王錫 (南朝梁)

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王 錫(おう しゃく、499年 - 534年)は、南朝梁官僚は公嘏。本貫琅邪郡臨沂県

経歴[編集]

王琳の次男として生まれた。幼くして聡明であり、兄弟たちと学問の講義を受け、休憩に入ると兄弟たちは立ち去ったが、王錫はいつもひとり居残って立ち上がらなかった。7・8歳のとき、母の義興昭長公主蕭令嫕(南朝梁の武帝の同母妹)に従って宮中に入ると、武帝が王錫に面会してその賢さを褒めた。王錫は学問に取り組んで飽きず、そのために右目を悪くした。蕭令嫕は学問の講義があるたびに、かれの部屋を飾り立てたが、王錫は子どもでありながら、そうしたことに興味を持たなかった。

12歳で国子生となり、14歳で清茂に挙げられた。秘書郎に任じられて、張纘と名声をひとしくし、ともに太子舎人となった。父が死去すると、喪に服して礼を尽くした。服喪が終わると、太子洗馬に任じられた。ときに昭明太子蕭統がまだ幼く、臣僚と触れ合ったことがなかったが、武帝は王錫と張纘に太子の師友として仕えるよう命じた。王錫は外戚として永安侯に封じられた。晋安王友に任じられたが、病と称して赴任せず、勅許を受けて建康にとどまった。晋安王蕭綱加冠の日には、王府の同僚が王錫の仕事を代行した。

普通初年、南朝梁が北魏と和平を結び、北魏の使者の劉善明が来朝したため、武帝は中書舎人の朱异に応接させた。劉善明は王錫と張纘の名声を聞き知っており、ふたりを指名して面会を望むと、南苑に宴会が設けられ、劉善明・朱异・王錫・張纘の4人による会談がおこなわれた。経書史書を縦横に論じ、諧謔に満ちた会話がおこなわれ、劉善明を感嘆させた。

王錫は中書郎に転じた。24歳のとき、給事黄門侍郎・尚書吏部郎中とされたが、外戚であるために重用されることを不本意として、病と称して任を受けなかった。以後は賓客を拒絶し、家に引きこもって静かに暮らした。

中大通6年(534年)正月、死去した。享年は36。侍中の位を追贈された。は貞子といった。

子女[編集]

  • 王汎
  • 王湜

伝記資料[編集]