琳聖太子
琳聖太子(りんしょうたいし)は、百済の王太子で、大内氏の祖とされる人物。ただし百済の史書『三国史記』[1]や同時代の史料には見られず、文献的には応永年間(1394年から1427年)以降に成立したと見られている[2]。一般の系図類においては、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされるが[3][4]、異なる記述もある。名は義照[要出典]。
伝説
[編集]それぞれの伝説で共通する概要は、琳聖太子は百済王の第三子であり、王命にしたがって日本に移って周防国佐波郡多々良浦に上陸し[5]、聖徳太子から周防国大内県を賜ったというものである[6]。琳聖太子もしくはその子が多々良の姓を受け、大内氏の先祖となった。
日本来航の時期は諸書によってまちまちである。文明17年(1485年)の大内政弘の朝鮮王宛書簡では611年(推古天皇19年)[7]、「大内多々良氏譜牒」は609年(推古天皇17年)、「鷲頭山旧記」は595年(推古天皇3年)に北辰尊星が降臨し、その3年後に来朝したとしている[5]。「妙見縁起」は、敏達天皇期(573 - 585年)に入朝したとしている[5]。
多々良姓の賜与については「大内政弘妙見大菩薩勧請告文」ではその子正恒[8]、『鹿苑院西国下向記』では本人が賜ったとされる[9]。
享徳2年(1453年)大内教弘の朝鮮王宛書簡では、琳聖太子は大連物部守屋を討ち、大内県を賜って「大内公」と呼ばれたとしている[7]。
琳聖太子の父
[編集]琳聖太子の父が第26代聖王(聖明王)であるという記述は大内政弘の代になって初めて現れたものである[6]。
一方で、聖王の4代後である武王璋の子であるという記述もある[10]。『朝鮮王朝実録』成宗十六年(1485年)十月七日条にある大内政弘書簡では、武王璋の子が先祖であると述べられている[11]。「大内家系」(毛利家文庫)や末武本「大内家系」においても武王璋の子とされる[1]。大森金五郎は「大内系図」や『寛永諸家系図伝』などの系図類には、聖王の子である威徳王の孫としている[12]。
文明9年(1477年)の「大内政弘妙見大菩薩勧請告文」や「文明一八年一〇月二七日大内氏家譜写」と呼ばれる写本では、聖明王の第三子とされており、この時期には「聖明の第三王子」という見解が大内氏において用いられていた[13]。一方で、朝鮮に対しては武王璋の子であるとしており、政弘は国内と朝鮮に対して異なる見解を示していたと見られる[11]。
異称としては「鷲頭山旧記」や江木本「大内家系譜」(毛利家文庫)は璋明王、また石清水本「大内家系図」では済明王、さらに「大内多々良氏譜牒」は斉明王の第三子としている[1]、『鹿苑院西国下向記』では「百済済明王の第三皇子」とされる[14]。
八木充は「鷲頭山旧記」や江木本にある「璋明王」は諱が璋の武王と明穠の聖王を組み合わせたものと仮定すれば、系図作者に特有の時代を遡上させ、系図上の始祖をより権威付ける作為が見て取れるとしている[1]。
経緯
[編集]琳聖太子の実在と大内氏の百済王後裔説は、史学的には否定されている[15]。琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献にみることはできない[2]。そもそも多々良氏は『新撰姓氏録』で「御間名国主、尓利久牟王後」とされており、任那国王の後裔であると称していた[15]。また、『朝鮮王朝実録』世宗十一月甲申条(1441年)では、大内氏の先祖は「新羅人と伽耶人の子」としており、大内氏の説明も一貫したものではない[15]。多々良氏の先祖は6世紀頃に日本に渡ってきた渡来人と見られる[15]。
平安時代末期頃から多々良氏は周防国の在庁官人としての勢力を拡大し[16]、その後周防国権介を私称したため、「大内介」と呼ばれるようになった[17]。
大内氏は少なくとも室町時代初期頃から百済王の後裔であることを称している。応永6年(1399年)、大内義弘は朝鮮王朝に対して、「我、足百済ノ後ナリ、吾ノ世系ト吾ガ姓トヲ知ラズ、百済ノ土田ヲ請ウ」として、自身の家系を示すものと封地を要求した[18][1]。朝鮮側は、封地の要求には応じなかったものの、大内氏の始祖は百済の始祖である温祚王であると回答している[18]。また、『高麗史』ではこの20年ほど前に、義弘が先祖が百済の出身であると述べていたという記述もある[19]。
「琳聖太子」の初見は、応永11年(1404年)の興隆寺本堂落慶供養時の大内盛見願文で、「当寺ハ扶桑朝、推古天王治世ノ御宇、百済琳聖太子建立ノ仏閣ナリ」というものである[1]。盛見の時代には周防国衙跡にあり「府中車塚」と呼ばれていた車塚古墳が整備され、大内氏の先祖の墳丘である「多々良宮」と呼ばれるようになった[20][21]。
