産めよ殖やせよ
産めよ殖やせよ(うめよふやせよ、産めよ増やせよ)とは、かつて厚生省が発表した出生主義政策のスローガン(国策標語)[1]。またその人口増加政策の思想、家族計画運動を総称する言葉として用いられる[2][3]。
皇国史観や家族国家観と結びつき、家父長制度の元で多産は女性の忠君愛国の具体的実践とされた。「産めよ殖やせよ」はこうした思想を簡潔に示す言葉として用いられた[3]。
背景
[編集]当時1930年代の日本では、都市化や生活様式の現代化、また昭和恐慌以降農村部を中心に伝統的に維持されてきた大家族の衰退により、出生率の長期下落傾向を示していた[3]。
1930年代後半には日本は、日中戦争の長期化と総力戦体制への移行に直面していた。戦争遂行には大量の兵力とそれを支える労働力が必要であり、人口規模そのものが国家存立の基盤であるとの認識が政府および軍部を中心に強まっていった。このような状況下で人口減少や出生率低下への危機感が顕在化し、国家主導による出生主義政策が強力に推進されることとなった。
政策
[編集]1938年(昭和13年)に厚生省が新設され、翌1939年(昭和14年)には国民体力法が制定された。これにより国民の健康管理と人口政策は国家の直接的統制下に置かれ、出産は私的行為ではなく国家的資源形成の一環として位置づけられた。そして国家は出生率の向上を重要政策課題と位置づけ、女性に対する出産奨励を中心とした出生主義政策を推進した[4]。
1939年(昭和14年)9月30日、阿部内閣厚生省予防局優生課の民族衛生研究会は、ナチス・ドイツの「配偶者選択10か条 (Zehn Gebote für die Gattenwahl)」に倣い「結婚十訓」を発表する[5][6][7]。
結婚十訓
- 一. 一生の伴侶として信頼出来る人を選べ
- 二. 心身共に健康な人を選べ
- 三. お互いに健康証明書を交換せよ
- 四. 悪い遺伝の無い人を選べ
- 五. 近親結婚は成るべく避けよ
- 六. 成るべく早く結婚せよ
- 七. 迷信や因習に捉われるな
- 八. 父母長上の意見を尊重せよ
- 九. 式は質素に届は当日
- 十. 産めよ育てよ国の為
この第十条の『生めよ育てよ国の為』が語源[8]となり転じて「殖(増)やせよ」が一般的になった[9]。「産めよ殖やせよ」という表現は、ポスター、新聞、雑誌、講演会などを通じて広められ、これらの宣伝では出産が国を支える行為であり、母親は「銃後」を支える存在であると強調された。こうした啓蒙活動は、個人の価値観に働きかけ出産を当然視する社会的雰囲気を形成した典型的な戦時下のプロパガンダである[4]。厚生省は1940年(昭和15年)年5月に、「優良多子家庭表彰要綱」を策定し、子ども10人を戦死や天災以外の原因で1人も夭折させずに青年期まで育てた家庭を優良多子家庭として表彰した[10]。
その後、1941年(昭和16年)1月、近衛文麿内閣の閣議決定により「人口政策確立要綱」が制定される[11]。この人口政策確立要綱は、当時7300万人だった日本帝国の軍国主義を支えるため、1950年(昭和25)年における内地総人口1億人を目指し、初婚年齢を3歳引き下げて男性25歳、女性21歳とする人口増強策の提示と、国の理想である「一家庭に子供5人」を実現するために独身税、婚資貸付検討を含め国民への上からの呼びかけとなっていた[12]。 政府は、早婚と多産を理想的な家族像として提示し、結婚や出産を積極的に奨励した。若年結婚が推奨され「産児報国」「結婚報国」などもスローガンに、総力戦に必要な人的資源を確保するための人口政策となった[13][10]。
また出生主義政策の推進にあたり、産児制限や避妊に関する思想や情報は否定的に扱われた。産児制限は利己的で非国民的な行為とされ、出産を控えることは国家への協力を欠く態度であるとみなされる場合もあった。産児制限に関する公的な情報、避妊知識の普及は人口増殖を阻害するものとして情報提供は制限され、産児制限相談所会長の加藤シヅエも相談所を閉鎖された。流産やまた死産を防ぐため、1942年(昭和17年)に妊産婦手帳制が導入され、現在の母子手帳につながっている[3]。
「産めよ殖やせよ」は単なる人口増加のプロパガンダだけではなく、戦時体制・国家総動員体制のもとで形成された制度的枠組みの中で成立した概念である。出生主義政策は経済政策、社会政策、思想統制と密接に連動し、国民生活の私的領域にまで国家が介入することを正当化する役割を果たした[4]。
国民優生法
