田中耕造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

田中 耕造(たなか こうぞう、1851年7月26日嘉永4年6月28日〉 - 1883年明治14年〉11月7日)は、幕末から明治時代中期の日本官吏政治家思想家[1]。本名は信雅。

経歴[編集]

江戸の生まれ[1]昌平坂学問所で学び[1]中江兆民らからフランス語を学ぶ。司法省を経て1881年(明治12年)に川路利良の付き人となった事により警視庁に入り[1]、フランスの警察制度の視察などに貢献した。

1883年(明治14年)に退職し法律講義会(後の嚶鳴社)、及び板垣退助らが創設した自由党に加入した[1]。兆民が仏学塾から刊行した雑誌「政理叢談」の翻訳及び紹介したが同年に死去した[1]。尚、足尾鉱毒事件にて「余は下野の百姓なり」と農民の立場になり、明治天皇に直訴した衆議院議員、田中正造との血統関係はない。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus). “田中耕造”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2021年12月14日閲覧。