琉球侵攻

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琉球侵攻
戦争:琉球侵攻
年月日慶長14年(1609年3月7日 - 同年4月5日
場所琉球王国(現・沖縄県鹿児島県奄美群島
結果薩摩藩の勝利、琉球の降伏
交戦勢力
薩摩藩 Japanese Crest maru ni jyuji.svg 琉球王国 Hidari mitsudomoe.svg
指導者・指揮官
樺山久高
平田増宗
など
尚寧王
謝名利山
名護良豊
豊見城盛続
今帰仁朝容 
など
戦力
約3,000人 10,000人以上(沖縄本島、約4,000人)
損害
100〜200人[1] 不明
復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島 先島諸島
旧石器時代 先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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琉球侵攻(りゅうきゅうしんこう)は、薩摩藩1609年に行った、琉球王国(中山)版図に対する軍事行動を指す。対する中山王府は、一貫して和睦を求める方針をとり、全面的な抵抗を試みることはなかった[2][3][4]

名称について[編集]

この事件については、かつて琉球入[5]琉球征伐[6]など日本側の同時代史料に基づいた呼称や、これを漢語風に言いかえた征縄役[7]などの呼称が用いられた。一方、琉球史料『中山世鑑』はこれを己酉の乱と称する[8]。現在の学校教科書や歴史事典等では勝者の立場を正当化する「征伐」の語が使用されることはなく[9]、薩摩島津氏が琉球王国を武力で征服した事実に基づいて、「侵攻」「出兵」「征服」「占領」などの表現が用いられている。

背景と要因[編集]

琉球・日本間[編集]

背景[編集]

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球王国と日本との衝突が起きていた。それ以前の14世紀には奄美南部の沖永良部島与論島徳之島は既に琉球王国の支配下に入っており、15世紀半ばまでには奄美群島全域が琉球の支配下に入っていた。(なお、種子島・屋久島は古代から大隅国の一部であったし、トカラ列島はこの時期、薩摩国寄りの日琉両属関係にあった。)

この時期の日本本土は室町末期から戦国時代の真っ最中であり、薩摩・大隅守護の島津氏も本土での戦争に掛り切りであった。しかし、豊臣秀吉朝鮮出兵を経て徳川氏の治世に至り、戦国に勇名を轟かせた島津氏も秀吉、関ヶ原と連敗が続き、薩摩藩としての地場固めも兼ねた南進が現実味を帯びてくるようになる。

侵攻の直前の時期である17世紀初頭は、後述の朱印船貿易が始まるが、島津氏が琉球との貿易利権の独占を狙い、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求。琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり[10]、その両者の緊張関係が琉球への侵攻に至る過程に大きく影響したと考えられている。

なお、琉球侵攻の時点では徳川幕府鎖国政策は始まっておらず、当時の琉球周辺を日本列島の船の多数が往来していた[要出典]。琉球侵攻の3年後、1612年から段階的に鎖国政策が進められた。

戦端[編集]

日本側史料『南聘紀考』によれば、侵攻は次のような経緯(名目)で起こったとされる。

1602年仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山王府は最後までこれに応じなかった。1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。このように、同時代の日本側の記録は、本事件の根本的原因を謝名の人格的要因に帰し、これを幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけている[3]

琉球・明国間[編集]

当時琉球王国はにも冊封しており、薩摩の侵攻に対し王府は明に救援を求めた。しかし明は侵攻に関し一切救援を送らないどころか、これを黙殺した。琉球関係で日本に対し初めて抗議をしたのは、代末期、1872年(明治5年)の琉球処分での琉球王国廃止、琉球藩設置に際してである。

当時の明は実態として、豊臣秀吉朝鮮出兵による朝鮮半島での日本との戦闘に、多大な出費と負担を強いられ国力が疲弊しており、とうてい琉球支援のために渡海遠征を行える状態ではなかった。1644年にその明は滅亡した。

また、明・清代と、継続して海禁政策による倭寇対策や大陸の引き締めに腐心しており、冊封国と雖も遠海の小国の支援には消極的だった事も背景にある。

日本・明国間[編集]

当時の両国間の貿易は、1549年に勘合貿易が途絶えて以降は商人や倭寇(後期倭寇)による私貿易・密貿易が中心であった。日明間の貿易は朝鮮出兵以降は断絶状態であり、私貿易・密貿易が盛んであった。1604年には日本側も倭寇を統率する目的で朱印船貿易を開始。朱印船貿易により東南アジア各地との交易が盛んとなるが、その矢先の出来事であった。

