田中本吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
田中 本吉
M. TANAKA
Motokichi Tanaka.png
生誕 脇屋本吉
万延元年(1860年)2月
越後国三島郡大積村新潟県長岡市大積町)
死没 1936年昭和11年)1月27日
新潟県古志郡六日市村渡沢(新潟県長岡市渡沢町)
墓地 長岡市専福寺
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
教育 小山正太郎
出身校 新潟学校師範学部
著名な実績 洋画
代表作 「遠村鶏鳴」「農夫」
配偶者 田中新三郎娘
選出 明治美術会
メモリアル 卓峰田中本吉君頌徳碑
この人物に影響を
与えた芸術家
浅井忠黒田清輝
この人物に影響を
受けた芸術家
笠原軔

田中 本吉(たなか もときち[1])は戦前新潟県洋画家。旧姓は脇屋、号は卓峰山人。不同舎小山正太郎門下。北魚沼郡根小屋校長、神奈川県尋常師範学校図画担任、三島郡山谷沢村会議員、山谷沢尋常小学校課外講師。

経歴[編集]

万延元年(1860年)2月越後国三島郡大積村新潟県長岡市)に脇屋善四郎の四男・第六子として生まれた[2]。1878年(明治11年)1月新潟学校師範学科に入学し、1880年(明治13年)師範学部を卒業し、古志郡中沢校・三島郡才津校・大積大村校・尼瀬校訓導、北魚沼郡根小屋校長を歴任した[2]

下村為山筆『送別図』第6幅。小山正太郎宅での送別会の様子。田中本吉が奥で正座し、正太郎が『郵便報知新聞』を読む中、為山・浅井忠・岡精一柳源吉等がトランプ・双六・腕相撲に興じる。

1886年(明治19年)11月上京し、11日中村桃庵の紹介で不同社小山正太郎に入門し、浅井忠黒田清輝にも影響を受けた[2]。1889年(明治22年)神奈川県尋常師範学校に就職して図画を担任した[2]。1890年(明治23年)10月小泉成一を後任として退職、同月帰郷し、12月古志郡渡沢村の旧家田中新三郎に婿入りした[2]

1894年(明治27年)山谷沢尋常小学校に農業習修学校が併設されると、毎冬夜学会に自宅を提供した[2]。1900年(明治33年)渡沢区長、村会議員、学務委員となり、1902年(明治35年)小学校校舎を増築した[2]真宗大谷派に帰依し、1903年(明治36年)7月16日上古志仏教婦人会を創立した[2]

1919年(大正8年)秋上信越、1921年(大正10年)飛騨富士山を写生旅行した[2]。1921年(大正10年)60歳で家督を譲った[2]

1924年(大正13年)4月山谷沢尋常小学校図画科課外講師となり、毎週水曜日無給で出講した[2]。同年9月北海道東北、1926年(大正15年)西日本・朝鮮を写生旅行した[2]。1928年(昭和3年)昭和天皇即位の礼で献穀米奉耕の儀を務めた[2]

1936年(昭和11年)1月27日死去し、専福寺田中家累代墓に葬られた[2]。戒名は高灯院釈卓峰[2]

内容が確認できる作品[編集]

