生誕 (1894-07-27) 1894年7月27日
香川県三野郡上高瀬村
死没 (1985-07-21) 1985年7月21日(90歳没)
京都府京都市
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都帝国大学法科大学
学問
研究分野 民法会社法
研究機関 大分高等商業学校
彦根高等商業学校
山口経済専門学校
近畿大学
大阪経済大学
広島経済大学
称号 大阪経済大学名誉教授
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田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1985年7月21日)は、日本弁護士法学者。専門は私法学大阪経済大学元理事長、同名誉教授。

来歴・人物[編集]

1894年(明治27年)香川県三野郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)に生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1915年(大正4年)京都帝国大学法律科入学、1918年(大正7年)に卒業し司法官試補となる。1920年(大正9年)大阪地方裁判所判事に任官。1922年(大正11年)学界に転じ大分高等商業学校教授に就任、法律学を担当。翌1923年(大正12年)よりイギリス・ドイツに留学する。1929年(昭和4年)彦根高等商業学校に転任し民法、商法などを講じた。1942年(昭和17年)同校の校長に就任。彦根高商は1944年(昭和19年)4月に高商を高工(工専)化しようとする軍部の圧力から彦根経済専門学校と改称され、同年5月には彦根工業専門学校へと変更(転換)[1]、彦根高等商業学校の最後の校長となった。1945年(昭和20年)11月から1947年(昭和22年)6月までは山口経済専門学校校長を務めた。

GHQにより公職追放となり、1947年(昭和22年)8月に大阪にて弁護士開業。また1949年(昭和24年)に近畿大学教授に就任、1953年(昭和28年)大阪経済大学に転任し民法会社法を教授。1967年(昭和42年)には広島経済大学の開学に招聘され教授、経済学部長に就任し1972年(昭和47年)まで務めている[2][3]1957年(昭和32年)10月から1959年(昭和34年)10月までと1964年(昭和39年)5月から1974年(昭和49年)4月まで大阪経済大学の法人理事長を務めた。その間、同郷で彦根高等商業学校、大阪市立大学などの教授を歴任した藤田敬三が、1960年(昭和35年)12月から1969年(昭和44年)11月まで大阪経済大学第3代学長を務めている[4]1979年(昭和54年)同大学退職、名誉教授[3]

また、歌人としても知られ、雅号は、「田岡雁来紅」。1923年(大正12年)「香蘭短歌会」に入り村野次郎に師事する。1966年(昭和41年)近畿地方の歌友と「夢短歌会」を結成し短歌雑誌『夢』を発行。1955年(昭和30年)1月に処女歌集『大閒集』、1970年(昭和45年)11月に第二歌集『風塵抄』を出版。随筆集には、『馬の足跡』、『私の横顔』、『雁来紅漫筆』がある[5]

栄典[編集]

著書[編集]

  • 『会社法綱要』巌松堂書店、1932年
  • 『民法総則』共著、経大私法研究会、1955年
  • 『法学概論』共著、経大私法研究会、1956年
  • 『約束手形法講座』綜文館、1959年
  • 『歌集 風塵抄』大阪教育図書、1970年

脚注[編集]

  1. ^ 『しが彦根新聞』平成25年11月7日付 2015年5月12日閲覧
  2. ^ 広島経済大学十年史編集委員会 1977, p. 28.
  3. ^ a b 田岡嘉寿彦名誉教授略歴・著作目録 1986.
  4. ^ 『2008年度事業報告書 - 大阪経済大学』 p.3、2013年12月27日閲覧
  5. ^ 『雁来紅漫筆』(大阪教育図書、1976年)著者略歴

参考文献[編集]

  • 『大分高等商業学校一覧 自大正12年至大正13年』大分高等商業学校、1923年
  • 『彦根高等商業学校一覧第20年度 自昭和17年至昭和18年』彦根高等商業学校、1943年
  • 広島経済大学十年史編集委員会 編『広島経済大学十年史(誌):明徳』広島経済大学、1977年。 
  • 『香川県人物・人名事典』四国新聞社、1985年
  • 「田岡嘉寿彦名誉教授略歴・著作目録」『大阪経大論集』第172号、田岡嘉寿彦名誉教授追悼号、大阪経大学会、1986年、425-427頁。 
  • 『香川県人物・人材情報リスト 2011』日外アソシエーツ、2010年12月