田中総司 (野球)

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田中 総司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県伊丹市
生年月日 (1977-08-21) 1977年8月21日(46歳)
身長
体重
179 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1999年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 2000年4月5日
最終出場 2004年4月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

田中 総司(たなか そうじ、1977年8月21日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元プロ野球選手投手)。2000年の登録名は「総司」(そうじ)。

来歴・人物[編集]

伊丹市立鴻池小学校の頃に父親が監督[1]の鴻池フレンズで野球を始める[2]伊丹市立天王寺川中学校では鈴衛佑規(元広島)とバッテリーを組み全国大会ベスト4。兵庫県立伊丹北高等学校では1年夏、2年秋に県大会ベスト8、3年夏は県大会ベスト4[2][3]

立命館大学時代は2年秋と3年春のリーグ戦で1試合15奪三振の快投[1]。1年下の山田秋親(後にプロでも同僚)との2本柱で4年春に大学選手権ベスト8[3]、秋はリーグ・最優秀選手、ベストナインに選ばれて明治神宮大会出場[3]も初戦(九州共立大戦)で山田の後に登板したが、的場寛一のサヨナラ打で延長の末に敗れた。登板した相手も後にプロで後輩となる新垣渚山村路直であった。リーグ通算43試合15勝8敗防御率1.11と、関西学生野球連盟屈指の投手として活躍。同期の主将は葛城育郎

1999年、福岡ダイエーホークスにドラフト1位(逆指名)で入団した。1年目は開幕一軍入りし、初登板を果たすも3安打3失点という内容ですぐに二軍落ちし、オフに肘を手術[4]。代償は大きく、ストレートの球速が145km/hから130km/h台中盤にまで落ち込む[4]。3年目には尾花高夫投手コーチの指導により[4]サイドスロー転向なども経験したが結果を残すことはできなかった[4]。背番号21も、2003年に和田毅が入団すると剥奪される。2004年オフに戦力外通告を受け、トライアウト受験のため練習していた際に肩を痛め[4]、現役引退。

引退後は特定非営利活動法人、ホークスジュニアアカデミーでコーチを務めながら[5]福岡医療専門学校に通い[4]柔道整復師鍼灸師の資格を取得した[4]

2011年春に専門学校を卒業し、芦屋市の鍼灸接骨院で勤務[4]2017年5月に独立し伊丹市に「たなか鍼灸接骨院」を開業した[6]。その傍らボーイズリーグの「伊丹中央ボーイズ」の監督を務めている[2]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2000 ダイエー 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 0.2 3 1 0 0 0 1 0 0 3 3 40.50 4.50
2003 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 2.0 0 0 4 0 0 3 1 0 0 0 0.00 2.00
2004 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 2.1 2 0 1 0 0 2 1 0 0 0 0.00 1.29
通算:3年 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 25 5.0 5 1 5 0 0 6 2 0 3 3 5.40 2.00

記録[編集]

背番号[編集]

  • 21 (2000年 - 2002年)
  • 54 (2003年 - 2004年)

登録名[編集]

  • 総司 (そうじ、2000年)
  • 田中 総司 (たなか そうじ、2001年 - 2004年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 週刊ベースボール増刊 大学野球99秋季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社
  2. ^ a b c 当院長について”. たなか鍼灸接骨院. 2021年4月18日閲覧。
  3. ^ a b c 2000プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社
  4. ^ a b c d e f g h 週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96
  5. ^ NPO法人ホークスジュニアアカデミー > 田中 総司”. HAWKS JUNIOR ACADEMY. 2011年10月8日閲覧。
  6. ^ 鷹の元ドラ1が次世代に伝えたいこと ケガに苦しんだ経験を糧に進む第二の人生 >”. デイリースポーツ. 2019年11月1日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]