「神田明神」
「農夫」
  1. 「釜戸」 - 1888年(明治21年)作。個人蔵[2]
  2. 神田明神」 - 1889年(明治22年)明治美術会第1回展出品。『東京日日新聞』に提灯について酷評されている。図版のみ現存[2]
  3. 「遠村鶏鳴」 - 1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会出品。農商務大臣に買い上げられた。『送別図』第3幅図中に描かれる。森鴎外に「鶏鳴」(明け方)にしては明るすぎると論評されている[2]
  4. 小山正太郎筆「仙台の桜」模写 - 1894年(明治27年)1月作。個人蔵[2]
  5. 「涛声」 - 1895年(明治28年)明治美術会秋季展覧会第7回展出品。図版のみ現存[2]
  6. 「農家ノ夜業」- 1897年(明治30年)明治美術会春季展覧会第8回展出品。長岡市立山谷沢小学校所蔵[2]
  7. 木曽乃山路の図」 - 個人蔵[2]
  8. 「農夫」 - 1893年(明治26年)以降作[2]。山谷沢小学校校長室所蔵[3]
  9. 「静物」 - 1905年(明治38年)第4回太平洋画会展出品。図版のみ現存[2]
  10. 「風景」 - 1906年(明治39年)作。長岡市立中央図書館所蔵[2]
  11. 『画帳』 - 個人蔵[2]
    1. 「汽車中人ノ様」 - 1919年(大正8年)作。木曽行の車内の様子[2]
    2. 木曽山中鞍馬橋附近雨中之光景」 - 1919年(大正8年)秋作[2]
    3. 妙義山ノ秋」 - 1919年(大正8年)作[2]
    4. 「妙義山の秋色」 - 1919年(大正8年)作[2]
    5. 鯨波之夕陽」 - 1920年(大正9年)6月作[2]
    6. 飛騨中山七里」 - 1921年(大正10年)10月作[2]
    7. 志笏湖」 - 1924年(大正13年)9月作[2]
    8. 駒ヶ岳」 - 1924年(大正13年)9月作。噴煙を上げている[2]
    9. 佐渡外海府笹子の堅岩」 - 1925年(大正14年)8月作[2]
    10. 月ヶ瀬梅の明」 - 1926年(大正15年)4月作[2]
    11. 芳野山千本之一部」 - 1926年(大正15年)4月作[2]
    12. 備前国岡山市外三蟠港観望」 - 1926年(大正15年)4月作[2]
    13. 「犬走河原」 - 1926年(大正15年)4月作[2]
    14. 旧羅漢」 - 1926年(大正15年)4月作[2]
    15. 日光杉并木今市町木ノ根坂」 - 1933年(昭和8年)10月作[2]
  12. 「飛騨国中山七里ノ中」 - 1921年(大正10年)作。個人蔵[2]
  13. 伊豆修善寺」 - 個人蔵[2]
  14. 「妙義山」 - 第一石門を描く。個人蔵[2]
  15. 「風景」 - 1932年(昭和7年)作。長岡市立中央図書館所蔵[2]
  16. 「風景(七ツ釜)」 - 1932年(昭和7年)作。十日町市田代の七ツ釜を描く[2]。2014年(平成26年)度新潟県立近代美術館収蔵[1]
  17. 「風景」 - 1932年(昭和7年)頃作。田代の七ツ釜を描く。親族により専福寺本堂に寄進された[2]
  18. 「風景」 - 2014年(平成26年)度新潟県立近代美術館収蔵[1]
  19. 諏訪神社天井画 – 1898年(明治31年)初春作。長岡市中沢諏訪神社所蔵[2]
  20. 専福寺欄間 – 1907年(明治40年)春作。中沢中村家のものだったが、新潟県中越地震で被災し、専福寺に寄附された[2]
  21. 専福寺天井画198点 - 1917年(大正6年)4–5月作[2]
  22. 衝立 – 1932年(昭和7年)作。富士山の前に菊を配する。脇屋本家の求めによる[2]

長岡市内互尊文庫、平潟神社や個人が所蔵していた作品は、1945年(昭和20年)長岡空襲で多くが焼失した[2]

記念碑[編集]

  • 卓峰田中本吉君頌徳碑 - 1920年(大正9年)7月渡沢村日光社境内に建立[2]

大積村脇屋家[編集]

誠義の姉の長男諸橋正昭富山医科薬科大学教授、姉の孫諸橋芳夫日本病院会[5]。誠悦の弟脇屋正一新潟大学工学部長[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 近代美術館 2016, p. 104.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 松矢 2015.
  3. ^ お宝鑑賞月間”. 学校日記. 長岡市立山谷沢小学校 (2017年7月11日). 2018年2月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 岡部 1937, p. 89.
  5. ^ a b c d 田中 2000.
  6. ^ 本田 1942, p. 新潟県26.
  7. ^ 脇屋 1998.
  8. ^ 脇屋 2001.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]