[編集]1940年(昭和15年)に制定された国民優生法は、「産めよ殖やせよ」と象徴される出生主義政策と密接に関連していた。同法は、表向きには「民族の質の向上」を目的とし、遺伝性疾患を持つと判断された者に対する不妊手術などを合法化したものである。
この法律は、出生数を増加させる一方で国家が望ましいと考える人口構成を形成しようとする政策の一環であった。すなわち、「産めよ殖やせよ」が量的な人口増加を重視したのに対し、国民優生法は質的管理を担った制度であり両者は戦時国家における人口政策の両輪を成していたと評価されている。その結果、出産は単に奨励されるだけでなく「健全な身体を持つ子どもを産むこと」が求められるようになり、国家は生殖行為そのものに価値判断を加える立場を強めた。これは個人の生殖の自由よりも国家目的を優先する思想を制度的に裏づけるものであった[3]。
結果
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「産めよ殖やせよ」政策は人口動態に一時的な変化を起こした。1939年から出生数、出生率と合計特殊出生率共に微増し、1941年には当時出生数過去最高を記録したが確認できる。これは社会的圧力、制度的支援が一定の短期的効果を持ったためであり、戦況の悪化、物資不足、空襲の激化に伴い、第二次世界大戦末期には再び出生率は再び低下した[4]。
母子保健向上のため保健所法が制定され保健所が全国に設置、また保健婦(現:保健師)、助産婦(現:助産師)の人材育成により乳幼児死亡率は低下したのがわかる[11]。
| 年 | 政策及び社会情勢 | 出生数 | 出生率 | 合計特殊出生率 | 乳幼児死亡率 (1000人あたり) |
総人口 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1930 | 2,085,101 | 32.4 | 4.70 | 124.1 | 64,450,005 | |
| 1931 | 満州事変 | 2,102,784 | 32.1 | 4.76 | 131.5 | 65,457,500 |
| 1932 | 2,182,742 | 32.9 | 4.86 | 117.5 | 66,433,800 | |
| 1933 | 2,121,253 | 31.5 | 4.63 | 121.3 | 67,431,600 | |
| 1934 | 2,043,783 | 29.9 | 4.39 | 124.8 | 68,308,900 | |
| 1935 | 2,190,704 | 31.6 | 4.59 | 106.7 | 69,254,148 | |
| 1936 | 2,101,969 | 30.0 | 4.34 | 116.7 | 70,113,600 | |
| 1937 | 日中戦争開戦 | 2,180,734 | 30.9 | 4.45 | 105.8 | 70,630,400 |
| 1938 | 1,928,321 | 27.2 | 3.88 | 114.4 | 71,012,600 | |
| 1939 | 「結婚十訓」発表 | 1,901,573 | 26.6 | 3.80 | 106.2 | 71,379,700 |
| 1940 | 国民優生法制定 | 2,115,867 | 29.4 | 4.11 | 90.0 | 71,993,000 |
| 1941 | 「人口政策確立要綱」制定
太平洋戦争開戦 |
2,277,283 | 31.1 | 4.36 | 84.1 | 71,678,000 |
| 1942 | 2,233,660 | 30.3 | 4.18 | 85.5 | 72,386,000 | |
| 1943 | 2,253,535 | 30.3 | 4.11 | 86.6 | 72,887,700 | |
| 1944 | 2,149,843 | 29.2 | 3.95 | 73,064,000 | ||
| 1945 | 終戦 | 1,685,583 | 23.2 | 3.11 | 71,998,104 |
評価
[編集]戦後において「産めよ殖やせよ」に象徴される出生主義政策は、戦時国家による私生活への介入を象徴する言葉として批判的に扱われている。特に、女性の社会的役割は「母性」に強く限定され、生殖に関する自己決定権は著しく制約された点、女性の身体や生殖を国家目的に従属させた点が、現代の人権およびジェンダー研究の観点から問題視されている[14][15][16]。
