田上菊舎

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田上 菊舎(たがみ きくしゃ、女性、1753年11月8日宝暦3年10月14日)[1] - 1826年9月24日文政9年8月23日)[1])は、江戸期の俳人。本名は田上道[1]、初号は菊車、のちに菊舎[1]。別号は一字庵[1]

経歴[編集]

長門国豊浦郡田耕(たすき)村(現在の下関市豊北町田耕)に田上由永、母タカの長女道(みち)として生まれた[1][2]1768年(明和5年)、同じ村の村田利之助に嫁いだものの、6年後に夫が死去[1][2]。その後、長府の五精庵只山に師事し「菊車」の号を授かり、田上家に復籍する[2]

1781年(天明元年)、萩の清光寺で得度した後[2]美濃派宗匠朝暮園傘狂を訪ねて入門[1][2]。「一字庵」の号を授かり[2]、越前・越後・奥羽と「奥の細道」の逆コースを辿る大行脚に出る[3]。1783年(天明3年)、菊車の号を菊舎に改号[3]。その後も全国行脚を続けた。

1811年文化8年)、京都大徳寺で茶会を催し、翌年には奈良法隆寺で特別に中国伝来の開元琴を演奏した[2]1812年(文化9年)俳諧紀行文『手折菊』を刊行[2]。1826年(文政9年)、長府にて死去、満72歳[2]

菊舎は初め俳人として世に出たが、(七弦)琴茶の湯和歌漢詩にも精通した[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第2巻』岩波書店、1984年1月、114頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j 田上 菊舎 | 山口県の先人たち”. heisei-shokasonjuku.jp. 2020年11月22日閲覧。
  3. ^ a b 菊舎略年譜”. kikusha.com. 菊舎顕彰会. 2020年11月22日閲覧。

外部リンク[編集]