軍事侵攻[編集]

奄美大島へ[編集]

薩摩軍は総勢3000人、80余艘であった。大将は樺山久高、副将平田増宗である。1609年2月26日[11]山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に出港した。同日亥刻、口永良部島に着く。6日辰刻に出船し、7日申刻には奄美大島に到着した。

当時の奄美大島は琉球の支配下にあったが、大島での戦闘は一切無く[11]、大島の現地首脳(按司)は中山(琉球)を見限り、薩摩に全面的に協力した[12][13]

7日申刻に大島深江ヶ浦に着き、8日には周辺を打廻った[14]。薩摩軍は、笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いていたが、そんな人衆はおらず何事も無く終わったという[14]。彼等は悉く山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った[11]。薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在したが、12日には出船し、大和浜を経由して16日には西古見に着く。ここで順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。

中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、接触すらなかった[3]。以文はどこかに隠れていて薩摩軍と出合わず、後で勘気を蒙ったとする史料がある[11]。なお、戦闘があったことが記載されている史料もあり[15]、これを支持する研究者もいる[16]

徳之島へ[編集]

3月16日、13艘が徳之島へ先行した[14]。これに対し徳之島では一部島民が果敢に抵抗したが、速やかに制圧された[11]

かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。

湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。

秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという[15]。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た[15]

徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている[14]

本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。

本島[編集]

3月25日酉刻過ぎ、薩摩軍は沖縄本島北部今帰仁運天港に到着した。27日には今帰仁城に行ったが、空き屋だったので、方々に放火した[14]。薩摩軍が向かう前に逃げ落ちたという[11]

薩摩軍が今帰仁に到着すると、西来院菊隠が和睦の使者に選ばれた[3]。菊隠は琉球人だが、若くして出家して日本に十数年遊学し、帰国後は首里の円覚寺住職を勤め、この頃は老齢のために退職していた[2]。人選の理由としては、島津三殿と知り合い[3]、日本語に達者[2]との説がある。菊隠は最初は断ったが国王に重ねて召されたため、国恩に報いるべく、已むを得ず詔に応じたという[2]

「行向て無為和睦を申調られよ」との詔を奉じた菊隠使節団は、26日辰刻に陸路で出発した[3]。随行の人員には名護親方や喜安などがいた。26日午刻に久良波に着くが、ここで今帰仁までの道は敵で満ちており通れないと聞いた一行は、久良波から漁師の舟を出させて恩納に行った。27日払暁、恩納より船で出発、親泊で一時停泊して、「使者を出して趣意を述べさせる」案を議論していたところ、薩摩船一艘がやって来た。この船に乗り移り今帰仁に着いた[3]。菊隠の趣意について兼篤は、「ただ合戦を止められるべし、進退は宣く乞に随うべし(進退はおっしゃる通りにいたします)」とし、さらに菊隠到着直後に、またまた使僧が到着したことも報告している[11]。運天で決定したのは、那覇で和睦の談合を行うという事であった。この結果、名護親方が人質になった[3]

29日早朝[14]、菊隠は薩摩船団とともに運天を出港、同日酉刻大湾に着く。菊隠使節団のみすぐ再出港して亥刻に牧港に着いた。そこから徒歩で夜更けに首里城到着。報告を済ませて夜明け頃には那覇に下って待機した。

運天での和睦申し入れを受けて、樺山は悉く那覇港に行くつもりであったが、ここで那覇港の入り口に鉄鎖が張ってあると聞いた。そこで4月1日、樺山は数人の物主を船で那覇港に向かわせる一方、残りは総て陸に挙げ[17]、1日卯刻、首里への行軍を開始した[11]。この頃、和睦の旨を万が一にも違えじということで、具志頭王子が大湾の沖まで出向いたが、薩摩軍は既に陸地から発向した後だったので虚しく帰った[11]