また現在の少子化対策が女性に圧力をかける「産めよ増やせよ」を想起させるとして批判もある[17][18][19]。誰もが自由に選択でき、安心して子育てできる環境整備(経済的支援、働き方改革、男女の平等)を求め、「産めよ増やせよ」という思想が背後にある少子化対策は時代錯誤であるという批判もある[20]。
脚注
[編集]- ^ Inc, Nikkei (2014年5月24日). “出生率に目標値、「産めよ殖やせよ」再び?(Wの質問)”. 日本経済新聞. 2025年9月23日閲覧。
- ^ “いい妻・母・嫁…演じる女性 奥底に眠る「青い炎」 山内マリコ寄稿:朝日新聞”. 朝日新聞 (2025年7月18日). 2025年9月23日閲覧。
- ^ a b c d e 荻野美穂『近代日本の身体統制』岩波書店。
- ^ a b c d 吉田久一『日本人口政策史』勁草書房、1959年。
- ^ 日経ビジネス電子版. “今も「結婚十訓」を引きずる少子化恐怖社会”. 日経ビジネス電子版. 2023年6月19日閲覧。
- ^ TIMES, Wireless to THE NEW YORK (1934年8月25日). “NAZIS ISSUE RULES ON CHOICE OF WIFE; ' Ten Commandments' Enjoin Men to Wed Eugenically for Children and Nation. NORDIC PURITY STRESSED Germans Told to Seek Mates, Not Playmates, and to Shun Non-Europeans.” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331 2023年6月19日閲覧。
- ^ Oranim, Ro (2019年5月27日). “The Nazi Guide to Finding the Proper Spouse” (英語). The Librarians. 2025年12月21日閲覧。
- ^ “強兵を求め優生政策”. 日本経済新聞社. 2023年2月22日閲覧。
- ^ 河合雅司『日本の少子化 百年の迷走』新潮社、2015年12月22日、85頁。ISBN 978-4106037795。
- ^ a b “公営の婚活サービス、戦前もあったの?|公文書に見る戦時と戦後 -統治機構の変転-”. www.jacar.go.jp. 2023年6月21日閲覧。
- ^ a b “歴史から学ぶ ― 産めよ、殖やせよ:人口政策確立要綱閣議決定(1941年(昭和16年)) | お知らせ”. 国際協力NGOジョイセフ(JOICFP). 2022年7月29日閲覧。
- ^ 「日本民族悠久の発展へ 人口政策要綱案なる 近く閣議に付議決定」『朝日新聞』1941年1月16日。
- ^ “(2ページ目)「産めよ殖やせよ」から「セックスレス」まで。女の100年を振り返る 『婦人公論』102年の歴史から見えてくる時代のホンネ|話題|婦人公論.jp”. 婦人公論.jp. 2023年6月21日閲覧。
- ^ “閣議後記者会見概要”. www.mhlw.go.jp. 2025年12月21日閲覧。
- ^ Inc, Nikkei (2025年6月12日). “「産めよ増やせよ」ではない”. 日本経済新聞. 2025年12月21日閲覧。
- ^ “辛坊治郎氏 戦前政策「産めよ増やせよ」標語を解説 「誰も言わなくなった」日本特有の理由とは - スポニチ Sponichi Annex 芸能”. スポニチ Sponichi Annex. 2025年12月21日閲覧。
- ^ “主張/少子化と人口減/「産む目標」より環境整備急げ”. www.jcp.or.jp. 2025年12月21日閲覧。
- ^ “「女性と出産」またぞろ問題発言…政治家はなぜ懲りない? SNSでは論点をすり替えてまで擁護に走る動き:東京新聞デジタル”. 東京新聞デジタル. 2025年12月21日閲覧。
- ^ “令和の「産めよ増やせよ」にうんざり!「保険適用なのにやらない理由がないでしょ?」少子化対策に乗じた「孫産めモンスター親たち」のヤバすぎる暴走”. FORZA STYLE | FORZA STYLE [講談社]. 2025年12月21日閲覧。
- ^ “日本女性学会による、柳澤大臣発言に関する意見書 | 日本女性学会”. 2025年12月21日閲覧。