享徳2年(1453年)には大内教弘が朝鮮国王端宗に対して「聖徳太子の時代に百済王が太子を日本に遣わし、大連(物部守屋)を討った功績によって大内の地を賜り、大内公と呼ばれた」という書を送っており[18]、琳聖太子が大内氏の先祖であるということを初めて示すものとなった[1][19]。
教弘の子である大内政弘の代においては琳聖太子の存在はさらに強調された。 文明17年(1485年)には朝鮮に使者を送り、大内氏の始祖を確定するため百済の史書を要求している[19]。 文明18年(1486年)、政弘は興隆寺を勅願寺とするため、後土御門天皇に「大内多々良氏譜牒」を提出した[22]。
またこの時代に成立したと見られる足利義満の西国巡行を記した『鹿苑院西国下向記』では[注釈 1]、ある法師が問いかけに対して大内氏の始祖伝説を語る節がある。この「百済国済明王第三王子琳聖太子」の記述は本文としては唐突であり、『下向記』の成立が大内氏と深い関係にあることや、のちから挿入された可能性が指摘されている[24]。
興福寺大乗院門跡尋尊は『大乗院寺社雑事記』文明四年五月二七日条で、「大内は本来日本人に非ず、蒙古人也、或いは高麗人也」と記している。その3年後の文明七年八月十五日条では、「百済国聖明王末也云々」との記述がみえる[25]。この時期、政弘は中央政界に向けて自らが百済王後裔であることを喧伝していたと見られている[25]。
天文21年(1552年)、大寧寺の変後に大友氏から迎えられた当主・大内義長は、九州から国入りするに当たって、自らを琳聖太子になぞらえ、多々良浜に上陸している[26]。
妙見信仰との関連
[編集]琳聖太子は後に妙見信仰と深く関連付けられるようになった。大内氏は鎌倉時代頃から大内村に存在した氷上山妙見社(興隆寺の境内社)と関係が深く[27]、明徳3年(1392年)には「氏神妙見大菩薩」という表現が見られるようになっている[28]。また大内氏の支流で大きな勢力を持った鷲頭氏の領内にあった鷲頭山妙見社(現在の妙見宮鷲頭寺)は氷上山の妙見社の勧請元であった[29]。
『鹿苑院西国下向記』では、「百済済明王の第三皇子」である琳聖太子が、大内氏の祖神であるとされていたが、この時点では妙見との関係は明示されていなかった[14]。これより後の大内氏の伝承では、北辰(北極星、妙見の異称)が日本に来航した琳聖太子を守護していたという表現が見られるようになる[26]。
山口県下松市の地名は、「大内多々良氏譜牒」にある鷲頭庄青柳浦の松の木の上に、大きな星が落ち、七日七夜照り輝き、妙見大菩薩と呼ばれたという記述が由来ともされる[30]。
熊本県の八代神社には妙見神が八代近くの竹原津に上陸したという伝承があるが、琳聖太子として上陸したという節もある[31][32]。隣接する鎮宅霊符神社では祭神とされており、鎮宅霊符神と同一視されている[32]
現在
[編集]大内家の45代当主と自称する船橋市在住の男性が、2009年に韓国益山市にある百済王陵を訪れ、歓迎を受けた[33][34]。
遺跡としては琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀四丁目の乗福寺に残っている。ただし現存する琳聖太子関連の遺跡や遺品の制作年代は室町時代であるとみられる[19]。
伝説生成の理由
[編集]一般に武家において先祖を粉飾する例は多い[注釈 2]。しかし多くの武家が源平藤橘のような日本の名族に先祖を求めるのに対し、大内氏が百済とのつながりを主張しだしたのは注目に値する[19]。
大内氏が百済との繋がりを強調し始めたのは、朝鮮半島との貿易を重視した大内義弘であるとみられる。その中でより朝鮮半島との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したとみられる。外来系の諸侯がいたところで不思議ではないが、それがどこまで世間の「歴史常識」となっているかは疑問であり、外来系と称していながら、ほんとうは怪しいといったケースも多々あり、とくに外来系という系譜を持った家は、大内家に代表される西日本に多い[2]。「大内」というのは、その居所の広さを時の人が尊んでいったもので、琳聖太子9世の子孫のときから、それを名字にしたというが、福尾猛市郎によると、琳聖太子などというのは、この大内家の先祖に関してしか出てこない名前であり、実在を証明する史料はない[2]。
二階堂善弘は高貴な太子が地位を捨て、外国で神となるという説話は、道教の神である真武大帝のものをもしたものではないかとしている[32]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 下松市史編纂委員会 1989, p. 112-113.
