生野コリアタウン

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生野コリアタウン(いくのコリアタウン)は、大阪府大阪市生野区桃谷にある「御幸通商店街」(御幸通東商店街、御幸通中央商店会、御幸通商店街の3商店街)とその周辺の通称。公式サイトでもこの呼称が用いられている。「大阪コリアタウン」「猪飼野コリアタウン」「桃谷コリアタウン」などとも呼ばれる。

概要[編集]

1993年から『コリアタウン』との呼称を使うようになる。それまでは「朝鮮市場」と呼ばれ(ちなみに近隣住民の中には今もなお「朝鮮市場」の愛称を使う者も少なくない)、在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが豊富に揃う生活に密着した市場であった。その呼称利用の際に東、中央の両商店街にはそれぞれ「百済門」「御幸通中央門」が完成。カラー舗装、街灯なども設置。多くの在日韓国・朝鮮人が生活する街として、その特色を際立たせた。その後、2002年日韓共催のワールドカップサッカーの開催や「韓流ブーム」の影響を受け、鶴橋駅西側(天王寺区)一体から続く大規模なコリアタウンとして有名になる。現在は在日韓国・朝鮮人はじめ地元の人々の生活スペースでありながら、観光客が多く訪れるようになり、さらに知名度をあげるため2009年から「生野コリアタウン共生まつり」が開催されている[1]

歴史[編集]

前史[編集]

上町台地の東側の緩傾斜面一帯、現在の天王寺区東部および生野区西部は古代から百済野(くだらの)と呼ばれ、百済滅亡と白村江の戦いののち、多数の百済国人が移り住んだ地のひとつとされる。奈良時代から平安時代にかけては、摂津国東成郡住吉郡のそれぞれ一部を割いて百済郡が設置されており、現在の生野コリアタウンの辺りも百済郡比定地のうちに含まれる。

百済野の北端には、まだ河内湖が残っていた時代に猪甘津(いかいつ)という港湾があり、西風に起因する高波を上町台地が防いでくれる良港として重宝されていた。『日本書紀仁徳天皇14年冬11月条に「猪甘津に橋をわたして、小橋(おばせ)と名付けた」旨の記載があり、朝鮮半島との交流が盛んだった古墳時代、かつ、上町台地上に仁徳天皇の皇居(難波高津宮)が置かれていた時代の猪甘津には、百済滅亡以前からの渡来人の存在も示唆されている。なお、猪甘津野から転じた地名が猪飼野である。

コリアタウンの形成[編集]

1910年日韓併合を経て、1922年済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航した。これを機に多くの朝鮮民族(大半は済州島出身者)が労働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となった。

大大阪時代における近郊農村の急速な都市化・工業化により、猪飼野周辺は昭和に入る頃には中小企業の密集地帯となっていた。なお、猪飼野が属した東成郡鶴橋町1925年に大阪市へ編入されている。職住が揃った猪飼野には自然と朝鮮市場が誕生し、それを核に商店街としてスタートしたのもこの頃である。

1945年の日本の敗戦後、戦前渡航者の約3分の2程度は済州島に帰ったが、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び多くの済州島出身者が日本へ渡航してきた。このような経緯から、戦前渡航者、再渡航者、戦後渡航者に三分されるが、いずれも当地の朝鮮市場を中心に生活し、日本最大の在日韓国・朝鮮人の集住地になった。「コリアタウン」にくれば韓国・朝鮮人にとって必要なものが揃う「地域に密着した商店街」として発展した。現在生野区の総人口129,554人に対し、外国人登録人口は27,669人である[2]

上述の古代の出来事と近代以降のコリアタウンの形成に関連性はないが、百済にゆかりのある土地柄から、御幸通商店街には百済門が建てられている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 生野コリアタウン共生まつり2009に2万人を越える市民らが参加 - コリアNGOセンター [1]
  2. ^ “[住民基本台帳人口・外国人登録人口 住民基本台帳人口・外国人登録人口]”. 生野区. 2019年9月11日閲覧。

外部リンク[編集]