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王 蔭泰(おう いんたい)は、中華民国の政治家。北京政府・奉天派に属した。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)でも要職をつとめている。字は孟群。父は清末民初の政治家・学者である王式通。本貫は浙江省紹興府山陰県。
北京政府での活動[編集]
日本に留学し、1906年(光緒32年)、第一高等学校を卒業した。続いてドイツに留学し、ベルリン大学法科を1912年(民国元年)に卒業している。1913年(民国2年)に帰国し、北京政府の法制局等で各職を歴任する。また、北京大学法科講師、高等検査庁判事もつとめた[1]。
1919年(民国8年)、敵国財産管理処法律顧問兼庫倫(ウランバートル)特派員となる。1920年(民国9年)、庫倫宣撫署総務処処長に異動した。1921年(民国10年)に東北に赴き、張作霖の顧問となっている。1926年(民国15年)6月、北京政府外交部次長、関税会議代表、中俄(中ソ)交渉委員会委員長に任命された[1]。
1927年(民国16年)6月、王蔭泰は潘復内閣の成立と共に外交総長に昇格する。また、条約研究会副会長、中華匯業銀行総経理もつとめた。1928年(民国17年)2月、姚震の後任として司法総長に異動する。これにより王蔭泰は北京政府最後の司法総長となった。同年6月、北京政府・奉天派の敗北とともに、王蔭泰は東北へ逃れ、さらに上海へ移って弁護士を開業した[1]。
親日政府での活動[編集]
1937年(民国26年)12月、王蔭泰は王克敏らの中華民国臨時政府に参加し、実業部総長に就任した。1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘(汪精衛)らの南京国民政府と合流すると、王蔭泰は華北政務委員会常務委員兼実業総署督弁に任ぜられている。1943年(民国32年)11月、華北政務委員会農務総署督弁兼総務庁庁長となる。1945年(民国34年)2月、王克敏の後任として華北政務委員会委員長に昇進した[1]。
日本敗北後の1945年(民国34年)12月5日、王蔭泰は漢奸として国民政府に逮捕され、1946年(民国35年)10月8日、南京高等法院で死刑判決を宣告される[2][3]。しかし1947年(民国36年)12月に、最高法院の上訴審で無期懲役に減刑され、上海で収監された[2][4]。中華人民共和国建国後も上海で収監され続けている。1961年12月15日、獄中で病没[2][5]。享年76。
- ^ a b c d 徐主編(2007)、159頁。
- ^ a b c 余ほか(2006)、1482頁、1615頁。
- ^ 「王蔭泰に死刑宣告」『朝日新聞』(東京)1946年10月10日、2面。
- ^ 徐主編(2007)、159頁は、1947年(民国36年)に南京で銃殺刑に処されたとしているが、誤りである。
- ^ 上海地方志弁公室ホームページ。
参考文献[編集]
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