- ^ a b c d 鈴木眞哉『戦国武将のゴシップ記事』PHP研究所〈PHP新書〉、2009年5月16日、11-12頁。ISBN 4569709559。
- ^ 松田甲『日鮮史話 第2編』朝鮮総督府、1926年、1頁。
- ^ 『山口県史 上巻』山口県史編纂所、1934年、60頁。
- ^ a b c 下松市史編纂委員会 1989, p. 113.
- ^ a b 平頼直樹 2014, p. 44.
- ^ a b 平頼直樹 2014, p. 61.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 52.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 57.
- ^ 岡田僑『日本外史補 新訳』新潮社、1912年、40頁。
- ^ a b 平頼直樹 2014, p. 62.
- ^ 大森金五郎『国史概説』日本歴史地理学会、1910年、481-484頁。
- ^ 平頼直樹 2014, p. 57-58.
- ^ a b 平頼直樹 2014, p. 44-45.
- ^ a b c d 渡辺滋 2023, p. 66.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 71.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 68.
- ^ a b c 平頼直樹 2014, p. 55.
- ^ a b c d e 金羅喜 2017, p. 13.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 45.
- ^ 渡辺滋 2023, p. 66-67.
- ^ 金羅喜 2017, p. 25.
- ^ 金羅喜 2017, p. 22.
- ^ 金羅喜 2017, p. 24.
- ^ a b 金羅喜 2017, p. 30.
- ^ a b 平頼直樹 2014, p. 51.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 37.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 38.
- ^ 平頼直樹 2014, p. 39.
- ^ 下松市史編纂委員会 1989, p. 111.
- ^ “妙見祭の由来・由緒 - ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭”. ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭 - ユネスコ無形文化遺産 熊本県八代市 国指定重要無形民俗文化財 八代妙見祭の神幸行事 (2015年2月18日). 2025年10月19日閲覧。
- ^ a b c 二階堂善弘「妙見信仰と真武信仰における文化交渉」『東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian Cultural Interaction Studies』第5巻、関西大学文化交渉学教育研究拠点(ICIS)、2012年、21頁、ISSN 18827748、NAID 110008792475。
- ^ “百済王家末裔が船橋に! 習志野で企画展、資料など200点展示 千葉”. 産経新聞. (2015年11月18日). オリジナルの2022年1月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “百済と日本結ぶ韓日友好の願い…琳聖太使45世孫 大内公夫さん”. 在日本大韓民国民団. 民団新聞 (2014年3月19日). 2021年1月5日閲覧。
- ^ 林亮勝・橋本政宣・斎木一馬『寛永諸家系図伝 第1』続群書類従完成会、1980年1月1日、14頁。ISBN 4797102365。
参考文献
[編集]- 下松市史編纂委員会「第六章 律令国家の解体」『下松市史 通史編』下松市、1989年。2025年10月18日閲覧。
- 平頼直樹「<論説>室町期における大内氏の妙見信仰と祖先伝説」『史林』第97巻第5号、京都大学史学研究会、2014年、ISSN 0386-9369。
- 金羅喜「大内義弘の百済先祖伝承の意義」『国文学研究ノート』第56巻、神戸大学「研究ノート」の会、2017年、doi:10.24546/e0041512、ISSN 03858189、NAID 120006653234。
- 渡辺滋「古代の多々良氏から中世の大内氏へ―国衙在庁の中央出仕とその後―」『山口県立大学学術情報:国際文化学部紀要』第16巻、2023年、ISSN 21894825。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “〈2〉朝鮮貿易意識した系譜”. 読売新聞. (2004年10月2日). オリジナルの2009年2月12日時点におけるアーカイブ。