薩摩軍は浦添城龍福寺を焼き払いつつ首里に接近した[3]。情報に基づいて、太平橋に宗徒の(むねと。中核となる侍)百余人を配置したところ、会敵には成功したが、雨のように鉄砲を打ちかけられ、城間鎖子親雲上盛増(城間盛久の長男)は被弾してそのまま首を取られ、その他全員は戦意喪失して首里城に逃げ込んで終わった。一方で中山王府の御典薬を勤めていた山崎二休なる越前人が、首里城のアザナに立てこもって法元弐右衛門の部隊を撃退した[18]。このような戦闘行動について、小湾浜にいて、那覇首里の様子を聞き合せようとの議定だったが、足軽衆が首里へ差し掛かり、鉄砲を取合い、特に方々に放火したので、計らず軍衆は首里近く差し掛かったとする史料[14]があり、足軽衆が発砲して放火したものの、その他の軍衆については、あくまで仕方なく首里に接近しただけであると薩摩側では主張している。大湾・首里間で「和平を成するに狼藉然るべからず」との下知があった、そのうちいよいよ和議が成ったので諸軍勢は那覇に入った[11]

4月1日未刻、薩摩船が那覇港に入り、和睦の調があった。列席者は薩摩側:大慈寺、市来織部、村尾笑栖。琉球側:具志上王子尚宏、西来院(菊隠)、名護、池城安頼豊美城續、江栖栄真、喜安、津見などであった。するとにわかに「首里で火事だ」と騒がしくなった。「昼なのだから、手あやまりによる火事ではない。敵が攻めてきて火をかけたのだろう」と思われた。止めてくるといって、市来織部と村尾笑栖が首里まで駆け上がり、程なくして静まった。

結局、首里侵入事件は、摂政・具志上王子と三司官が人質になる事で決着した[14]。実際に彼らが引き渡されたのは2日である[3]。ともあれ、これをもって4月1日、申之刻(午後4時)、那覇に薩摩全軍撤退完了[14]。大規模軍事行動はひとまず終結した。

戦後処理[編集]

3日、国王下城の前準備として、荷物の持ち出しが行われていた。このとき、浦添親方の子息、真大和、百千代、真かるの三兄弟[3]とその同志、総計20名[14]が、縄をもって首里城を脱走した。直ちに追撃を受け、識名原で討ち取られたが、同時に加治木衆の武将・梅北照存坊を討ち取るという手柄を挙げた。

4日、国王下城。名護親方の屋敷に移った。5日から「城内之荷物御改」すなわち宝物の目録作成が開始された。12〜13日かかった。16日、崇元寺において、樺山、平田と尚寧王が対面した。5月15日、尚寧王は鹿児島へ出発した。

1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府で家康に、8月28日江戸城にて秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。

1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文に署名させられた。これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首されている。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、那覇に在番奉行所を置いて琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球ととの朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、にも朝貢を続けた。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清帝国使節が来た際に用いる中華風のものを着させた。

また侵攻当時、トカラ列島は薩摩国寄りの日琉両属体制下にあり、奄美諸島は琉球王国の支配下にあったが、侵攻後は与論島までの領域が薩摩藩直轄領となった。ただし名目上は琉球王国の一部とされた。明治維新後の廃藩置県により鹿児島県に、追って1879年明治12年)4月の太政官通達[19]により大隅国に編入され、日本の領域となる。

脚注[編集]

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  1. ^ 『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』「維新公御文抜書」、1984年
  2. ^ a b c d 『琉球国由来記』「西来禅院記」
  3. ^ a b c d e f g h i j k 喜安日記
  4. ^ 「球陽附巻」12号
  5. ^ 「琉球渡海日々記」には琉球入番衆主取なる役名が見られる。
  6. ^ 肝付兼篤書状」に「琉球国御征伐」とある。
  7. ^ 国土交通省 奄美群島の概要
  8. ^ 『琉球国中山世鑑』巻之二
  9. ^ 「琉球入」の呼称については、高良倉吉の批判がある。(『琉球王国の構造』吉川公文館、1987年、ISBN 9784642026536 pp.234)
  10. ^ 上原兼吾「琉球貿易」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0) P1087
  11. ^ a b c d e f g h i j 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ2』「肝付兼篤書状」
  12. ^ 『奄美大島諸家系譜集』「笠利氏家譜」
  13. ^ 『奄美大島諸家系譜集』「前里家家譜」
  14. ^ a b c d e f g h i j 『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』「琉球渡海日々記」
  15. ^ a b c 『鹿児島県史料 旧記雑録後編4』「琉球入ノ記」
  16. ^ 上里隆史『琉日戦争一六〇九―島津氏の琉球侵攻』ボーダーインク、2009年、ISBN 9784899821700 pp.242
  17. ^ 「樺山権左衛門久高譜中」
  18. ^ 「球陽附巻」史料番号5
  19. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]